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【ブータン編 第19話】
まぶしい日常

石田ゆうすけ
旅行作家。7年半かけて自転車で世界一周を敢行。9万5千キロ、87ヵ国を走り、2002年末に帰国。現在は全国各地で講演も行う。著書に『行かずに死ねるか!』『地図を破って行ってやれ!』ほか。2014年2月に最新刊『大事なことは自転車が教えてくれた』(小学館)を上梓。ブログも更新中→「石田ゆうすけのエッセイ蔵

朝目覚めた瞬間、愕然とした。体がベッドに張り付いたように動かないのだ。なんだこの疲れ方は。それになんだこの痛みは。全身ひどい筋肉痛だ。昨日大きな峠を越えたからだ。
僕は普段は自転車にまったく乗らない。一駅先に行くのも電車だ。トレーニングもしない。取材で出かけるとき以外は家に閉じこもってずっと原稿を書いているか本を読んでいる。基本ぐうたらなのだ。
そんなわけで今回も筋肉が落ちきった状態で旅に出た。その行先がヒマラヤの国ブータンだったのだから少々無謀だったかもしれない。 
このまま寝ていたくて仕方なかったが、そうもいかなかった。昨日の峠の高低差は1,000メートル弱だが、今日の峠は2,000メートル以上あるのだ。考えただけでもぞっとする。早く出ないと次の町まで着けそうにない。重い体をなんとか起こし、荷物を詰め始めた。油が切れたロボットのように体がきしむ。ほんとにこの体で走るのか?
食堂に入って席に着くと朝食が出された。パン、オートミール、目玉焼き、フルーツ。西洋風だが、お世辞にも褒められた味じゃない。ブータンは味に無頓着なのかな、と初日に思ったが、だんだん確信に変わってきた。
荷物を持って宿の外に出ると、ガイドたちはすでに待機していた。テンジンは公式ガイドを象徴する民族衣装の姿から一転、サイクリングウェアに身を包み、自転車の横に立っている。運転手のテイチには昨日までと同様、車で先に先に行ってもらい、テンジンは僕と一緒に自転車で走るというのだ。
ブータンはいま自転車ブームで、テンジンもトレックというブランドの立派なMTBを持っている。体を動かすのが大好きなテンジンは、僕のガイドをするためというより、彼自身が走りたいようだった。
午前7時出発。ワンデュ・ポダンの町を駆け抜けていく。あれだけ疲れていたのに自転車に乗ると爽快さが勝る。朝の冷たい空気が肌をなでていく。

ワンデュ・ポダンの通学風景

郊外に出たところでハッとした。深い谷底にある町だが、まわりの山が棚田になっていて、朝日にキラキラ光っているのだ。自転車をとめ、うっとり見とれてしまった。
さらに少し先でまたもやハッとし、ブレーキをかけた。民族衣装を身にまとった子供たちが大勢道を歩いているのだ。そうか、今日は月曜日だ。民族衣装は学校の制服なのだ。ブータンには金曜に着き、町を見たのはその夜だった。それから土日をはさんだので子供たちの通学シーンを見るのはこれが初めてだ。何か胸が躍るような光景だった。青い山と棚田にはきれぎれに雲がかかっていて、まるで天上界のようだった。その世界を背景に、何世紀も前の格好をした子供たちが歩いているのだ。
テンジンは僕が何に見とれているのかわからないようだった。そりゃそうだろうなと思う。ここは観光名所でもなんでもない。彼にとってはなんの変哲もない日常風景なのだ。
「先に行ってて」と僕は彼に言った。ひとりになるとますます景色が染み入ってきて、焦る気持ちを失った。おかげで7時に出発したのに町を出たのは9時になってしまった。でも旅で最も幸せな瞬間のひとつは異国情緒に身を浸し、それに酔いしれているときじゃないだろうか。そう実感しながら僕は満足していた。
もっとも、僕のこの快楽主義、かつぐうたらが、このあとの地獄を呼ぶのだけど……。

週刊ジャーニー No.1052(2018年9月13日)掲載