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◆◆◆《第862回》◆◆◆
BSの救済

 イギリス唯一の高炉メーカーであるBS(ブリティッシュ・スチール)が廃炉の危機に直面した。親会社の中国の敬業集団がスカンソープの工場の閉鎖を決めたからである。スカンソープ工場はイギリスに唯一残っている高炉による製鉄工場である。
敬業集団によればBSは一日七十万ポンドの赤字を出している。この状態では生産の維持は難しいので閉鎖の方針を打ち出した。閉鎖されれば、イギリスから鉄を鉄鉱石から一貫生産する工場が消失する。
製鉄の方式には高炉と電炉がある。高炉は鉄鉱石から鉄を作るのに対し、電炉は鉄のスクラップから作る。高炉は溶鉱炉とも呼ばれる。製鉄は工業の基本であり、BSのスカンソープの工場が閉鎖されれば、イギリスはG7の中で高炉を持たない最初の国になる。かつて産業革命を起こした国としてこれは大きな屈辱である。
政府はBSの閉鎖を避けるため、敬業集団に五億ポンドの共同投資案などを提案したが、合意に至らなかった。
BSの不採算性は今に始まったことではない。それは同社の歴史を見れば分かる。BSは第二次大戦後、国営企業となったが、その後、何度となく分離、合併、買収を繰り返し、そのたびに経営母体が変わった。世界的に激化した製鉄業界の競争について行けなかったのである。五年前に中国の敬業集団が買収したが、経営は好転しなかった。敬業集団自体、世界で三十位あたりにランクされる製鉄会社であり、競争力が十分ではない。ちなみに今、USスチールを買収しようとしている日本製鉄は世界四位にランクされている。
スターマー政権はイギリス唯一の高炉メーカーが消滅の危機に瀕したことに慌てた。BSを存続させるために彼らは迅速に行動した。スターマー首相は休会日の土曜であるにも関わらず、四月十二日に国会を召集した。土曜日に国会が召集されたのは一九八九年のフォークランド紛争以来のことである。
この日、政府は下院に「BSの操業を政府が管理する緊急法案」を提議した。下院はすぐさま全会一致でこれを可決した。上院も同意した。これによりBSの取締会や従業員に関する権限が政府に付与されることになった。

しかし、これでBSの生産が継続出来るわけではない。原料の鉄鉱石とコークス炭が確保出来なければ溶鉱炉の火は消える。一度消えてしまえば復活させるまで大変な時間と労力を要する。イギリスに鉄鉱石とコークス炭の十分な在庫はなかったが、敬業集団が手配してイギリスに船便で到着していた原料の代金を政府が支払うことで数週間分の原料が確保された。さらにもう一隻、鉄鉱石を積んだ船がオーストラリアからイギリスへ向かっている。
一方、中国政府はイギリス政府のやり方に不快感を示している。イギリス議会で緊急法案が成立した後、中国の外務省は「我々はイギリス政府が事業を行なっている中国企業の法的な権利と利益を十分に保護すると同時に、過剰な政治的な介入によって信頼と協力を損ねることがないように希望する」との声明を発した。法律的にはBSはまだ敬業集団が所有している。イギリス政府は法律によってその管理権を確保したに過ぎない。いずれBSの国有化に向けて中国側と交渉することになるだろう。
鉄鋼はこの数年、世界的に生産過剰の状態にある。その原因を作り出しているのは中国である。中国の鉄鋼の生産量は昨年まで五年連続で十億トンを上回っているが、不動産危機と経済の構造変化で国内の需要は落ち込んでいる。国内で消化出来ない鉄鋼は輸出するしかないが、アメリカのトランプ大統領は法外な関税を設定した。そうなると中国はイギリスなどアメリカ以外の国に鉄を輸出するしかない。今回、敬業集団がBSを閉鎖しようとした背景にはそのような事情も絡んでいると思われる。ただ、それ以前にBSの採算性が悪化していたことも事実である。
鉄鉱石を原料にした製鉄は十八世紀後半、イギリスのダービー親子のコークス炭製鉄法により飛躍的な発展を遂げた。それが産業革命の原動力になった。「鉄は国家なり」と言ったのはドイツ帝国のビスマルク首相だが、本家本元はイギリスである。
そのイギリスの高炉による製鉄会社が消滅の危機に直面した。政府が介入したのは当然だったと私は考える。ただBSを維持するについて巨額の税金が使われる。財政逼迫の折柄、政府はまた一つ頭痛の種を抱え込んだことになる。

週刊ジャーニー No.1392(2025年5月8日)掲載

くろだいぬひこ
在英三十年のエッセイスト。商社や銀行勤務を経て、現在は執筆に専念。酒、旅、そして何より犬を愛する。
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