◆◆◆《第831回》◆◆◆
討論(ディベート)は終わったけれど
アメリカの大統領選挙まであと一ヵ月半となった。一時は共和党のトランプ氏が優勢だったが、民主党の候補がハリス氏に差し替えられてからほぼ互角の勝負になった。その二人が直接対決する討論が九月十日に行なわれた。これはアメリカのABCテレビが主催し、世界に同時中継された。
討論が始まったのはイギリス時間の十一日午前二時だった。私は眠い目をこすりながら、二人の主張に聞き入った。六月のバイデン氏とトランプ氏の討論では、次々と攻撃的な言葉を繰り出すトランプ氏にバイデン氏が対応出来ず弱々しい印象を与えた。その後、バイデン氏の代わりに民主党の大統領候補になったハリス氏がトランプ氏にどう応戦するかが今回の焦点だった。
ところが意外なことに、トランプ氏は最初から言葉や態度に生気が感じられず、迫力不足だった。一方のハリス氏はトランプ氏の悪口雑言に余裕をもって対応し、慌てる場面はなかった。
七十八歳のトランプ氏は八十二歳とバイデン氏に比べれば元気には見えるが、来月六十歳になるハリス氏と同じステージに立てば年相応の老人に見える。それは当然のことだ。さらに今回の討論では、味方の陣営からトランプ氏に「逆効果になるのでハリス氏の個人攻撃はやめた方がいい」という助言があったようだ。
人種差別的な話題を持ち出し、好き勝手に放言するのはトランプ氏の得意技である。これまで「ハリス氏はアジア系なのかアフリカ系なのか」と揶揄するようなことを言って来たが、今回の討論では自重した。少しだけお行儀よくしたわけだが、それで本来の調子が出なかったのかも知れない。
トランプ氏にとって誤算だったのは、ABCテレビの司会者がファクト・チェックを行なったことだ。たとえばトランプ氏は「バイデン大統領になってから違法入国者が急増した。オハイオ州のスプリングフィールドの町では難民たちが猫や犬を殺して食べている」と再三発言したが、司会者は「スプリングフィールドの当局者によればそのような事態は起きていません」と否定した。六月にバイデン氏とトランプ氏が討論した時はファクト・チェックが不十分だったが、今回は徹底していた。そのためトランプ氏が気勢を削がれたのは否めない。
一方、ハリス氏は万全の準備をしていた。トランプ氏がどのような論戦を仕掛けるか想定し、あらゆる対応が出来るように練習を重ねて来たようだ。彼女が多用したのは「トランプ氏の古い時代に戻るのではなく、新しいページを開きましょう」というフレーズだった。
私の印象に残ったのは外交に関するやり取りだった。司会者から「あなたはウクライナがロシアに勝つことを望んでいますか」と質問されたトランプ氏は、「イエス」とも「ノー」とも答えず、「戦争が終わって欲しい」と言葉を濁した。
これを聞いたハリス氏は「私はウクライナのゼレンスキー大統領と強固な関係を築いている」と言った後、トランプ氏に対し、「NATОの同盟国はあなたが今、大統領でないことをとても感謝している」と皮肉たっぷりに語った。トランプ氏は「私が大統領だったらそもそも戦争は起きなかった」と虚勢を張ったが、説得力はなかった。私はイギリスの住民の一人として、ウクライナ支援を明確に打ち出さないトランプ氏は危険だと再認識した。
討論の後半でトランプ氏は唐突に「彼女はバイデン氏だ」と言った。現状に不満を抱く国民に「ハリス氏はバイデン大統領同様、過去三年半のアメリカの政治の責任を負っている」と訴えたかったのだろう。これに対し、ハリス氏は笑みを浮かべ、「私はバイデン氏ではない。カマラ・ハリスだ」と言い返した。
今回の討論の勝利者は明らかにハリス氏だった。CNNの世論調査でも六七%の視聴者が「ハリス氏の方が優勢だった」と回答した。ハリス氏は過去の実績や具体的な政策に関する話題に深入りせず、トランプ氏に主導権を渡さなかった。これは作戦勝ちである。
討論会の五日後、またトランプ氏を狙った暗殺未遂事件が起きた。トランプ氏はすかさず、「犯人はバイデン氏やハリス氏の言葉を信じて行動した。そのせいで私が撃たれることになった」と発言した。
アメリカにはトランプ氏を支持する熱狂的な人々がいる。この事件をきっかけにトランプ氏が再び流れを引き戻す可能性がある。大統領選挙はどちらの候補者も決定的なリードを奪えないまま、十一月の投票日を迎えそうだ。
週刊ジャーニー No.1361(2024年9月26日)掲載
在英三十年のエッセイスト。商社や銀行勤務を経て、現在は執筆に専念。酒、旅、そして何より犬を愛する。