野田秀樹新作舞台 NODA•MAP「正三角関係」世界配信決定
野田秀樹新作舞台 NODA•MAP「正三角関係」世界配信決定
英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2015年11月5日 No.906

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無言の証人

アウシュヴィッツを征く 後編


人類が二度と繰り返してはならない『負の遺産』として
後世の人々にホロコースト(大量虐殺)の歴史を
伝え続けるアウシュヴィッツ元収容所。
ポーランドの緑豊かな田園地帯で今も異彩を放つ
この収容所跡について、前編から引き続きお送りすることにしたい。

●サバイバー●取材・執筆・写真/ 本誌編集部
※本特集は、週刊ジャーニー2004年12月2日号に掲載したものを再編集し、2回に分けてお届けしています。

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▲アウシュヴィッツに保管されている、おびただしい数の靴。持ち主がどのような運命をたどったかは、改めて言うまでもないだろう。
Special Thanks To:
Polish National Tourist Office, Level 3, Westgate House, West Gate, London W5 1YY
Tel: 0300 303 1812
E-mail: このメールアドレスはスパムボットから保護されています。閲覧するにはJavaScriptを有効にする必要があります。
Homepage: www.poland.travel/en-gb
Polish National Tourist Office in Krakow
Homepage: www.krakow-info.com
参考文献:『ユダヤ人』上田和夫著(講談社刊)/『ヒトラーとユダヤ人 悲劇の起源をめぐって』フィリップ・ビューラン著、佐川和茂・佐川愛子訳(三交社刊)/『ホロコーストを学びたい人のために』ヴォルフガング・ベンツ著、中村浩平・中村仁訳(柏書房刊)、このほか関連ホームページ各種

強制移住計画の挫折の果て

ホロコーストの代名詞であり、「死のキャンプ」「死の大量生産工場」として稼動することになるアウシュヴィッツの建設が始まったのは1940年。「前編」では、極貧生活の中でヒトラーがユダヤ人に対して抱くようになった異常なまでに激しい憎悪、そして偏見に満ちた主張などが、いかにしてこのアウシュヴィッツに代表される「収容所」へとつながっていったかについて触れた。不条理きわまりない主張の数々が、一国の指導者、しかも独裁的立場にある人物から発せられたことは、恐ろしい限りである。
ただ、ヒトラーは政権に就いた時(33年)から、ホロコーストを計画していたわけではないという見方がある。ユダヤ人をドイツのみならず、各国から追放し、どこかに監視つきの専用居住地を定め、そこにおしこめることを一時は真剣に考え、マダガスカル島(英国との関係悪化で挫折)や、ロシア(第二次世界大戦での対ロシア戦の長期化により挫折)の一部などが候補にあがっていたという。
ゲットー(ユダヤ人居住区)を定め、財産を没収し、教職をはじめとする公職につくのを禁止することにより、当初は、ユダヤ人勢力封じ込めの目的は達成されていた。
しかし、第二次世界大戦の戦況が思わしくなくなるにつれ、ヒトラーおよびナチス上層部の態度は過激さを増していく。おそらく41年ごろ、ユダヤ人問題の「最終解決=絶滅」という図式が成立し、国家を挙げてその実現に突き進んだとする解釈は説得力のあるものと思える。

収容棟のまわりには、高圧電流の流れた有刺鉄線が
張り巡らされていた。アウシュヴィッツにて。
こうして「絶滅収容所」での「最終解決」策が『効率的』に実行されるに至る。アウシュヴィッツはその実践地の中でも、特筆に値する存在だった。ちなみに、もとの地名はオシフィエンチムだったが、その前年、ポーランドがドイツ軍との戦闘に破れ、ドイツ第三帝国の一部に組み込まれたため、アウシュヴィッツのドイツ名が与えられていたのだ。
戦前、ポーランド軍の施設があったアウシュヴィッツに収容所建設地の白羽の矢がたったのは、交通(鉄道)の便がよく、それでいて適度に人口密集地から離れていたためとされる。
ゲットーは、はずれとはいえ市街地に接していることが多かったため、ゲットーと外の世界のつながりを完全に絶つことは難しく、情報交換、援助などが続けられがちで、「絶滅収容所」として使用するには適さなかった。また、ナチスは「絶滅収容所」で何が起こっているかを知られたくなかったのである。
当時、ヨーロッパを中心に1100万人のユダヤ人がいたと推定されているが、ホロコーストにより約600万人が犠牲となり、そのうちの150万人がアウシュヴィッツで灰と化したとされている。これらについてもナチスが意図的に証拠隠滅を図ったため、はっきりした数字を確認するすべはない。しかし、総数が500万、あるいは400万だったからといって、ホロコーストが起こったという事実の重みが減じられるものではない。この点を論争の焦点にすること事態、無意味というべきだろう。
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働いても待つのは死のみ

「労働が自由をもたらす(Arbeit macht Frei)」―アウシュヴィッツへの入り口だけでなく、ほかの複数の収容所にも掲げられていたモットーだが、ナチスによる悪質な意地悪、皮肉、あるいは欺きとしかとりようがない。
ここアウシュヴィッツでは、150万人が働いても自由になれなかったばかりか、生きることさえ許されなかったのだ。
収容所の設立命令が下ったのが1940年4月。所長には、戦後、絞首刑に処されることになる、悪名高いルドルフ・ヘスが任命され、同6月14日には、700人余りのポーランド人が政治犯として収容された。
以来、平均収容者数は1万3000―1万6000を推移。多い時には2万8000人が一度に収容されたこともあったようだが、すぐに人数は「調整」された。通常よりガス室を頻繁に使えば済むことだったろう。

アウシュヴィッツの焼却炉。いったんナチスに
爆破されたが、復元されたもの。
さて、このアウシュヴィッツ収容所跡こと、「国立オシフィエンチム博物館」へは、クラクフを拠点に日帰りで訪れるのが一般的。第二アウシュヴィッツの別名を持つ、ビルケナウ収容所とあわせて、両方を見学するツアーを利用するのが便利だ。ただ、季節により、また使用するツアー会社により、1グループあたりの人数は大きく違う。大型バス1台分で1グループというような場合は、ガイドの説明を聞くのも一苦労。できれば、ミニバスツアーで、1グループ10人以下程度のものを探して参加したい(ツアー会社によっては、日本人ガイドを頼むことも可能)。
我々取材班が参加したツアーは、午前9時半にクラクフを出発した。アウシュヴィッツまでは一車線道路。クラクフ郊外の田園地帯を安全運転で走ること1時間余り、11時前に現地に到着した。
11時から20分間、ホロコーストに関するショートフィルムを見て下準備をし、それからようやく実際の収容所跡ツアーがスタートした。
銃殺時に使われ、殺される者は壁を向いて立たされたという「死の壁」、集団絞首台、懲罰のための独房、ガス室、そして焼却炉…ガイドの淡々とした説明が逆に恐ろしい光景を思い描かせる。他人に対して、どんなに残酷なことをしても許されるという状況に置かれたら―普通の人々の日常生活で、それは「ありえない」ことだが、70年前、ここではそれが当たり前の現実だったのだ。
どの展示も、ホロコーストの酷さを示し、二度と繰り返さないように「忘れないで」と懸命に訴えているように感じさせたが、最も印象深かったのは、第5棟の「犯罪証拠」と題された展示だった。

ビルケナウの収容者用トイレ。許された
使用時間は1分だけだったという。
ナチスは、驚くべき律儀さと勤勉さを発揮し、利用できそうなものはすべて集めて保管した。35あった保管倉庫のうち、ナチスに破壊されずに残ったのは6棟のみというが、そこから発見されたものだけでも、思わず絶句する量だった。衣服はいうに及ばず、メガネ、カバン、ブラシ類、洗面器類、流用できるのか疑問に思う義足から、毒ガスとして使われたとされるチクロンBの結晶が入っていた空き缶などまで、何でも保管してあった。その中には約2トンの頭髪も含まれていた。頭髪は1キロあたり半マルクで販売され、ドイツ本国で靴下や毛布用の職布として利用されたという。
この頭髪もショッキングだったが、筆者が最も胸をしめつけられたのは、靴の山だった。展示室の両脇に積み上げられた靴、靴、靴、靴…。夏に収容された者がはいていたと一目でわかるサンダル、冬のブーツ、女性の赤いパンプス、子供の小さな靴。衣服や頭髪以上に、その持ち主の運命を雄弁に物語っているように感じられて立ちすくんでしまったのだった。

上の地図は、1942年、第3帝国時代のドイツ(大ドイツ国)の領土を示すもの。
Martin Gilbert: The Holocaust: The Jewish Tragedy, London 1986より
*赤い点線は1942年末のドイツ軍前線、収容所は主な収容所のあった場所

「死の門」をくぐった線路

約2時間のアウシュヴィッツでの見学を終え、今度はビルケナウ(ブジェジンカ)へ。8キロしか離れておらず、車で10分弱の場所だ。
1945年1月27日、アウシュヴィッツとともに、ソ連軍により解放されたこのビルケナウは、証拠隠滅をあせるナチスにより大幅に破壊され、アウシュヴィッツほど「展示物」が残されていない。しかし、鉄条網に囲まれた敷地はアウシュヴィッツよりはるかに広大で、また、わずかに残る収容棟が粗末な木造バラックであるため、アウシュヴィッツより、さらに大規模に、ただ「絶滅」のために急いで造られた場所という印象を受けた。

2003年にフジテレビでリメイクされたドラマ『白い巨塔』で、
主役の財前五郎を演じた唐沢寿明が「死の門」をバックに
立つシーンは印象深かった。
©Fuji Television Network Inc.
このビルケナウで、最もよく知られている写真の構図といえば、線路伝いに、「死の門」と呼ばれたSS中央衛兵所を望むものだろう。テレビのリメイク版『白い巨塔』で、唐沢寿明扮する主役が、ふたまたに分かれた線路の間で立ちつくすシーンにも使われた。
列車でここまで運ばれてきた人々は、SSの医師たちにより選別され、すぐにガス室に送られるか、劣悪な条件のもと、死の恐怖と隣り合わせの中、過酷な重労働に就かされるかのどちらかだったのだ。しかも、重労働の先に待っているのも、やはり死のみ。いかに絶望せずに、行き続けるか。生き残った人々の運と精神力の強さに感嘆するほかない。
ここでの約40分の見学を終え、クラクフの街に戻った取材班は、その夕刻、ワルシャワに移動した。クラクフと首都ワルシャワはポーランドの誇る高速列車で、ノンストップで結ばれている。所要約2時間半の快適な旅だ。車窓には、ポーランドでは農業がまだまだ主要産業のひとつであることをうかがわせる、牧歌的な景観が広がる。

ビルケナウの「死の門」。収容者を詰めこんだ列車は
この門をくぐり、敷地内に入った。列車が到着するなり、
すぐに『選別』が行われたのだった。
美しいのだが、なぜか切なく哀しいものに映って困った。18世紀末、ロシア、プロイセン、オーストリアの3国によって、3度にわたり分割されたばかりか、20世紀に入ってからは、39年から6年間ドイツ軍に占領され、第二次世界大戦後、名目上は独立したものの、ソ連の強い影響から逃れられず、国として真にひとりだちできるようになったのはソ連崩壊後といえるポーランド。そしてそのポーランドの絶滅収容所で失われた何百万という人命。お世辞にも幸福とはいえない一連の歴史が、風景をも違ったものに見させていたのだろう。やがて、西の空は鮮やかな夕焼け雲に覆われた。日本でも英国でも見ることのできないような、紅い紅い夕焼けだった。

前編に戻る…


ナチス関連年表
1914年7月28日 第一次世界大戦勃発(オーストリアがセルビアに宣戦布告)
1918年11月9日 ドイツ革命(皇帝ヴィルヘルム2世退位、オランダへ亡命)
11月11日 ドイツが休戦協定に署名。事実上、第一次世界大戦終了。ヒトラーは対英戦での負傷で入院中、この知らせを受けた
1919年1月5日 ナチス結成
6月28日 ヴェルサイユ条約調印
1923年11月8日 ヒトラー、ミュンヘン一揆を起こすが失敗(ヒトラー自身を長とする「国民政府」樹立を目指し、ミュンヘンでクーデターを実行。バイエルン州総督らを武力でもって賛同させようとしたが、あっけなく失敗し翌日逮捕され、有罪となり禁固刑を科される)
1924年12月20日 ヒトラー、出獄(獄中、副総統ヘスに口述筆記させ、『我が闘争』〈英語名『My Struggle』〉を完成させる)
1932年7月31日 ナチス、第1政党になる
1933年1月30日 ヒトラー内閣成立(ナチ党員は、首相のヒトラーを含め、3名が閣内入りを果たしたに過ぎなかった。副首相パーペンら保守派はナチスに実権を与える気はなく、ヒトラーを「飼いならす」つもりだったが、まもなくその見立てが甘かったことを知る)
4月26日 ゲーリングを長官とする、ゲシュタポが発足
1934年8月19日 ヒトラー、首相と大統領を兼任
1935年3月16日 ヴェルサイユ条約を破棄し、ドイツは再軍備宣言を行う
9月15日 ニュルンベルク法公布(ドイツで、ユダヤ人迫害を合法的に行うことが可能になる)
10月21日 ドイツ、国際連盟脱退
1936年8月1日 ベルリン・オリンピック開催
1937年11月6日 日独伊防共協定成立
1938年3月13日 ドイツ、オーストリアを併合
11月9日 「水晶の夜」事件(ユダヤ人の店などが各地で襲われ、路上に散乱したガラスの破片が水晶のように光ったことから、こう呼ばれる)
1939年9月1日 第二次世界大戦勃発(ドイツ軍、ポーランドに侵攻開始。翌年4月にはノルウェーに侵攻、デンマークを無血占領)
1940年5月1日 ルドルフ・ヘス、アウシュヴィッツ収容所の所長に任命される
6月22日 フランス、ドイツに降伏(翌年4月、ギリシャがドイツに降伏)
1941年6月22日 ドイツ、ソ連と戦闘開始(モスクワ、スターリングラードを対象に大々的な軍事作戦が繰り広げられたが、43年には、スターリングラードのドイツ軍が降伏)
1943年9月8日 イタリア、無条件降伏
1944年6月6日 連合軍、ノルマンディ上陸作戦開始
7月20日 ヒトラー、暗殺計画失敗
8月25日 連合軍、パリを解放、11月にはソ連軍がドイツ国境内に入る
1945年4月22日 ソ連軍、ベルリン市街に突入
4月30日 ヒトラー、エヴァ・ブラウンとともにベルリンにて自殺
5月7日 ドイツ、無条件降伏

トラベルインフォメーション ワルシャワ

※情報は2015年11月2日現在のもの。


◆ポーランドが初めて統一されたのは10世紀後半のころ。当時の首都はクラクフで、ヨーロッパでも有数の富裕な都市として発達、16世紀にはルネサンス文化が栄えるなどしたが、東のロシア、西のプロイセン(後のドイツの一部)、南のオーストリアと、まわりを強国に囲まれ、常にそれらの脅威にさらされる宿命にあった。この3国により、1772年(第一次)、93年(第二次)、95年(第三次)と三度分割され、95年の分割で、事実上、国としてのポーランドはいったん消滅してしまう。
◆独立運動を続けた結果、1918年、ようやくポーランド共和国として復活。しかし、これも長続きせず、39年、ヒトラー率いるナチス‐ドイツに占領された。ナチスの敗北を受けて、45年6月には統一政府が誕生するも、今度は、ポーランドを解放してくれたはずのソ連の影響下に入り、「東欧」として共産圏の一部に組み込まれた。真の独立は、ソ連崩壊後といっていいだろう。2004年5月にはEU加盟を果たした。
◆このポーランドの首都ワルシャワの歴史は比較的浅い。1596年、ジグムント3世=左上の像=がクラクフよりワルシャワへの遷都を行い、1611年から正式に首都となった。第二次世界大戦時、ドイツ軍の猛攻にあい、街の8割は灰と瓦礫の山と化したが、戦後、絵画や写真などの記録を頼りに「壁のひび」まで忠実に再現すべく、気の遠くなるような復興作業が市民によって行われ、今の町並みが作られたという。
◆ワルシャワには、戦争慰霊碑がいたるところにあるが、不屈のポーランド国民の誇りが結集した街といえるだろう。
◆見どころは、旧市街(一部、市壁が残る市場広場が中心)、およびそこから南にのびるクラクフ郊外通りと、しゃれたカフェやレストランも多い、新世界通り沿い(長さはあわせて約1キロ)に集まっているので、効率よく観光できる。

【時差】 英国より1時間早い
【ビザ】 90日以内の観光なら不要(残存有効期間は91日以上必要)
【通貨】 ズウォティ(Zloty)。補助通貨はグロシュ(Grosz)で、1ズウォティ=100グロシュ。2015年11月2日現在の為替レートは1ズウォティ=約17ペンス
【喫煙事情】 通りのゴミ箱には、必ずといっていいほど灰皿がついているくらい、喫煙には寛容。ただ、ワルシャワ空港内は、完全禁煙(バーでもダメ)なのでご注意!

主要な観光スポット

*オープン時間、入場料、イベントなどについては、ワルシャワの王宮広場にあるツーリスト・インフォメーションセンター、あるいは各スポットのホームページなどでご確認ください。
Tourist Information:
Stoleczne Biuro Informacji i Promocji Turystycznej
Plac Zamkowy 1/13, 00-267 Warszawa, Poland
Tel: +48 22 635 18 81
www.warsawtour.pl

キュリー夫人博物館 Muzeum Marii Sklodowskiej Curie

© Adrian Grycuk
1903年、放射性元素の発見により、夫とともにノーベル物理学賞を受賞したマリー・キュリー夫人。夫亡き後も研究を続行し、ラジウムの分離に関する発見に対して、1911年にはノーベル化学賞も受賞するという偉業を成し遂げた。日本では教科書によく登場するため馴染み深いこの女性の生家が、博物館として公開されている。
Freta 5
Tel: 22 831 80 92
http://en.muzeum-msc.pl


バルバカン Barbakan

© Carlos Delgado
ワルシャワ旧市街(Stare Miasto)の中心といえる旧市街市場広場(Rynek Starego Miasta)は市壁に囲まれていた。その壁の内側に入るための玄関口といえるのがバルバカン。英語でいう「バービカン(Barbican)」(=楼門、物見やぐら)と同じで、砦、あるいは牢獄として使われていたもの。戦火の被害にあったが、見事に復元されている。
ul. Nowomiejska
Tel: 22 531 38 02
http://muzeumwarszawy.pl/muzeum/lokalizacje/barbakan


ワルシャワ歴史博物館 Muzeum Historyczne Miasta Stolecznego Warszawy

ワルシャワ復興に関する展示が充実。
Rynek Starego Miasta 28
Tel: 22 635 16 25
www.stare-miasto.com/muzeum_historyczne.html

旧王宮 Zamek Krolewski

© Alina Zienowicz Ala z
首都をクラクフからワルシャワに移したジグムント3世の像を頂く石柱が中央にそびえる、王宮広場に面して建つ。かつてはジグムント3世の居城だった。内部は美術品など展示をする部分と、復元された「王の部屋」をはじめとする各部屋を公開する部分に分かれている。日曜日には一部の見学ルートが無料になるため、長い列ができる。
plac Zamkowy 4
Tel: 22 355 51 70
www.zamek-krolewski.pl


聖十字架教会 Kosciol sw Krzyza

コペルニクス像の向かいに建っている教会。中に入ると、大きな柱がいくつか目に入るが、向かって左側手前にある柱の下には、20歳で政情不安定なポーランドを離れてから、一度も祖国の土を踏むことなく39年の生涯を終えた、ショパンの心臓が埋葬されている。第二次世界大戦時、ドイツ軍に爆破され大きな被害を被ったばかりでなく、心臓も持ち出されてしまったものの、戦後の1945年10月17日、ショパンの命日に元に戻された。
Krakowskie Przedmiescie 3
Tel: 22 826 89 10
www.swkrzyz.pl


コペルニクス像 Pomnik M Kopernica

地動説を唱えたことで知られる、ミコワイ・コペルニクス(Mikolaj Kopernik 1473~1543)はワルシャワから180キロ ほども離れたところにある、トルンという町の出身。ポーランドを代表する偉人のひとり。


ショパン博物館 Muzeum Fryderyka Chopina

科学だけでなく、芸術面でもポーランド人が優れていることを証明した、フレデリック・ショパン(Fryderyk Chopin 1810~49)。自らも秀でたピアノ奏者だったショパンは、数々の名曲を残した。この博物館には、ショパンが最後に使ったといわれているピアノから、直筆の譜面、手紙まで、ショパンに関する2500点以上の資料がおさめられている。また、3階はコンサートホールとしても利用されている。
Okólnik 1
Tel: 22 441 62 51
http://chopin.museum/pl


文化科学宮殿 Palac Kultury i Nauki

ワルシャワ中央駅のすぐ近くにあり、37階建て、高さ234メートルという高層ビルなのでよく目立つ。「宮殿」というよりは、「博物館」兼「一大イベント会場」ともいうべき建物で、展望台もある。中には科学技術博物館、プラネタリウム、進化博物館(恐竜の展示などもあり)のほか、ポーランドTV、コンサートホールや映画館、劇場も入っている。スターリンからの「贈り物」として、1952年から56年にかけて建造されたが、ポーランド市民からすると「おしつけられた」という意識が強いらしく、「贈り物」とは名ばかりで、ポーランド市民からの税金で作られたと信じている人が少なくないそうだ。「ソ連の建てた、ワルシャワの『墓石』」といった、ありがたくないニックネームもあるという。
plac Defilad 1
Tel: 22 656 76 00
www.pkin.pl

トラベルインフォメーション クラクフ

※情報は2015年11月2日現在のもの。


◆1596年、ジグムント3世がワルシャワに都を移すまで、ポーランドの首都として栄え、それ以降も輝きを失うことなく、現在は古都として愛されている都市、クラクフ。ナチスードイツ占領下でも、司令部がここに置かれたため戦火をのがれたといい、美しい町並みが保たれている。
◆ワルシャワ以上に見どころが多いといってよく、市壁に囲まれた旧市街(Stare Miasto)はコンパクトにまとまっており、そぞろ歩きを楽しみながら観光したい場所だ。バルバカンから中央市場広場へ抜け、この広場から城へと向かえば、主要な観光ポイントをおのずと訪れることになる。
◆なお、旧市街を出て、南に下ったところにあるカジミエーシュ地区(Kazimierz)は、戦前、ユダヤ人が多く住んでいたところだった。14世紀なかばにヨーロッパを襲ったペスト(黒死病)により、ユダヤ人はその災禍の原因であるとして迫害され、多くのユダヤ人が、中欧、さらには東欧へと逃れた。農業国ポーランドは、商業・工業面で立ち遅れており、支配者層はユダヤ人の流入をむしろ歓迎したため、特に多くのユダヤ人が移り住んだ。カシミール(カジミエーシュ)3世(1310~70)などは、ユダヤ人を厚遇したことで知られるが、ユダヤ人は手工業の知識、商業のノウハウをいかして期待にこたえ、ポーランドの発展に尽力したのだった。
◆ヒトラーが、ユダヤ人絶滅収容所をポーランドに作ったのは、同国が多くのユダヤ人を抱えていたことと密接に関係している。
◆映画『シンドラーのリスト』にもでてきた、クラクフのユダヤ人コミュニティは壊滅的な打撃を受けたが、もとの彼らの居住区、カジミエーシュ地区は、現在はしゃれたバーやレストランが集まるトレンディなエリアとして注目されている。

【ワルシャワからのアクセス】
*アウシュヴィッツ収容所だけが目的の場合はクラクフ空港に入るのがベストだが、ワルシャワでの観光も含めたい場合、空路ワルシャワに入り、ワルシャワ~クラクフ間は電車で移動するのが一般的。ワルシャワ~クラクフ間は、ノンストップで約2.5時間。


ポーランドでぜひお試しいただきたいのが、水ギョウザそっくりの「ピエロギ(Pierogi)。ひき肉、チーズ、野菜(キャベツの酢漬けが一般的)など、具はいろいろ。ただし、皮がかなり厚いため、すぐにおなかいっぱいになるのでご注意を。

主要な観光スポット

*オープン時間、入場料、イベントなどについては、ツーリスト・インフォメーションセンター、あるいは各スポットのホームページなどでご確認ください。

Tourist Information:
Punkt Informacji Miejskiej
ul. Szpitalna 25 Kraków, Poland
Tel: +48 12 432 00 60
www.krakow.pl


バルバカン Barbakan

旧市街を囲む市壁内に入るための玄関口である、楼門。騎士たちの多くは右利きで、盾は左手、剣は右手に持つのが普通だったので、ここに入る際、騎士たちは盾で覆ってない、体の右半分をフロリアンスカ門の衛兵(いつでも矢を放てるように構えていた)に見せて入場するよう、入り口の角度が設定してあったという。
Basztowa
Tel: 12 422 98 77
www.mhk.pl/oddzialy/barbakan


フロリアンスカ門 Brama Florianska




聖マリア教会 Bazylika Mariacka

クラクフに数ある教会の中でも、ひときわ目立つ荘厳な教会。1222年建造で、中央市場広場に面してそびえる。昔々、モンゴル軍がクラクフに攻め入ろうとした時、敵が来たことを知らせるために、ある兵士がこの教会の塔の上でラッパを吹き鳴らした。このラッパ手は、まもなくモンゴル兵の放った矢に貫かれて絶命するが、そのラッパ手の死を悼んで、今でも1時間ごとにラッパが吹き鳴らされる。
plac Mariacki 5
Tel: 12 422 05 21
www.mariacki.com


織物会館 Sukiennice


旧市街の中心である中央市場広場のほぼ中央にある、ルネッサンス様式の建物。14世紀に建造され、当初は衣服や布地の取引所として使われたため、この名がついた。中には土産物屋がぎっしりとならび、華やかな雰囲気が漂う(ただし、値段は少々高め)。2階は国立美術館(Galeria w Sukiennicach)。また、中央市場広場のまわりにはレストラン、カフェ、店などが軒をならべ、いつもにぎわっている。
Rynek Główny 1-3
Tel: 12 433 54 00
http://mnk.pl/oddzial/galeria-sztuki-polskiej

聖ペテロ・聖パウロ教会 Kosciol sw Piotra I Pawla

教会の外に聖人たちがずらりと並んでいるのは、中が小さすぎるため、というジョークがささやかれる教会だが、実際にはかなり大きく、かつ荘厳。
Grodzka
www.apostolowie.pl


ヴァヴェル城 Zamek Krolewski na Wawelu

歴代ポーランド王の居城として使われた場所。旧王宮部分にある、王宮博物館(Komnaty Krolewskie)、18世紀まで代々、ポーランド王の戴冠式が行われた大聖堂(Katedra Wawelska)、金色のドームが目印のジグムント・チャペル(Kaplica Zygmuntowska)、ポーランド最大の鐘がつるされているジグムント塔(Wieza Zygmuntowska)など、見どころが多い。なお、このジグムント塔の鐘は、宗教上、あるいは国政上、重要なことが起こった時にしか鳴らされないことになっている。
Wawel 5
Tel: 12 422 51 55
www.wawel.krakow.pl


竜の洞窟と竜の像 Smocza Jama

その昔、ヴィスワ川には竜が棲み着いており、近隣の村の若い娘を食べるとして、憎まれおそれられていた。ある時、靴職人の弟子が、タールと硫黄を毛にしみこませた羊を娘と偽って、この竜に食べさせたところ、のどが猛烈に渇いた竜はヴィスワ川の水をおびただしい量飲み、ついには破裂して死んでしまった、という伝説が残っているという。この靴職人の弟子は、お姫様と結婚し、めでたしめでたし、という結末だが、竜が棲んでいたという洞窟が残っており見学することができる。また、近くに竜の像もあり。
Wawel
www.sktj.pl/epimenides/jura/smocza_p.html


日本美術・技術センター(『マンガ館』) Manggha: Centrum Sztuki i Techniki Japonskiej

© Zygmunt Put Zetpe0202
日本美術のコレクターだった、フェリクス・マンガ・ヤシェンスキ氏のコレクションを展示。2000点を超える、安藤広重の作品を含む、4600点以上の浮世絵が中心というコレクションのほか、日本文化に関連したものがおさめられている。なお、『マンガ』は、同氏が好んで使ったペンネームで「北斎漫画」からきているそうだが、このセンターにコミックとしての「マンガ」があるわけではない。
Marii
Konopnickiej 26
Tel: 12 267 27 03
http://manggha.pl