◆◇◆  和製サイダーは横浜から ◆◇◆

 

 


今はりんごの収穫も機械化された(右)が、かつては家族が総出で行っていた。
©The National Association of Cider Makers (NACM)
 ノンアルコールの和製サイダーの起源は、幕末・明治維新の頃にさかのぼる。1864年、幕末の横浜外国人居留地に、主に横浜に駐留する英国人らを対象とした薬の調合、販売や、英国からの医薬品と医療器具等の輸入業務を行った、横浜第一号となる薬局「横浜ディスペンサリー」が開業。同薬局の経営に携わっていた英国人で、薬剤師であったと思われるノースレーなる人物が、英国海軍人らの炭酸飲料を望む声に応えるため、1868年(明治元年)、自身の名を冠した商社兼薬局「ノース・アンド・レー」商会を立ち上げる。同商会は、炭酸飲料製造のための機械や瓶、香料、酸味料などを輸入、日本初となる炭酸飲料の製造販売を行ったという。
 この頃の英国は、大英帝国の名の下に、まさに世界を手中におさめようとするかのような勢いを誇っていた。東インド会社によるインドの植民地化の成功を足がかりに、さらに東へとその食指を伸ばしている最中だった。横浜は、植民地任務に就く英国の海軍人や商人が往来する寄港地であったのだ。
 そんな彼らにとって炭酸飲料は、喉の渇きを潤す用途とは別の重要な役割があった。たとえば、ジントニックの材料として知られる炭酸飲料の1種、トニックウォーターは、熱帯地での任務に必須とされた。トニックウォーターには、第二次世界大戦前まで抗マラリアの特効薬として重用された「キニーネ」(キナの樹皮の合成物質)が添加されていた。また当時、サイダーやレモネードなどの炭酸を多く含んだ飲料には殺菌効果があると信じられ、コレラなどの伝染病までも予防できると期待されていたという。植民地任務に奔走する英国海軍人らにとって炭酸飲料は、命を救う水とすら呼べるものだったと考えられる。

 

◆◇◆ 日本に西洋りんごがなかった!  ◆◇◆

 

 「ノース・アンド・レー」商会は、レモネード、ジンジャーエール、トニックウォーターなど10種類以上の炭酸飲料を製造した。和製サイダーの原型が生み出されたのはまさにこの時だ。「シャンパン・サイダー」と命名されたこの炭酸飲料は、炭酸水にパイナップルとりんごの香料で味付けしたものだった。パイナップルがシャンパンに似た風味、そしてりんごがサイダーの風味をもたらしたことから、こう呼ばれたと伝わっている。
 当時、日本人で炭酸飲料を口にすることができたのは政府の高官など、一部の人々のみだったというが、彼らの中ではこの「シャンパン・サイダー」が好評だったという。
 なぜサイダーにりんごそのものでなく、香料が用いられたのか。現在のりんごの主流は、ヨーロッパからもたらされたいわゆる西洋りんご。りんごは今では日本を代表する農産物の1つではあるが、維新後ヨーロッパから入ってきたものであり、当時国内ではほとんど栽培されていなかった。ある資料によるとこの当時、りんごの栽培が行われていたのは福井藩と加賀藩の2藩のみだったとされている。
 1899年(明治32年)、「ノース・アンド・レー」商会で働く西村甚作という男の助言を受けて、横浜扇町に住む秋元己之助なる人物が、炭酸飲料にりんごの風味を加えて味付けしたものを販売。パイナップルの香料は加えなかったためであろうか、この商品は「金線サイダー」と名づけられ世に出る。これが日本人の手によって最初に製造されたサイダーといわれており、ガラス瓶に王冠(金属製の蓋)をつけた炭酸飲料として全国的に売りに出された。
 その後、三ツ矢サイダーなど、いくつかのサイダーと名のつく炭酸飲料が登場するが、必ずしもりんごの香料で味付けされるとは限らなかった。炭酸水に砂糖などによる甘味と、レモンやライム等を含むなんらかの果実の香料で味付けした飲料であれば「サイダー」と呼ぶようになり、ますます本家サイダーとはかけ離れたものになっていったのだった。また、三ツ矢サイダーが全国的に受け入れられ、いよいよノンアルコール飲料としてのイメージが、日本では確立されるにいたった。 


サイダーは美しいクリスタルグラスに注がれ、18世紀、貴族の晩餐に供された。©NACM

  

◆◇◆ サイダー、光と影 ◆◇◆

 

 話を英国サイダーに戻そう。この企画のリサーチを始める前、筆者は「りんご酒=シードル」の日本的なイメージから、サイダーは1066年のノルマン征服により、フランスから持ち込まれたものだろうと推測していた。しかし実際のところは、ローマ人が英国に植民した2000年ほど前からりんごの栽培を始めており、サイダー作りも行われていたという。サイダーは英国で長い歴史を有する飲み物だったのだ。
 サイダーの主な生産地としては、その良好な気候と土壌でりんご作りに適しているというヘレフォードシャー、デヴォン、サマセット、ケントなどが古くから知られている。中でもイングランド中西部にあるヘレフォードシャーは、長い間サイダー作りの牽引役として中心的役割を果たしている。
 同地がサイダー作りのメッカとなったのは、17世紀、ヘレフォードシャーを治めていた領主、ジョン・スクダモアohn, 1s Viscon Scdamore(1601~1671年)の功績によるところが大きい。1630年代、スクダモアは、チャールズ1世(在位1625~49年)のもと、大使としてフランスへ渡る。そこで「レッドストリークRedsreak」という種類のりんごから作られたサイダーを味わい、大変感激したという。
 英国ではその頃、サイダーは水で薄められたものが出回るなど、スクダモアらのような貴族が口にするのに耐える良質なものではなく、主に庶民が飲むアルコールとされていていたのだ。フランスでは晩餐の席でさえ堂々と供される純度の高いサイダーを味わったことにより、彼はサイダーの新たな可能性を見出したのだろう。
 帰任後、その味を英国でも広めるべく、スクダモアはレッドストリークをヘレフォードシャー一帯で栽培するよう画策し、その目論見は見事成功する。その後、近隣の地域へも広がりを見せ、ヘレフォードシャーを中心にサイダーの生産量は、17世紀後半から18世紀中ごろにかけてピークを迎えたのだった。
 ところが19世紀に入ると、サイダー人気は徐々に陰りを見せ始める。庶民の間には、サイダーよりも価格が安いビールが広まり、上流階級の人々には、フランスやスペインから入ってくるワインが愛飲されるようになったからだ。
 人気低下に拍車をかけるように、レッドストリークなどの良質なりんごの作り手も少なくなっていく。産業革命によりサイダー作りも工業化が進められるも、コスト削減の結果であろうか、りんご分30%にも満たず、薄い水に炭酸ガスを入れただけのような粗悪品のサイダーが出回るようになってしまう。こうしたことから、サイダーが「低所得者や10代の若者の安上がりな慰み」へと成り下がっていったのであった。 
 

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