2011年6月2日 No.679

●サバイバー●取材・執筆/佐々木敦子・本誌編集部

 

フランス革命を生き抜いた
マダム・タッソー

 

『マダム・タッソーろう人形館』といえば、ロンドン観光の定番のひとつとして多くの人に知られる存在。
ハリウッド・スターや歴史上の人物を始め、話題のスターの姿がそのままそっくり、ろう人形で再現され、その「作品」の数は今も増え続けている人気の観光名所だ。
だが、人々がこのろう人形館の創始者であるマダム・タッソー(タッソー夫人)その人について思いを馳せることは少ないのではないだろうか。有名スターの人形たちの影に隠れ、その存在を忘れ去られている一人の女性の、意外なまでに波瀾万丈な人生を辿ってみよう。

 

 

*英語では「トゥッソー」と発音されるが、本稿では「タッソー」に統一した。
参考文献 ●「Waxing Mythical: The Life & Legend of Madame Tussaud」by Kate Berridge / 2006 John Murray London
●「Madame Tussaud」by Michelle Moran / 2011 Quercus London

 

1835年、ロンドンのベイカー・ストリートに創設されて以来、上海や香港、ベルリンやニューヨークなど、現在までに世界8ヵ国に姉妹館を広げている『マダム・タッソーろう人形館』。誰もが知るスターや有名人という、商売としては「最強」ともいえる題材を使いビジネスを展開しているわけだが、それは「有名人を近くで見たい」という人々の夢や願望があってこそ成り立つもの。創設者であるマダム・タッソー(タッソー夫人)も、フランス革命の混乱期に人々の求めに応じてろう人形を制作していた。それは時にギロチンにかけられた「民衆の敵」の頭部であり、時には反王党派の指導者の姿であった。やがて自らもギロチンの刑を言い渡されたタッソー夫人は、獄中でなおもろう蝋人形を作り続ける。それは自らの命を守るための唯一の方法でもあったのだ――。
タッソー夫人ことマリー・グロショルツ(Marie Grosholtz)は、1761年12月7日、ドイツに近いフランス北東部の街ストラスブルグ(Strasbourg)に生まれた。欧州は当時1756年から続く七年戦争の混乱のただ中にあり、父親のジョセフ(Joseph Grosholtz)も一兵士として、当時プロイセンと呼ばれていたドイツと戦い、マリーの生まれる2ヵ月前に戦死。マリーは助産婦の立ち会いのもと、教会の雑用係を名付け親に洗礼の儀式を受けたとされている。このことから、マリーの家庭がそれほど恵まれたものではなかったことがうかがえる。そのため当時の様子や彼女の家系に関する記録なども残っておらず、あるのは出生記録の断片のみである。
母親アナ・マリー(Anna Marie)は、幼いマリーの誕生後すぐに彼女を連れ、家政婦としてスイスのベルンへ向かう。雇い主は優秀な内科医のフィリップ・クルティウス(Philippe Guillaume Mathe Crutius)であった。マリーの母親がどういった経緯でクルティウスのもとで働くことになったかは知られていない。母親とクルティウスが血縁関係にあったとする説もあるが、はっきりとした事実は分かっていない。ともあれ、母親とマリーはベルンのクルティウスの家に身を寄せ、以後彼がマリーの養育者となる。このことはマリーのその後の人生を決定づけた。なぜなら、マリーにろう人形の技術を教えたのは、クルティウスその人だったからだ。
内科医としての仕事のほか、クルティウスは蝋(ろう)による造形にも優れた能力を発揮し、解剖模型などを制作していた。冷蔵庫などのない当時は、人体内部の構造を学ぶためにろう細工による模型が用いられていたが、クルティウスによる人体の精巧なミニチュア模型のコレクションは、人々の驚嘆の的になっていた。また、模型によって性的な興味を満足させるために彼の自宅を訪れる者も数多くいたという。その中には、ベルンを訪問していたルイ15世のいとこ、コンティ王子(Prince de Conti)の姿もあった。芸術や文学を愛し、アーティストを庇護していた彼(ブルゴーニュにワイン畑も所有していた。名酒として知られる赤ワイン「ロマネ・コンティ」はこの王子の名から来る)はクルティウスの人体模型に大変興味を示し、是非パリへ来ないかと勧める。世の中の動きに敏感で、機を捉えることに長けたクルティウスは、これによって本格的にエンターテインメントとしてのろう人形制作を決意する。
1765年、彼は単身パリへ移住。パトロンは時のフランス王ルイ15世のいとこである。医者という職業からの大胆な転身だが、前途洋々の旅立ちであった。