セント・ポール大聖堂を征く

●征くシリーズ ●取材・執筆・写真/本誌編集部 ●写真提供/セント・ポール大聖堂

ランドマークとして、ロンドンの空に大きなドームを突き出すセント・ポール大聖堂。
年間200万人以上の来訪者を誇り、国内外から愛されているロンドンの名所だ。
2001年から行われてきた大規模な修復工事もようやく最終段階に入り、1708年の建設当初と同じ輝きを取り戻しつつある。
今回は、落成300周年を迎えたセント・ポール大聖堂を征く。

大火に消えたセント・ポール

1666年9月に起きたロンドン大火。ロンドン・ブリッジ近くのパン屋の釜戸から火の手があがり、4日間に渡り燃え続けた火はロンドン市内の家屋の85%、1万3200戸を焼き尽くし、中世都市ロンドンを無残な姿に変えてしまった。火がたちまちのうちに燃え広がった最大の原因は、それまでの家屋が木造であったことと、道幅が狭く消防活動が滞ってしまったことだった。この惨事を教訓に翌年には「再建法」が制定され、家屋はすべてレンガ造か石造とされ、木造建築は禁止されるようになり、道路幅にも規制がもたらされた。81年に世界初の火災保険がロンドンで誕生したのもロンドン大火がきっかけだった。

1666年に起きたロンドン大火の模様を伝える絵画
この大火で焼失したものは家屋だけにとどまらず、90近い教会や公共事業施設も破壊され、旧セント・ポール大聖堂もそれに含まれていた。この大聖堂はノルマン人により11世紀に建造されたもので破損が激しく、17世紀初頭から修復の必要性が叫ばれていた。1633年に修復工事が開始されたものの、42年に清教徒革命が勃発すると中断させられ、それに続くクロムウェルの共和国時代には、教会に対する敬意そのものが希薄になり、その当時の多くの教会と同様、本来の機能を失い、聖堂内は馬屋や市場と化した。
60年に王政が復古すると、チャールズ2世は荒廃しきった大聖堂を今度こそ甦らせようと、大聖堂から商人たちを締め出し、本格的な修復計画に乗り出した。英国王室の建築家であったクリストファー・レンが要請を受け、彼の修復計画に認可が下り、修復工事にとりかかろうとしていたその1週間後、ロンドン大火は起きた。
致命的な損傷を負った旧セント・ポール大聖堂は、修復どころか解体を余儀なくされ、レンは大聖堂を一から再建することになった。これが今現在ロンドンの景観のひとつとして欠かせないセント・ポール大聖堂(以下、セント・ポール)となるのである。

ドームにみるささやかな反逆

写真上:第2の設計案となった「グリーク・クロス」案。縦と横の長さが等しいギリシャ十字の形が不評を買った。
写真下:ラテン十字と小さなドームに尖塔という形の「正式許可設計案」。レンが修正を施さなければ、今頃ロンドンにはこの形のセント・ポールが立っていることになる。
1日も早い再建が待たれていたものの、実際の建設作業に取り掛かるまで、5年近い年月が経過した。というのも、新セント・ポールは1534年の英国国教会成立以来、初めて建設されるアングリカン・チャーチ(英国国教会系教会)となるため、国王はじめ聖堂参事会や聖職者たちの要望や期待が大きく、設計案が決定するまでに二転三転したからだ。
まず、レンの最初の設計案は、首都ロンドンのランドマークとなる大聖堂にしては見栄えもせず荘厳さに欠けると却下された。第二の案は「グリーク・クロス」と呼ばれる、上から見るとギリシャ十字の形をしたものだったが、伝統を踏まえていないと却下され、上が短く下が長いラテン十字に変更するよう迫られた。改訂案は国王に受け入れられ工事が始まったものの、参事会や聖職者たちに不評だったことに加え、建設費用がかかりすぎるという理由で断念せざるを得なかった。多くの関係者の要望に応えるために二度手間、三度手間にも耐えてきたレンは次第に苛立ちを覚えるようになっていた。

「グリーク・クロス案」に改訂を加えた設計案の模型。1673年に作られたもので、現在大聖堂内のトロフィー・ルームに設置されている。この設計案も聖職者の反対と金銭的な理由により断念せざるを得なかった。
第三の案は、これまでの経緯を踏まえ、誰もが納得するようなラテン十字の上に小さめのドームと長い尖塔を施したもので、75年に国王の許可を得、「正式許可設計案」と名づけられた。しかし、これはレンの本当に作りたい大聖堂の形ではなかった。そして、上の設計案を見ていただけばわかるように、現在聳え立つセント・ポールの形でもない。

ドーム内側に描かれたジェイムズ・ソーンヒルによる天井画。モザイク装飾を施したいというレンの意志は汲まれず、「モザイクは高価で時間がかかりすぎる上、奇異な感じがする」という参事会側が勝手にソーンヒルと契約を結んでしまった。ちなみにソーンヒルはハンプトン・コートの壁画を手がけたことでも知られる。
レンは、聖堂内に広がりのある空間を作るためには大きなドームが不可欠と考えており、その大型ドームにさらに高い尖塔をつけるつもりはなかった。設計案を提出した際に、「根本的な部分でなく装飾的な部分であれば、設計案に変更を加えても構わない」という許しを国王からとりつけたレンは、図面の公表を頑なに拒み、ドームの建設を後回しにし、建設段階に入っても囲いを立てて現場を見られないようにした。そうすることによって外野から『茶々』が入るのを防ぎ、最終的に自分の思い描いていたドーム、つまり現在の形のドームを完成させてしまうのである。
これは教会参事会や聖職者たちの圧力や批評に対するレンの反逆でもあった。というのも、レンは工事の進行が遅れていることを理由に、建設から20年余り経過した時点で俸給を半減させられ、工事が完了するまで残りを支払わないと言い渡されていたからだ。しかし実際には、再建工事の進行は遅いどころか、異例の速さで進められていた。
旧セント・ポールやウェストミンスター寺院が150年以上もの年月を経て完成しているのに対し、新セント・ポールは約35年の工期で、設計者が生存しているうちに(落成時レンは76歳)完成したイングランド最初の大聖堂だった。謂われない非難と処分を受けたレンが報復の意味も込めて、ドーム案だけは譲らなかったのも容易に納得できる。

レンの墓碑。息子クリストファーによる「この大聖堂とロンドンを創設したクリストファー・レン、ここに眠る。享年90。己がためでなく、人々の幸福のために生きた。レンの記念碑を探している者は周りを見よ」という言葉がラテン語で刻まれている。
ドームと、ドームを廻る回廊の工事中、週に1度は必ず籠で昇降して作業の進み具合を入念に点検していたというレンも、工事が終盤にさしかかる頃には70代になっており、指揮監督や実務のほとんどはレンの息子に任せていた。そして、彼の76回目の誕生日である1708年10月20日、実子が最後の石材を頂に置くのを、レンは静かに見守っていたという。参事会や聖職者たちとの確執がつねにつきまとい、多くの箇所で妥協を強いられたレンにとって、思い描いていたとおりのドームの完成は感慨深かったに違いない。
設計案考案から落成まで、セント・ポールにおける任務はレンにとって妥協や葛藤の連続だった。設計案が無視された部分も少なくなく、レンが100%納得できる形には完成しなかった。それでもレンは晩年、91歳で亡くなるまで定期的にセント・ポールを訪れては、時に点検するように、時に誇らしげに自分の作品を眺めていたという。

クリストファー・レン Sir Christopher Wren

1632年10月20日 - 1723年2月25日

17世紀を代表する英国の建築家。英国にバロック建築をもたらしたことでも知られる。建築のみならず多方面で才能を発揮し、同時代に生きたアイザック・ニュートン(1643-1727)に「世界で三指に入る幾何学者」といわしめた数学者でもあり、天文学者、科学者でもあった。現存する最も古い学会として知られる王立協会The Royal Societyにおいては、ニュートンやロバート・ボイル(アイルランド出身の物理学者、化学者)やロバート・フック(物理学者)などと同様、創設時の主要会員であった。
ロンドン大火後に都市復興に努め、セント・ポール大聖堂をはじめ、50以上の教会の再建にあたり、今日のロンドンを形づくった人物。建築規制を設け、新たな惨事を招かないための「再建法」を定めたのもこの人。

レンの主な建築物

● ハンプトン・コート宮殿 Hampton Court Palace
● ケンジントン宮殿 Kensington Palace
● グリニッジ天文台 Royal Greenwich Observatory
● グリニッジ・ホスピタル Greenwich Hospital
● 王立劇場 Theatre Royal
● テンプル門 Temple Bar

大英帝国の精神が宿る場所

セント・ポール大聖堂は英国史を飾る多くの偉人が眠っていることでも知られ、地下納骨堂では、彫像や記念碑、顕彰碑などとともに、国民的英雄たちの墓碑や石棺などを見ることができる。ここに最初の埋葬者として名を連ねたのが、ほかでもないクリストファー・レンだった。そして、ネルソン提督、ウェリントン公を筆頭に、英国を大英帝国ならしめるのに貢献した100以上もの偉人たちがレンに続いた。

写真左:ネルソン提督の墓碑
写真右:ウェリントン公の墓碑
1997年に『大英帝国衰亡史』で山本七平賞と毎日出版文化賞をダブル受賞した中西輝政京都大学教授はその著書の中で、土地も資源も限られていたヨーロッパの小島であった英国が世界の4分の1もの面積を制覇する大国になるに至ったのには、国民の不撓不屈の精神によるものが大きいと綴っている。地下納骨堂で錚々たる英雄たちの墓碑を前にすると、英国からいかに多くの偉人が輩出されているかに驚かされると同時に、これらのモニュメントが偉人たちの生きざまと精神を後世に伝える重要な役割を果たしていると感じた。
先人の高貴な精神を受け継ぐことは現代においてかけがえのない指針となるだろう。そして、その指針は英国民のみならず、世界中から訪れる人々にも与えられているのだ。

セント・ポール大聖堂で行われた

主な国家式典

1806年 ネルソン提督の葬儀
1852年 ウェリントン公の葬儀
1897年 ヴィクトリア女王即位60周年記念式典
1901年 ヴィクトリア女王追悼式
1965年 サー・ウィンストン・チャーチルの葬儀
1977年 エリザベス2世即位25周年記念式典
1981年 チャールズ皇太子とレディ・ダイアナ・スペンサーの結婚式
1995年 欧州における第二次世界大戦終結50周年記念式典
2000年 エリザベス皇太后の100歳誕生記念式典
2001年 アメリカ同時多発テロ事件犠牲者追悼式
2005年 ロンドン同時爆破テロ事件犠牲者追悼式

ロンドン大空襲を生き抜いたセント・ポール大聖堂

第二次世界大戦中の1940年9月から翌年7月にかけ、ロンドンは「ブリッツBlitz」(=ドイツ語で雷撃、電撃を意味する言葉)と呼ばれるドイツ空軍の激しい爆撃を受けた。ロンドン塔の北側が破壊され、国会議事堂は上・下院、図書館ともに被弾、ギルドホールや裁判所、バッキンガム宮殿なども被害を被り、セント・ポール大聖堂も爆撃の対象となった。当時の首相、チャーチルはドイツ軍の攻撃がある度に「セント・ポールは大丈夫か?」と心配していたという。

1940年12月のロンドン大空襲の模様
1940年9月12日、セント・ポール境内の地中深くに撃ち込まれた時間差爆弾(遠隔で爆発時刻を操作できる爆弾)を、英国陸軍工兵隊副官のロバート・デーヴィスが発見し、安全に除去することに成功。直径30メートルものクレーターができるほどの威力を持つ爆弾だったというから、予定どおり爆発していたら、セント・ポールは致命的な被害を被り、レンの大作も一瞬にして塵と化していたかも知れない。
その後もセント・ポールは数回爆撃を受けたが、いずれも大事には至らずに終戦を迎えることができた。
ロバート・デーヴィスはこの功績を受け、英連邦及び外国との関係で傑出する功績のあった個人に与えられるジョージ・クロス(聖ジョージ勲章)を授与された。

次世代に託された思い

ドーム下、北東側から望む主祭壇
ドームの頂に最後の石材が置かれてから300年―。セント・ポール大聖堂では、落成300周年にあたる2008年を祝うべく、大掛かりな清掃作業と修復工事が行われてきた。つい最近までドームの下部分に足場が巡らされ、外観写真が転写された布で覆われていたのを覚えている方も多いだろう。これは総額4千万ポンド(約80億円)をかけた一大プロジェクトで、「the St Paul's Cathedral 300th Anniversary Campaignセント・ポール大聖堂300周年キャンペーン」の名で2001年に始められた。05年には4年がかりの内部清掃が終えられ、現在(2008年3月15日現在)は北側外壁の清掃を残すのみとなっている。

当時の英国ではきわめて稀な大型ドームをつけようと、レンは当初から野望を持っていた。結果、ローマのサンピエトロ寺院に次ぐ世界で二番目に大きいドームが建設され、レンの革新さを今日に伝えている。内部からドームが薄暗い煙突のように見えないよう、外側のドームよりもかなり低めの位置に屋内ドームを設置、内外二つのドームを連結し支えるためのもうひとつのドームを間に挟み、三層構造のドームが出来上がった。
気になる4千万ポンドの出どころだが、セント・ポールでは英国政府からの援助を受けておらず、入場料や施設使用料から上げられる収益と、映画やテレビ番組などで撮影される場合に発生する撮影使用料、個人や企業からの寄付金などでまかなってきた。国内だけでなく国外からの支援者の協力もあり、2007年、アメリカン・エキスプレスとワールド・モニュメント基金から24万ポンドの助成金を受けるなどし、資金は2008年の3月までに約3850万ポンドに達した。

修復作業の模様
プロジェクトは清掃、修復にとどまらず、2万2千人もの生徒を収容できる教育スペースの設置、混雑時でも対応できる見学者施設の整備、障害者がアクセスしやすい出入口や順路の整備、これまで一般公開されていなかったトロフィー・ルームの公開などをも含む。
現在セント・ポールでは、正式公開(1710年)から300周年となる2010年までに、目標金額4千万ポンドを集め、プロジェクトを完了できるよう、広く寄付金を求めている。ロンドンのシンボル、セント・ポール大聖堂の存続にひと役買いたいという方は寄付してみるのもいいだろう。
地下納骨堂のモニュメントが先人の精神を後世に伝えているように、レンもまた大聖堂という大きなモニュメントを建てることで、後世の人々に何かを伝えようとしていたのかも知れない。何百年も残るであろう大聖堂は、彼の生きていた18世紀と21世紀の現代と、そしておそらく数百年先の未来をつないでいくことになる。建築当初の輝きに近づいたセント・ポールを見上げながら、時代が変わっても、この大聖堂が英国の栄光と英国民の精神をたずさえ、ロンドンの街を見守っていくようにとのレンの思いが込められているように感じた。

アングリカン・チャーチとは?

英国国教会のことで、ヘンリー8世が王妃キャサリンとの離婚を成立させるために設立し、教会統治権を王位のもとにおいた教会。プロテスタントに区分されることが多いが、教義的な問題ではなく政治的な問題によってローマ・カトリック教会から分裂したため、典礼や教義においてはむしろカトリックとの共通点が多い。事実、ヘンリー8世はルターの宗教改革には批判的で、分裂後も「英国国教会6ヵ条」を定め、英国国教会がカトリック教会的な性質を持ち続けることを宣言し、カトリックへの忠誠心を表明していた。英国国教会の中にはプロテスタントに分類されることを拒み、カトリックとプロテスタントの中道的な立場を強調する者も多い。
ちなみに日本の立教大学は英国国教会が経営母体。

*没年順に表記

埋葬されている主なGreat Britons

クリストファー・レ ン Sir Christopher Wren 1632-1723

17世紀英国を代表する建築家

ホレイショ・ネルソン Horatio Nelson 1758-1805 

アメリカ独立戦争、ナポレオン戦争などで活躍した英国海軍提督
トラファルガーの海戦でフランス・スペイン連合艦隊を撃破した

ウィリアム・ブレイク William Blake 1757-1827

英国の画家、銅版画家、詩人

J・M・W・ターナー J.M.W. Turner 1775-1851

ロマン主義の画家で英国を代表する国民的画家

ウェリントン公アーサー・ウェルズリー 
Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington 1769-1852

ナポレオンとの戦いで功績を挙げ、最終的にワーテルロー(ウォータールー)の戦いで英国に勝利をもたらした英国の軍人、政治家

ヘンリー・ムーア Henry Moore 1898-1986

20世紀を代表する英国の彫刻家

聖堂および地下納骨堂内にある主なGreat Britonsの記念碑

サミュエル・ジョンソン Sir Samuel Johnson 1709-1784

『英語辞典』を編纂し、シェイクスピアの研究で知られる英国の文学者

ホレイショ・ネルソン Horatio Nelson 1758-1805

J・M・W・ターナー J.M.W. Turner 1775-1851

ウェリントン公アーサー・ウェルズリー
Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington 1769-1852

ウェリントン公記念碑

フローレンス・ナイチンゲール
Florence Nightingale 1820-1910

イタリア、フィレンツェ生まれの英国の看護婦、
統計学者、看護教育学者。近代看護教育の生みの親

トーマス・エドワード・ロレンス
Thomas Edward Lawrence 1888-1935

「アラビアのロレンス」として知られ、対トルコ工作を行い、アラブを独立に導いた英国の軍人・考古学者

アラビアのロレンスの胸像

アレクサンダー・フレミング Sir Alexander Fleming 1881-1955

世界初の抗生物質、ペニシリンを発見し、さまざまな伝染病に治療効果をもたらした英国の細菌学者。1945年ノーベル賞受賞

ウィンストン・チャーチル Sir Winston Churchill 1874-1965

1940 - 45年の第二次世界大戦時内閣の首相として英国を勝利に導いた政治家

ヘンリー・ムーア Henry Moore 1898-1986

Travel Information

※2008年3月15日現在

St Paul's Cathedral

St Paul's Churchyard, London EC4M 8AD

映画『ハリー・ポッターHarry Potter』や『英国万歳!The Madness of King George』の撮影に使用された、トリフォリウム(回廊)に続く階段。

アクセス

地下鉄
セントラル線St Paul'sから徒歩2分。
ディストリクト線およびサークル線のMansion House、Cannon Street、Blackfriarsからも徒歩可能。
バス
No. 4、11、15、23、26が聖堂前まで、No. 25、242が至近のNewgate Streetまで運行している。

寄付先

St Paul's Cathedral Foundation
The Chapter House, St Paul's Churchyard, London EC4M 8AD
TEL. 020 7246 8371 FAX. 020 7246 8313
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www.stpauls.co.uk

週刊ジャーニー No.519(2008年4月17日)掲載