ジャーニー編集部がロンドンの街をぶらりとレポート
9日間の女王、レディ・ジェーン・グレイゆかりの地を征く

1554年2月、幽閉されていたロンドン塔で処刑された16歳の前女王、レディ・ジェーン・グレイ。権力闘争と宗教対立という時代の荒波に翻弄され、「イングランド一の才女」との呼び声も高かったジェーンは、女王にまつりあげられた9日後に「反逆者」として投獄されました。460年以上前の出来事であり、16年という短い生涯、9日間という史上最短の在位期間、そして「反逆者」との汚名から、彼女について残された文献や遺品等はほとんどありません。でも、少しでも多くジェーンを知りたいという人に、彼女の足跡をたどれるスポットを2ヵ所ご紹介します。
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「なぜ彼女は女王にされ、そして処刑されたのか 「9日間の女王」 ジェーン・グレイの悲劇 エピソード1」
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スードリー城/Sudeley Castle

コッツウォルズ地方にあるスードリー城。チェルトナムからバスで20分、ウィンチクームという小さな町の外れにあります。ヘンリー8世の6番目にして最後の王妃キャサリン・パーが、国王の死後に暮らした城として知られますが、キャサリン妃がここで過ごしたのは1年ほど。でもその期間、ヘンリー8世の妹を祖母に持つ10歳のジェーン・グレイを引き取り、立派な貴婦人に育てるべく熱心に教育しました。

スードリー城内にはキャサリン妃、ヘンリー8世の死後に再婚したキャサリンの夫トーマス・シーモア、ジェーンの人形が飾られています。

ジェーンは第3代ドーセット侯爵(後のサフォーク公爵)の長女として、レスターシャーにあるブラッドゲート・ハウスで生まれました。当時の上流階級の若い子女たちは、後見人となる身分の高い貴婦人のもとに預けられ、社交や礼儀作法を身につけるのが一般的でした。キャサリン妃とジェーンは本当の母娘のように仲が良く、一緒にガーデンを散歩するのが日課だったそうです。しかし穏やかな日々は長く続かず、キャサリン妃は産褥で死去。夫のトーマスが不在だったため、幼いジェーンが葬儀を取り仕切りました。
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「愛した男が悪過ぎた “ヘンリー8世6番目の妻キャサリン・パーの悲しき最期” スードリー城」
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ロンドン塔/Tower of London

1553年7月、エドワード6世(ヘンリー8世の息子)が病死すると、周囲の思惑によりジェーンは新女王にまつりあげられました。君主としてロンドン塔内の王宮「ホワイトタワー」に居を移しますが、わずか9日後、ヘンリー8世の娘メアリー(後のメアリー1世)が「自らが正式な女王」と表明。ジェーンは王位を略奪しようとした反逆者として、ロンドン塔内にある看守用の住居「ナサニエル・パートリッジズ・ハウス」に幽閉されます。2ヵ月前に政略結婚した夫、ギルフォード・ダドリーもロンドン塔内の監獄「ビーチャムタワー」に連行されました。上の写真はロンドン塔の入口付近を撮影したもので、ピンクの矢印がジェーンが幽閉された「ナサニエル・パートリッジズ・ハウス」、赤の矢印がギルフォードが幽閉された「ビーチャムタワー」です。

ロンドン塔内のタワーグリーン(手前の芝地)越しに見た、ナサニエル・パートリッジズ・ハウスとビーチャムタワー。ナサニエル・パートリッジズ・ハウスは現在も職員の住居として使われているため非公開ですが、監獄だったビーチャムタワーは公開されています。王家の血を引くジェーンの扱いは決して非情なものではなく、タワーグリーンでの散歩も許可されていました。

夫のギルフォードが幽閉されていたビーチャムタワー内の壁には、罪人として処刑を待つ人々が掘ったグラフィティが数多く残されています。そこに刻まれた「IANE(JANE)」という文字は、ギルフォードが刻んだものと伝えられています。幽閉後、一度も顔を合わせることなく2人は同日に処刑されましたが、彼はそのシンプルな4文字にどんな思いを込めていたのでしょうか…。


1554年2月12日、ジェーンはタワーグリーンに設置された処刑台にて斬首されました。一方、ギルフォードはロンドン塔の外で、多くの市民からの野次や罵倒が飛び交う中、公開処刑されました。タワーグリーンの処刑台跡には現在、ガラスのモニュメントが置かれています(ピンクの矢印はナサニエル・パートリッジズ・ハウス)。ガラスのプレートには、ジェーンの名前と処刑された年が記載されていました。ジェーンは今、ロンドン塔内にある「セント・ピーター・アド・ヴィンキュラ礼拝堂」で静かな眠りについています。
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「ロンドン塔を征く」
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