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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2016年7月7日 No.940

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生誕150年 湖水地方の保護に生涯をかけたビアトリクス・ポター

生誕150年 湖水地方の保護に生涯をかけた

ビアトリクス・ポター

ビアトリクス・ポターが散策を楽しんでいた、100年前の景観を保ち続けている湖水地方。彼女の描いた『ピーター・ ラビット』の物語の舞台として有名であるだけでなく、「英国一」とも称される自然の美しさは、ポターの貢献なく しては語れない。ビアトリクス・ポター生誕150年を迎える今年、自然保護に情熱を注いだ彼女の人生を振り返りなが ら、湖水地方の魅力とナショナル・トラストの活動について、あらためて考えてみたい。

●サバイバー●取材・執筆・写真/田中 晴子・本誌編集部

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【参考文献】
アニー・ブレン著『ビアトリクス・ポター』ピトキン・パブリッシング、
ジュディ・テイラー著・吉田新一訳『ビアトリクス・ポター 描き、語り、田園をいつくしんだ人』福音館書店 ほか

自然保護のために戦った闘士

ビアトリクス・ポターは『ピーター・ラビット』の物語を、豊かな自然をたたえる湖水地方を舞台に描いている。イングランド北西部にあるこの地は、渓谷沿いに大小の湖が点在する風光明媚な地域で、英国内でも有数のリゾート地・保養地としても知られ、その景勝は多くの詩人や芸術家たちを魅了してきた。この地で生まれ育った詩人ウィリアム・ワーズワースや晩年に移り住んだ美術評論家のジョン・ラスキンも、湖水地方の壮大な景観に着想を得ている。だがここでは、封建的なヴィクトリア朝時代に生まれ育ったポターが、いかにして自らの道を切り開き、湖水地方の環境保護運動に力を注ぐに至ったかを紹介していこう。
現在、湖水地方の4分の1がナショナル・トラストの管理下にあるが、ポターは死後に4000エーカーの土地と、15の農場という多大な遺産をナショナル・トラストに遺している。優しげな水彩画で描かれた、青い服を着たウサギ「ピーター」の生みの親は、自然保護のために戦う闘士であり、また非常に優れた農場経営者でもあったのだ。
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孤独だった子供時代

10歳頃のビアトリクス・ポターと、母のヘレン。
ポターは1866年7月28日、裕福な中流階級の娘としてロンドンのサウス・ケンジントンに生まれた。父方と母方の財産は、染布工場や造船業などによりイングランド北部で築かれたもので、彼らは産業革命が生んだ新たな市民階級の成功者たちの一部だった。オスカー・ワイルドの戯曲をはじめ、当時活躍した作家の作品には、こうした家庭の子女が上流階級の男性と結婚しようと策を練るといったストーリーが多く見られるが、貴族に匹敵する財力を築き上げた新興階級の家が次に望むのは、由緒正しい家柄、つまり「貴族の称号」だ。ポターの母であるヘレンもそうした考えを持つ一人で、成長したポターとの意見の相違は大きく、母娘の確執にポターは生涯悩まされることになる。
後年、ポターは米国の友人に宛てた手紙に「ありがたいことに、私の教育はおろそかにされました――(もし学校に行っていたら)教育によって独創性が幾分薄れることになったでしょう」と書いているが、当時の良家の子女がそうであったように、幼少時のポターも学校へ行かず、家で家庭教師について読書、作文、絵画や音楽を学んだ。外に友人を作ることもなく、1872年に6歳下の弟バーティ(バートラム・ポター)が生まれるまで、ほかの子供と接する機会もなかったようだ。ポターはその内面を豊かな想像力で満たすことで、寂しさや孤独感をまぎらわせていたのだろう。スコットランド人の乳母が繰り返し語る古い民話を好み、魔女や妖精の存在を信じ、父親の友人から貰った絵本『不思議の国のアリス』の挿絵に夢中になった。

自然観察とベストセラー作家の誕生

愛犬を抱くポター(15歳頃、写真右)と、
初めて湖水地方を訪れた一家が夏を過ごした
ウィンダミア湖畔に建つ「レイ・カッスル」(c CellsDeDells)。
ポターと湖水地方の出会いは早い。
彼女が16歳を迎えた1882年、父のルパートが夏の別荘として、湖水地方のウィンダミア湖西岸に建つ邸宅「レイ・カッスル」を借りたことから始まる。ロンドンでの堅苦しい生活を嫌っていたポターにとって、自然の中で羽を伸ばせるこの休暇は、何より楽しいひとときだったに違いない。目の前に広がる豊かな緑や色鮮やかな草花、のんびりと草を食む家畜、飛び回る昆虫などを観察し、やがてそれらを描くようになっていった。とくにキノコに多大な関心を抱いた彼女は、キューガーデンなどでキノコ研究に没頭。後にその研究結果を学会で発表しようとするものの、「女性」であることが高い障壁となり、受け入れられることなく終わっている。
また、この地で熱心な湖水地方保護活動家のハードウィック・ローンズリー牧師と、一家が知り合ったことも、ポターの人生に大きな影響をもたらした。当時31歳だったローンズリーは、ナショナル・トラストの前身となる「湖水地方保護協会」を立ち上げたところで、以後、彼はポターの終生の友人となる。
ポターは、休暇中に捕まえた昆虫や小動物をロンドンに持ち帰り、弟と一緒に育てながら絵を描き続けた。部屋には常にトカゲ、カエル、イモリ、ヘビ、コウモリ、そしてウサギやハリネズミ、ヤマネなどがいたが、後にピーター・ラビットやベンジャミン・バニー(ピーターのいとこ)といった、絵本の登場人物のモデルとなるウサギたちは、ロンドンのペットショップで購入されたという。彼らを見ながら描いたディナーのプレイス・カード(パーティーのテーブルに置く、参列者の名前が書かれたカード)を目にした叔父の提案により、ポターはいくつかの出版社に挿絵を持ち込み、そのうちの1社からクリスマス・カードとして採用されている。
さらに数年後、元家庭教師の息子に綴った、ウサギを主人公にした絵手紙が、子供たちに大好評だったという知らせを受けたポターは、今度は絵本というスタイルでの出版を考え始める。ローンズリーに助言を求めた彼女は、まず自費出版で世間の手応えを確かめた後、フレデリック・ウォーン社と1902年6月に出版契約を交わした。『ピーター・ラビットのおはなし』の初版8000部は、10月の刊行を待たずに予約だけで完売となり、年内に2度増刷。翌1903年末までには5万冊を売り上げるベストセラーとなった。

「ピーター・ラビット」ってどんな話?

1893年9月4日にポターが元家庭教師の息子(ノエル・ムーア)に宛てて書いた絵手紙が原型であるため、この日がピーター・ラビットの誕生日とされている。
シリーズ第1作『ピーター・ラビットのおはなし』=写真=は1902年に刊行。1作目ではピーターと彼の家族が紹介されている。お母さん、3人の姉妹と暮らすピーターだが、お父さんは近所の農場のマクレガーさんに捕まって「パイにされた」ので登場しない。いくつかのお伽噺がそうであるように、ポターの絵本には、ときに残酷でブラックな描写が含まれていることがあり、単に「青い服を着たウサギのかわいい絵本」だと思っている大人たちを驚かせる。逆に、子どもの心を掴むのはおそらくそのような部分ではないだろうか。1930年までに計23冊を発行。しかし、昨年に未発表作が発見され、今年9月に発売予定となっている。
ちなみに、ピーター・ラビットが登場するのは、1作目のほかに『ベンジャミン・バニーのおはなし』『ティギーおばさんのおはなし』『フロプシーのこどもたち』『「ジンジャーとピクルズや」のおはなし』『キツネどんのおはなし』の計6冊だ。

反抗と喪失―安らぎを求めて湖水地方へ

1894年に撮影された、(向かって左から)父ルパート、
ポター(28歳)、弟のバーティ(22歳)。
母のヘレンは、娘が自立したベストセラー作家になっても、彼女を10代の箱入り娘のように監視した。家には十分財産があるのに、絵具まみれになったり印刷所へ足を運んだりと、労働者まがいの振る舞いをするのは恥ずべきこと。それだけでも我慢ならないのに、フレデリック・ウォーン社の三男で、ポターの担当編集者であるノーマン・ウォーンと結婚すると言い出した娘に、ヘレンは激怒する。娘が「商人」と結婚するなど、考えただけでも耐えられない…! ヘレンは当然のごとく大反対したが、ポターの決意は固かった。ポターはこの時すでに39歳。「ミス・ポター」と呼ばれ続けるのも、従者なしでは未だに一人で外出することが許されないのも馬鹿げた話で、彼女こそ我慢の限界だったのだ。
両親に反対されようとも、私はこの愛を貫く――そう言い張るポターに、父のルパートは妥協案として、「婚約のことはごく限られた者だけにしか伝えず、ノーマンの兄弟にも知らせない」ことを約束させた。
ところが、プロポーズから1ヵ月後の1905年8月、ノーマンはリンパ性白血病のため、37歳でこの世を去ってしまう。ポターは悲しみに暮れたが、秘密の婚約であったことから、誰にもその胸の内を明かすことはできなかった。
秋に入る頃、悲しみから立ち直るため、ポターは思い切って湖水地方のニア・ソーリー村にあるヒル・トップ農場を入手する。以前にスケッチ旅行で訪れた時からニア・ソーリーを気に入っており、いつか物件を購入したいと願っていたのだ。ヒル・トップ農場は、17世紀の農家、農場付属の建物、果樹園のある34エーカーの農地からなっており、本の印税と叔母の遺産で購入した。ただし、ポターはニア・ソーリーに引っ越したわけではなく、あくまで湖水地方に滞在する際の「居場所」を確保したに過ぎない。それでも彼女はなるべくロンドンを離れるように務め、喪失感を埋めるかのように農場での仕事に打ち込んだ。

ロンドンのハイゲート・セメタリーにあるウォーン家の墓。
ノーマンもここに埋葬されている。写真左はノーマンと甥のフレッド。
「ピーター・ラビット」シリーズの絵本が順調に売り上げを伸ばし、印税収入も着実に増えてくると、ポターは長年の知人であるローンズリーが設立したナショナル・トラストを支援し始める。ナショナル・トラストは、土地を購入して開発や破壊から、自然環境や歴史的遺産を守る活動を行っている団体で、ポターはこれに賛同し、湖水地方の土地や建物を次々に購入していった。
また、こうした不動産の購入だけでなく、この地方原産のハードウィック種の羊の保護も率先して行った。ハードウィック種の羊毛は頑丈な上、防水性にも秀でていたことから衣類や敷物に珍重されていたが、数年前から家屋の床張りにリノリウムが使われだし、この羊毛値が暴落。これにより牧羊をやめて、廃業する農家が次々に現れたのだった。この地方で農地経営が行われなくなったら、土地は荒廃し、景色も一変してしまう…。ポターはローンズリーの勧めもあり、本格的な農場経営に加え、羊の飼育にも乗り出していく。水上飛行機の飛行場ができるという噂が立ったときは、抗議文を雑誌へ投稿したり、建設反対の署名運動も行ったりしている。

映画「ミス・ポター」

ポター(レネー・ゼルウィガー演)が絵本作家になるまでを描いた、2006年製作の作品。本作は、婚約者ノーマン・ウォーン(ユアン・マクレガー演)との死別という悲しみを乗り越え、印税で購入したヒル・トップ農場で創作に専念し始めるところで終わる。
原作者のポターにスポットを当て、改めてその人物像が知られるようになったのは、この映画の功績のひとつと言える。また、ユーモアを交えさらりと描いているものの、封建的なヴィクトリア朝時代に、未婚の女性が本を出版することの難しさが伝わってくる。
湖水地方の各名所で撮影されたが、ニア・ソーリー村のヒル・トップ農場は、ロケを行うにはあまりにもポターの私物が多く(死後そのまま保管されている)、現在も農場として運営されていることから、撮影は不可能と判断。代わりに、コニストンにあるユー・ツリー農場が使われた。

第2の出会いと人生の始まり

ニア・ソーリー村にある、ヒル・トップ農場の方向を指すサイン。
後ろに見えるのは、夫婦で暮らしたカッスル・コテージ。
自然保護活動のために購入した土地や建物が増えると、その管理には弁護士が必要となり、ポターはウィリアム・ヒーリスという現地の弁護士に、売買契約や諸手続きを依頼することにした。ヒーリスは40歳を少し過ぎたスラリと背の高い美男子で、大変なスポーツマンだったという。彼はポターの自然保護運動にも共感し、彼女に不動産情報を与えるほか、様々な取引を代行した。ヒーリスは自分の故郷を愛し守ろうとする、ロンドンからやってきたこの強い女性を深く尊敬し、多くの時間を一緒に過ごして土地の改良計画を共に考えた。2人はゆっくりと愛情を育み、ついに1912年6月、ヒーリスはポターに結婚を申し込む。
ポターの両親はまたしても格の違いを理由に結婚に反対するが、思わぬところから助けが入った。スコットランドで暮らしていた独身のはずの弟のバーティが、実は自分は11年前に内密に結婚しており子供もいることを、初めて両親に打ち明けたのだ。ショックを受けた両親は、もはやポターの結婚に反対する気力もなく、翌年10月に2人はロンドンで結婚式を挙げた。ポターは47歳、ヒーリスは42歳。ようやく「ミス・ポター」という呼称を返上し「ヒーリス夫人」となったことを、彼女は心から喜んだ。「今はもう、後ろを振り返らないのが最善でしょう」。ポターは、友人への手紙にこう書いている。
2人はニア・ソーリー村のカッスル・コテージを購入し、ポターが農場経営と絵本執筆、ヒーリスが弁護士事務所での仕事と、幸せで落ち着いた暮らしを送った。しかし一方で、彼らは年老いた親族の生活も支えていた。ヒーリスは伯母の面倒を見ており、ポターにはロンドンに両親がいた。1914年に父親がガンで死去すると、ポターはかつて一家で夏の休暇を過ごしたことのあるウィンダミアの邸宅「リンデス・ハウ」を母のために購入し、彼女をロンドンから呼び寄せる。ヘレンは女中4人、庭師2人、運転手1人を連れて越してきたが、「田舎暮らしは退屈」と常にこぼしていたという。

スキャンダルを乗り越えて

ポターと、5歳下の夫ウィリアム・ヒーリス。
フレデリック・ウォーン社との仕事は、婚約者のノーマンが死去して以来、兄のハロルド・ウォーンが担当編集者となっていた。だが、ハロルドとは作品内容について対立することが少なくなく、そのうち印税支払い書が届かないことも増え、ついに彼女は催促状を送ることにする。
「見つけられる最後の明細書は、1911年のものです」
この手紙を書いたのは1914年。3年も黙していたのは、ノーマンの肉親であり、彼との大切な思い出がある会社だからだろう。ところが彼女の懸念は的中。ハロルドが自分の借金の穴を埋めるため、出版社の資金を流用しようと、合計2万ポンドにのぼる偽造為替手形を使っていたことが判明したのだ。ハロルド逮捕の報を受けたポターは、すぐさま版権の保護を弁護士に依頼。そしてハロルドが二度とウォーン社に関与しないという条件で、新たに2冊の絵本を出版することを約束した。これはノーマンのもう一人の兄フルーイングが、ウォーン社を再建する手助けのためだった。ポターの絵本は、ウォーン社にとっての頼みの綱となっていたのである。
そんな中、今度は弟バーティの急死の知らせが届く。46歳の若さで、死因は脳溢血だった。幼い頃から共に絵や動物を愛し、封建的な両親と戦ってきた弟を亡くしたポターは、大きなショックを受けた。しかし、農場経営や母の世話、ウォーン社への対応など、彼女にはやらなければならないことが山程ある。ポターは立ち止まることなく、前を見て進むのだった。

ナショナル・トラストって何?

産業革命で、都市や農村のあり方が大きく変わりつつあった1894年。美しい田園風景や歴史的な価値がある建物を、国民の『共通遺産』として残そうと、3人の有志たちによって設立されたのが「ナショナル・トラスト」である。
中心となったのは、弁護士のロバート・ハンター。議会に働きかける形の環境保護運動に限界があることに気づき、地域の乱開発を防ぐためには、それが破壊される前に「土地を購入するべし」という結論に達したのが出発点だった。土地の購入資金はトラスト・メンバーの会費や個人の寄付が財源となっており、基本的に政府からの援助は受けず、独立機関として活動。現在では英国最大の民間土地所有者となっている。
また、創立者の一人である牧師・社会事業家のハードウィック・ローンズリー=写真=は、ポター家の友人であり、彼女に多大な影響を与えた。
残りの創設者はオクタビア・ヒルといい、過酷な生活環境に置かれている労働者たちを助けるための、住宅改良運動に尽力した女性として知られる。彼女の提案で「ナショナル」(=国民のための)、慈善的な組織であることを強調するために「トラスト」(=信託)という言葉が選ばれ、名称が決められたという。

遺灰はもっとも愛した丘に

ウィンダミアにある小高い丘「オレスト・ヘッド」からの眺め。
ウィンダミア湖も一望できる。
しかしながら、創作意欲は次第に衰えていった。「視力が衰えた」とポターは話しているが、農場経営に対する興味が大きくなったことも確かだったようだ。1924年には、湖水地方で最も景観の美しい農場のひとつ、トラウトベック・パーク農場を購入。ここは2000エーカーを超える大農場で、ニア・ソーリー村の3つの農場も加えると、ポターはまぎれもない湖水地方屈指の大地主となった。
高級車モリス・カウリーの新車を買い、毎日これらの農場を見て回るため、風を切って走るポターの姿はおなじみだったという。ただし、服装に無頓着な彼女は、いつもブカブカのレインコートに長靴、ヨレヨレの中折れ帽を被って、ホームレスから同類扱いを受けたこともあったらしい。
1943年、クリスマスの3日前の12月22日、77歳のポターはカッスル・コテージにて気管支炎で亡くなるが、その寸前まで精力的に湖水地方の自然保護活動を続けた。死期を悟った時には綿密な遺書を作成し、農場の今後や、自分の作品の寄付先も指示。遺灰はニア・ソーリー村の彼女がもっとも愛した丘に撒くように、と信頼の置ける羊飼いのトムに伝えられた。「村のどこに散骨したかは、夫のヒーリスにも言ってはいけない」と固く口止めされたというトムは、その秘密を守ったまま1986年、90歳で死去している。

あまり身なりを気にしなかったポターは、
浮浪者に間違えられたことも。
ポターの遺言により、ナショナル・トラストは、湖水地方の4000エーカーを超える土地と、15の農場や古家を譲り受けることになった。さらに、ヒル・トップ農場にある家の部屋は彼女が残したままの状態で保存し、誰にも貸してはならないこと、農場で飼育する羊は純粋のハードウィック種を維持すること、そして領地内での狩猟は固く禁じることなども添えられていた。
数多くの才能を持ったパワフルな女性、ビアトリクス・ポター。彼女は、絵本のインスピレーションの源であり、つらい時に自分を支えてくれた湖水地方の美しい自然や動物たちを守るために、あらゆる努力を惜しまなかった。現在、私たちが見ることができる湖と山々で織りなされるドラマチックな風景は、その半生をかけて全力で守ろうとしたポターがいたからこそ、今なお存在しているのである。

湖水地方(Lake District)
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