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【ブータン編 第27話】
空中楼閣

石田ゆうすけ
旅行作家。7年半かけて自転車で世界一周を敢行。9万5千キロ、87ヵ国を走り、2002年末に帰国。現在は全国各地で講演も行う。著書に『行かずに死ねるか!』『地図を破って行ってやれ!』ほか。2014年2月に最新刊『大事なことは自転車が教えてくれた』(小学館)を上梓。ブログも更新中→「石田ゆうすけのエッセイ蔵

V字峡谷の崖伝いを走っている。対岸までの距離は1キロほどか。そこに巨大な要塞のようなゾン(寺院、役所、城塞の複合施設)とトンサの町が見えている。しかしそれらがなかなか近づいてこなかった。谷底の川を迂回するために道が15キロ以上も大回りしているのだ。
その川にかかる橋をようやく渡って峡谷の対岸に入ると、次第に家や棚田が道沿いに現れるようになった。
「すごいところに住んでるなぁ」
幾分なだらかになったが、それでもよくこんなところに棚田を作ろうと思ったな、と感心するくらい急峻な土地だ。その斜面にへばりつくように家が立っている。夜中に酔っ払って足を踏み外したらはるか谷底まで落ちていきそうだ。
ところが、展望台みたいな家だな、と思った途端、視界の中の家がどれもそういう風に見え始めた。そうか、家という家が眺望を求め、谷を見下ろすように建てられているのだ。というより、あえて困難な場所に建ててまで眺望を取った、といった具合に見える。なんて“粋”だろう。景色を眺めるためだけに、谷底の家から相当な時間をかけて崖の上まで登り、石に座っていた父子が思い出された。
さらにトンサに近づくと、驚異的な世界が広がった。山肌一面が棚田になっているのだ。大規模な棚田はこれまでもブータンで見てきたが、これほどのものは世界一周の旅を振り返っても初めてかもしれない。
町の中心部に入ると巨大なマニ車があった。回転させた数だけ経を唱えたことになり、功徳がある。老人が何か唱えながら回している。
道はゾンの上方を走っていた。そのため道からはゾンを見下ろす格好になる。そこから臨むとゾンは実にいかめしい要塞だった。万里の長城のように山の稜線に沿って長く、そして谷を睥睨するように急な斜面に立っている。その下に雲が浮かんでいた。そちらの側が切り立った崖になっているので要塞として堅牢なのは明らかだが、やはり眺望を楽しむための展望台のようにも見える。

ブータン様式を凝縮したようなトンサのゾン

そのゾンの中に入ると、小さな町のように、通りの左右に建物が並んでいた。どの建物も模様の入った窓枠がずらりと壁にたくさん付いて、格子戸のようになっている。軒の装飾も緻密かつ豪奢だ。外観に負けず劣らず風雅なゾンである。
正直、これまで複数のゾンを見てきてだいぶ飽きが来ていた。日本の寺社も知識がなければ退屈なように、どのゾンも同じに見えるのだ。しかしこのゾンは美しさにかけては別格だった。その中を民族衣装を着た役人や僧侶が行き来している。まるで映画の世界だ。猿もゾン内をうじゃうじゃ歩き回っていた。ここは一体どこなんだ?
回廊の一部から光があふれ、そこに行ってみるといきなり目の前に谷が広がった。谷側の城壁の一部が開いて舞台のように外にせり出しているのだ。柵もないからバンジージャンプに使えそうだ。しばしそこに座って、下に浮かぶ雲と、何百メートルも底を流れる川やV字峡谷の大眺望を眺めていた。
やがて日が暮れ、坂の上のホテルに投宿したときは真っ暗になっていた。部屋は角部屋で、二方向の壁に大きな窓が並んでいる。僕はすべてのカーテンを全開にして布団に入った。
次の日、外が白んできたところで目が覚め、度肝を抜かれた。二方向の窓すべてに重畳する山並みが広がり、まるで空中楼閣にいるような景観だったのである。

空中に浮かんでいるようなトンサのホテル

週刊ジャーニー No.1060(2018年11月8日)掲載