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◆◆◆《第776回》◆◆◆
忘れた頃のコロナ

最近は街でマスクをしている人をほとんど見かけなくなった。地下鉄やバスの中でもマスクで鼻や口を覆っている人は少ない。病院の医師や看護師でさえマスクを着用していない。コロナが猛威を振るい、外出禁止令まで出されたことが遠い昔のように感じられる。
しかし、油断は禁物である。私は今でもバスに乗る時やスーパーで買い物をする時はマスクを着用する。外から帰宅したら必ずうがいをする。そして一週間に一度か二度は、自己診断キットで感染の有無をチェックする。コロナに罹る人が再び増えていると報じられているからだ。
ガーディアン紙によれば、今年の夏はコロナ検査の陽性率も感染者の入院率も上昇傾向にある。人口十万人当たりの入院率は十人弱で、感染が全国に広がった二〇二一年一月の「十万人あたり三十六人」に比べれば低いが、増えているのは事実である。最も患者が多い年齢層は八十五歳以上である。だからといって、若年層が感染しないわけではない。コロナウイルスは次々に変異を遂げ、したたかに生き抜いている。おそらく永遠に地上から消えることはない。
今年二月、コロナのオミクロン株が変異した「EG・5」というウイルスが発見された。このウイルスはギリシャの女神の名前である「エリカ」というニックネームを与えられた。七月には「EG・5」に極めて近い構造の「EG・5・1」という変異株も検出された。イギリスの健康安全保障庁(UKHSA)によると、最近入院したコロナ患者の七人に一人はこの「EG・5・1」に冒されているという。アメリカでも同じ傾向が確認されている。
最初の変異株であるオミクロンに対応するワクチン接種が始まったのは二〇二一年末だった。これは全ての年齢層に対して行なわれた。それから一年八ヵ月が経過した。その後、政府は高齢者や基礎疾患を抱えている人たちを対象に、さらに二回ワクチン接種を行なった。その時点から計算しても約半年が経過している。つまり若年層はもちろんのこと、高齢者が接種を受けたワクチンもすでに効き目が薄れていると考えなければならない。
日本では今年八月六日までの一週間で七万八千人のコロナ感染者が発生し、そのうち一万二千人が入院した。夏休みの時期だから若年層の感染は少なく、六十歳以上の高齢者が中心だが、お盆休みに多くの人たちが地方に帰省し、親類や友人と接触したので、これからその影響が出ると見られている。

イギリスも似たような状況である。夏休みが終われば生徒が一斉に学校に戻って来る。夏の長期休暇を取って旅行をしていたサラリーマンたちもオフィスに出勤する。そうなれば人と人の交流が活発になり、コロナの感染が拡大する恐れがある。
政府もそれを警戒している。そこで秋から再びワクチン接種を開始することを決めた。ただし、対象は六十五歳以上の高齢者と基礎疾患を抱えている住民である。つまり重症化しやすい人たちだけにワクチンを接種する方針だ。おそらく政府は、イギリスではもう集団免疫が得られていると考え、国家予算の出費を少しでも抑えようとしているのだ。
これに対して専門家から懸念の声があがっている。秋から冬にかけてコロナが勢いを取り戻せば、インフルエンザの患者と重なって、病院が十分に対応出来なくなるというのだ。ブリストル大学のアダム・フィン教授は、そのような事態が起きないようにコロナワクチンの市販化を提唱している。
コロナのワクチンは政府が薬品会社から購入し、NHSのネットワークを使って国民に無料で接種して来た。国民はそれ以外の方法でワクチンの接種を受けることは出来なかった。フィン教授は、「その方法を改め、インフルエンザのワクチンと同じように市販化を解禁し、希望者は有料でコロナワクチンの接種を受けられるようにすべきだ」と言っている。
イギリスでは冬が近くなると、六十五歳以上の住民にインフルエンザのワクチン接種が無料で行なわれる。
六十五歳以下でもお金を払えば、病院や薬局で同じワクチンの接種が受けられる。そのやり方をコロナにも採用すべきだとフィン教授は主張しているのだ。
疫病の流行を題材にしたカミュの小説『ペスト』は、感染がやっと鎮静化した街を歩きながら、主人公の医師が次のように呟く場面で終わる。 「しかしペスト菌は永遠に死滅しない。寝室や地下室や旅行鞄やハンカチや古紙の中に隠れ、再び人間を脅かす機会を狙っている」
コロナについても同じことが言える。考えたくないことだが、災禍は忘れた頃にやって来る。だから、警戒を怠ってはいけないのだ。

週刊ジャーニー No.1306(2023年8月31日)掲載

くろだいぬひこ
在英三十年のエッセイスト。商社や銀行勤務を経て、現在は執筆に専念。酒、旅、そして何より犬を愛する。

 

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