bicycle_title2018.jpg

【ブータン編 第53話】ストレスのない光景

石田ゆうすけ
旅行作家。7年半かけて自転車で世界一周を敢行。9万5千キロ、87ヵ国を走り、2002年末に帰国。現在は全国各地で講演も行う。著書に『行かずに死ねるか!』『地図を破って行ってやれ!』ほか。2014年2月に最新刊『大事なことは自転車が教えてくれた』(小学館)を上梓。ブログも更新中→「石田ゆうすけのエッセイ蔵

ガイドのテンジンは僕の女性の友人と結婚し、今は日本に住んでいる。今回はたまたま帰省していて、僕のガイドを買って出てくれたのだ。そんなテンジンが話の流れでこんなことを言った。
「日本で驚いたことといえば、独り言をしゃべる人が多いことですね」「えっ?」
「見た目は普通の人ですよ。でも電車で独り言をしゃべってる。最初はびっくりしましたが、そういう人を何度も見かけました」
……うん、たしかにいる。日本ではそう珍しくない。しかしブータン人のテンジンには見慣れない光景だったらしい。ブータンにはそういう人はあまりいないのだろうか。ストレスフルな社会ほど、独り言を話す人も多くなるということだろうか?
車窓に目を移した。青い谷や緑に光る棚田が次々に過ぎ去っていく。
ゴール地のウラからは、自転車を車に積み、出発地のパロに車で戻ることにした。パロまでは車でも2日はかかる。昨晩はトンサに泊まり、ウラで買った大量の松茸を料理して食べ、天にも昇る気分を味わった。今日は一気にパロまで走る。
皮肉なことにいい天気だった。自転車で走っているときは雨こそ降らなかったが、晴天も少なかったのだ。
行きも帰りも一本道なので、来た道と同じ景色のはずだが、全然違うところを走っているみたいだった。天気の違いもあるだろうが、自転車と車の差も大きいのだろう。
それでも、その場所に来たときは、「あっ、ここ!」と声を上げた。山のなだらかな尾根をナイフでスパンと斜めに削ったような平野が広がっており、稲穂が一面に広がっている。緑の広大な平面のスロープが山の中腹に光るように浮かんでいるのである。「車止めて!」と僕は運転手のテイチに言い、カメラを手に外に出た。前回も写真を撮ったが、そのときは曇っていたのだ。今日みたいに晴れると、緑が蛍光ペンのような色で光る。
緑の巨大なスロープの脇を小川が流れ、まわりに家が点々と立っていた。高原の空は突き抜けるように青い。なんて気持ちいい空気だろう。社会の緊張といったものから最も遠い場所のように思えた。

山中に忽然と現れる緑の巨大なスロープ

再び車で走る。しばらくして「止めて!」とテイチに言い、車から降りる。目の前には、見事な曲線で蛇行する畔が何本も入った水田があった。何かを象徴する抽象画のようだ。棚田は地形に合わせてつくるため、畔は等高線のように弧を描くが、ここは平面なのだ。なぜこんな曲線を、と考えたとき、遊んでるな、と思った。田主に聞いたら、「だってきれいだろ?」と笑って言いそうな気がする(本当は意味があるのかもしれないけど)。
ブータンのキャッチコピーである、「幸せの国」が本当にこの国に当てはまるかどうかは、実際のところわからない。幸せの定義は人によって変わる。ただ、これまでも書いてきたように、この国は敬虔なイメージとは裏腹、快楽主義で、人生を楽しもうとする気概にあふれているように感じるのだ。

畔が曲線を描く不思議な田んぼ

再び走る。すぐに「止めて!」と言って外に出る。写真を撮りながら、ブータンを自転車で走るのはやっぱり理にかなっているな、と思った。車だと何度も止めてしまう。運転手に申し訳なくなる。だってこんなに絶景が続くんだからなあ。車窓から見ているだけじゃ、ストレスだって。

週刊ジャーニー No.1086(2019年5月16日)掲載