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◆◆◆《第471回》◆◆◆
移民の減少

イギリス政府の統計局によると今年三月までの一年間、外国から移住して来た人の数は前年同期比で八万一千人減り二十四万六千人(純増ベース)だった。これはこの三年間で最も少ない数字である。移民の増加を十万人以内に抑えるというメイ首相の公約に比べればまだ多いが、約二十五%も減ったのは大きな変化である。

ちなみに増加した二十四万六千人のうちEU加盟国分は十二万七千人で前年同期より五万一千人少なかった。チェコ、ポーランド、リトアニア、ハンガリーなど「EU8」と呼ばれる中欧諸国からイギリスに来ていた人々のうち一万七千人(純減ベース)が母国に帰ったことが影響した。

周知のようにイギリスがEU離脱を決めたのは昨年六月である。EU加盟国の多くの住民が母国へ帰ったのはその後のことと思われる。一年後に発表される次回の統計ではより大幅な減少が予想される。

先月の本欄(第四百六十五回「街角のバイオリン弾き」)でも述べたが、EU離脱が決まってからイギリスに居住するEU市民は今後の暮らしに大きな不安を抱えている。それはEU諸国で働いているイギリス人も同じだ。離脱交渉ではまずそうした人々の居住権の扱いを最初に決めるべきだが、それすらも駆け引きの材料となっている。

 「EUを脱退したらイギリスは毎週三億五千万ポンド節約出来る」と虚偽の情報を流してEU離脱を画策した人々は移民の増加が抑制されて単純に喜んでいるかも知れない。しかしこれは決して喜ぶべきことではない。すでに幾つかの産業分野では移民減少による人手不足が顕在化している。国民の健康維持を担うNHS(国民医療サービス)の現場では従来からEU各国からやって来た医師や看護師が大勢働いていた。その数は約百万人にのぼる。EU離脱が決まってからこれらの医療スタッフがイギリスを離れる動きが加速しており、深刻な人手不足に陥る恐れが高まっている。飲食業などのサービス業界や建設業界からも人手が足らないという悲鳴があがり始めた。

EU離脱派のシナリオではシェンゲン協定を利用してイギリスに入国していた人々が母国へ帰ればその仕事がイギリス人に回って来るから失業率が下がり、問題は何もないはずだったが実際はそうなっていない。国民の老齢化に伴い、医療現場ではずっと医師や看護師の不足が続いている。建設業界もまた慢性的な住宅不足で需要が増えているにもかかわらず、建設現場で働く技術者や労働者は不足している。EUから移住して来た人々が辛うじてそれを補って来たのが実情だ。

イングランドのNHSはかねてよりGPを任せられる医師と看護師などの医療スタッフを二〇二〇年までにそれぞれ五千人ずつ増やす計画を進めている。国内でこれだけの数を確保するのは難しいので外国でも広く人材を募集する方針だが、現時点ですでに目標の達成が危ぶまれている。EU離脱が決まってから外国の医療関係者がイギリスを避けるようになったからだ。

その理由は不明確な居住ビザだけではない。為替レートもまた大きな問題である。昨年六月以降、イギリスのポンドはどの通貨に対しても下落した。ユーロに対する下落率は約二割である。イギリスで懸命に働いて手にした賃金も他の通貨に換金すると以前より二割も目減りする。今後の展開次第でポンドはもっと弱くなるかも知れない。そうした状況でイギリスに行って働こうと思う人が減るのは当然だろう。ポンドの下落が賃金の国際水準を引き下げ、労働市場としてのイギリスの魅力を奪いつつあるのだ。

移民の増加が抑制され始めたことにブランドン・ルイス移民担当大臣は歓迎の意向を示したが、この反応はまことにノーテンキといわなければならない。イギリス最大の経済団体であるCBIは質の高い技能労働者が確保出来ないことに懸念を表明している。彼らの危機感は正しい。このまま労働市場のミス・マッチが続けばイギリス経済は立ちゆかなくなるだろう。

EU離脱は間違った選択だと私はずっと言い続けて来た。せめて統一市場に残れるように政府は今からでも方針を転換すべきである。さらに現在イギリスに住んでいるEU市民とEU諸国に住んでいるイギリス国民の居住権を保障するための交渉を優先的に行なう必要がある。

イギリスにとって移民が全て悪いわけではない。移民によって助けられて来た産業分野は非常に多い。政府も国民もこのことをもう一度よく考えた方がいい。

週刊ジャーニー No.1001(2017年9月14日)掲載

くろだいぬひこ
在英三十年のエッセイスト。商社や銀行勤務を経て、現在は執筆に専念。酒、旅、そして何より犬を愛する。

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