英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2015年10月29日 No.905

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無言の証人

アウシュヴィッツを征く 前編


人類が二度と繰り返してはならない『負の遺産』――
アウシュヴィッツ元収容所を形容するのに頻繁に使われる言葉だが、
この収容所跡の「存在意義」をきわめて的確に表現し得たものといえる。
ユダヤ人を中心に150万ともいわれる、おびただしい数の人命がここで失われた。
この悪名高いアウシュヴィッツ収容所が解放されてから70年。
前後編の2回に分けて、アウシュヴィッツについてご報告することにしたい。

●サバイバー●取材・執筆・写真/ 本誌編集部
※本特集は、週刊ジャーニー2004年12月2日号に掲載したものを再編集し、2回に分けてお届けしています。

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▲ビルケナウにて。多くの収容者にとって、この線路上を運ばれ、ここに到着したということは即、死を意味した。
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Homepage: www.krakow-info.com
参考文献:『ユダヤ人』上田和夫著(講談社刊)/『ヒトラーとユダヤ人 悲劇の起源をめぐって』フィリップ・ビューラン著、佐川和茂・佐川愛子訳(三交社刊)/『ホロコーストを学びたい人のために』ヴォルフガング・ベンツ著、中村浩平・中村仁訳(柏書房刊)、このほか関連ホームページ各種

二千年前からさすらい続けるユダヤ人

かねてから弊紙で取り上げたいと考えていたアウシュヴィッツを取材班が訪れたのは、9月半ばのことだった。かなり内陸にあるポーランドの古都クラクフから車で一時間。我々が降り立った「国立オシフィエンチム博物館」こと、アウシュヴィッツ元収容所の上には青空が広がり、収容棟のまわりに植えられた木々の葉が、秋の陽光の中でキラキラと輝いていた。
あまりの「のどかさ」に、言葉を失った。
今から約70年前、この地を支配していたのは苦しみ、悲しみ、恐怖、そして死。命を奪われた大多数は、ユダヤ人というだけでここに連れてこられた人々だった。ヒトラー率いるナチスにより、憎悪の対象として選ばれたからである。
なぜ、ユダヤ人が?
数え切れないほど多くの文献やホームページでそれについて取り上げられているので、それらを参考にここで編集部なりにまとめてみることにする。
ユダヤ人が「嫌われる」ようになったことの起こりは、ユダヤ王国の首都エルサレムがローマ軍に包囲され、その1年後に陥落した日(紀元70年)にまでさかのぼる。これ以降、ユダヤ人は故郷パレスチナを追われ、中東のみならず、ヨーロッパ、さらには北米などへ、陸をつたい、海を越え、安住の地をめざしてさすらうことになる。ユダヤ人が自分たちの国を維持し、そこに住み続けていれば、その後の約2000年という長い期間にわたって繰り返された差別や迫害を受けずに済んだであろうと考えられる。ユダヤ人コミュニティ内にいる限りは、「異教徒」扱いされることなく、平和に過ごせたはずだからだ。
1948年5月14日、ユダヤ人の国、イスラエルの独立が宣言され、自国再建が一応は果たされた。しかし、それはその翌日から始まった第一次中東戦争、56年の第二次、67年の第三次、73年の第四次という各中東戦争を招いた。
イスラエルが強引に建国されたことにより、もともとそこに住んでいた多くのパレスチナ人が難民となり、この難民(アラブ諸国が支援)とイスラエルの間で争いが果てしなく続いている。解決の見通しが立たない、このパレスチナ問題の関連ニュースが世界のメディアで伝えられない日はなく、国際社会における「嫌われるユダヤ人」のイメージを改善することはかなり難しいといえそうだ。

ユダヤ人とは、どんな「人」?

上の地図は、1942年、第3帝国時代のドイツ(大ドイツ国)の領土を示すもの。
Martin Gilbert: The Holocaust: The Jewish Tragedy, London 1986より
*赤い点線は1942年末のドイツ軍前線、収容所は主な収容所のあった場所

上の地図は、現在の国境を示す。
ユダヤ人の数は、世界中あわせても1400万人程度といわれる。これらの人々は、イスラエルを例外として、世界各国に散らばって生活しているため、2000年という長い時間の間に混血も進み、ユダヤ人とひと目でわかる「身体的特徴」は挙げづらくなっている。長いもみあげや、独特の黒い帽子に黒い上着、あるいは「スカル・キャップ(キッパ)」と呼ばれる、頭の頂をかくす小さな丸い帽子といった「外観の特徴」で判断できる場合はあっても、これは人種的な身体的特徴とは異なり、極端な話、日本人でもこうした「外観の特徴」を真似することは可能だ。
では、ユダヤ人というのはいったいどんな人たちなのか。
ユダヤ教を信ずる人々である。
例えば、19世紀前半、革命後のフランスでようやく法的に市民としての平等な権利を認められることになった際、みずからを「ユダヤ教を信ずるフランス人」と定義したように、まずはユダヤ教信者であることが最も重要な条件なのだ。
旧約聖書の中にあるとおり、神ヤハヴェはユダヤ人とのみ「契約」を結び、絶対服従を条件に、その代償として特別に恵みを与えることを約束したとされている。ユダヤ人だけが神に選ばれたとする「選民」思想はここから生まれており、その誇りは、彼らに苦難を乗り越えさせる力の源となったはずだが、それと同時に差別や迫害の原因ともなってきた。ユダヤ教を信ずるがゆえに、地元住民との摩擦を招き、差別され迫害の対象となり、それに耐えるために、さらに強く深くユダヤ教を信じる―ニワトリが先か、タマゴが先か、という議論にも似ているが、ユダヤ教を信じる者はユダヤ人であるという点だけは、はっきりしている。
人が生きるにあたり、宗教とはなんと大きな役割を果たしていることか。
そして本来、心のよりどころとなり、人を幸福にするために信じられるべきはずの宗教が、紛争の原因になることのなんと多いことか。
ヨーロッパで長い間争われた、カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)による宗教戦争のように、「汝の隣人を愛せよ」と説いているはずのキリスト教徒でさえ、血で血を洗う抗争を経験した。また、現在、米国が率先して行っている「テロとの戦い」は、イスラム教世界対キリスト教世界の対立とも分類され、前述のパレスチナ問題は、ユダヤ教徒とイスラム教徒の土地争いと言い換えられる。
日本も、宗教が原因の争いに無縁ではなく、6世紀ごろの大和朝廷の時代に、神道派と仏教派による血なまぐさい戦いが繰り広げられ、仏教派である蘇我氏が勝利をおさめて、ようやく国の統一に向けて大きな前進が認められた。
同じキリスト教徒、同じ地域に住む者同士でも、信じる内容が「異なる」と、相手を否定し屈服・服従させようとする動きが起こり、多くの場合、それは暴力をともなう。ナチスが試みたユダヤ人絶滅という行為は、人類史上、もっとも鮮明にそれを証明した例だったといえる。
自分とは異なる神を信じ、異なる価値観に基づいて暮らし、異なる生活習慣を守る相手を、なぜこうも人は敵視し憎むのか。宗教は政治的権力および経済的権力と背中合わせで、「異教徒」により、政治的・経済的な力が乱されたり弱められたりすることをおそれる支配者層によって、一般人は異教徒を憎み嫌うように洗脳されてきたと、つい考えたくなってしまう。

ユダヤ人が「愛されなかった」理由

「労働は自由をもたらす」―このモットーほど
皮肉に響く言葉はなかったに違いない。
アウシュヴィッツにて。
ユダヤ人が選ばれた民として、ユダヤ教の教えや戒律を厳粛に守る人々であることは、疑いようのないことである。ユダヤ人の中にも摩擦を避けるために、そして何より生きていくために、改宗の道を選んだ人々はいた。
しかし、改宗するより、差別や、時には死に至る迫害を選んだ人の方が圧倒的に多かったのだ。
こうした、改宗しないユダヤ人たちは中世のキリスト教世界で「利用」されるようになった。ユダヤ人の職業といえば「高利貸し」というイメージが強いが、彼らは好き好んでこの仕事に就いたわけではなかったという。
キリスト教徒は当初、宗教的に「卑しい」金融業に就くことを許されなかったため、金融業に従事することを条件にユダヤ人に居住を許可するケースが多々みられた。金利は教会によって決められており、ユダヤ人が自らの意思で、暴利をむさぼる悪徳高利貸しになったわけではなかったが、利子が定められたものであり、しかも利率が低くとも、「金貸し」という仕事が人から好かれるわけはなく、一般市民の憎しみをかうことも少なくなかった。
かつて、日本でも、江戸幕府により士農工商の下に、えた・ひ人という階級が置かれ、卑しむべき仕事にしか従事することを許されず、「下見て暮らせ」と、人々の不満をそらす道具に用いられたことがあった。日本では部落問題としていまだに根強く差別が残るが、ユダヤ人問題は、それを国際的規模にしたものといえそうだ。

「移住」と聞かされ、収容所に連れてこられたユダヤ人も多かった。
そういう場合、所有物の中でも、最も価値のあるものを持参するのが普通。
もちろん、それらはすぐに没収されたのだった。
卑しまれるべき職業ながら、この「高利貸し」業や不動産業で財をなすユダヤ人も生まれた。資本主義を打ち立てたのはユダヤ人とする説もあるほどで、商取引の世界における発展にユダヤ人は大きく寄与し、その財力から、皇帝や王に引き立てられる者もいた。また、各国に散らばるユダヤ人ネットワークを駆使して、国境を越えて経済的に活動するユダヤ人も出現。成功者として世界に名を馳せるようになったロスチャイルド家などは、その好例である。
しかし、世界をまたにかけて財界で活躍するユダヤ人が増えるに従い、非ユダヤの一般人の怒りを招くケースも増加した。中世では、ペストの元凶とされ、近代には「ユダヤ人は世界征服をねらっている」とする説が流されるようになる。ヒトラーを駆り立てたのも、ユダヤ人に対する脅迫観念であり、強烈な「反ユダヤ主義」だった。

アウシュヴィッツのガス室と、そこで使われたとされるチクロンB(Cyclon B)の空き缶、およびその結晶。

すべては極貧生活から始まった

アウシュヴィッツの「死の壁」。
収容者は壁に向かって立たされ、撃たれたという。
ヒトラー(Adolf Hitler)は1889年4月20日、オーストリアで生を受けた。父親は下級税関吏で堅実な性格の持ち主だったらしく、画家になりたいというヒトラーの夢に猛反対。ヒトラーはそれに反抗して勉強せず、中学校を中退した。
14歳の折に父親が逝去、母親の許可を得てウィーンの美術大学入学を目指したものの失敗してしまう。その4年後の1907年には、最愛の母も失い、いやおうなく独り立ちすることになるが、手に職もない18歳のヒトラーはたちまち経済的に困窮する。
翌年には、日雇労働者として日銭を稼ぎつつ、慈善団体による食事の無料配給や無料宿泊所の恩恵にあずかるホームレスと化してしまったのだった。その後、水彩画やポスター、カードなどを描いて売り歩く貧乏画家暮らしに甘んじ、12年にミュンヘンに移ってみたが、暮らし向きは一向によくならなかった。
下級ながらも中産階級出身者としての誇りを抱いていたヒトラーは極貧生活、特にウィーンでの辛い日々の中で、異常なまでのエネルギーをもって怒りに満ち、それをぶつける対象を探す。この極貧生活時代が、ヒトラーの思想を確立させたと彼本人が認めており、大ドイツ民族主義者、反ユダヤ主義者(ともに後述)としてのヒトラーはここで「生まれた」のだった。
ヒトラーが政権を握り、第三帝国(The Third Reich)の総統(Führer)として彼の思想を実現させるまでに、二十年余りを要し、その間、服役も経験するが、挫折や失敗はヒトラーを突き動かすエネルギーをますます強大なものにしていったのだった。

ヒトラーとともに永遠に封印された真実

ドイツ軍が「保管」していた頭髪と義足類。
1945年4月30日。連合軍が間近に迫ったベルリンで、その前日に結婚した、秘書エヴァ・ブラウン(Eva Braun)を道連れにヒトラーは自殺した。
東条英機のように、戦犯として裁判にかけられることなく、「勝利を、さもなくば死を」という自らのモットーを忠実に守り、後世の歴史研究家たちに多くの課題を残してヒトラーは永遠の黙秘権行使の道を選んだのだ。
それから70年。多くの研究家が気の遠くなるような作業を丹念に続けているが、ヒトラーが「ユダヤ人を絶滅させよ」と命令を下したとする明確な「証拠」は、実はみつかっていないという。第二次世界大戦での敗北を前に、ドイツ軍は必死で証拠を隠滅しようと試み、膨大な量の書類を焼いたものの、それでも、歴史家たちを70年間も多忙にさせるに足る史料が残された。いつ、どのような形でユダヤ人問題の「最終解決」あるいは「全面解決」が下されたのか、様々な説があり、中には、ヒトラーは直接関与していないとする極端な解釈もあると聞く。
ヒトラーからの証言が得られない以上、この問いに「正解」はないのかもしれない。しかし、ただひとつ、ほとんどの研究家の間で一致しているのは、ヒトラーは「ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)」を敢行したナチスの指導者であり、彼による命令、あるいは容認なしには、これだけの大規模な計画を遂行することは不可能であったとする点である。
実際、アウシュヴィッツを訪れた我々取材班が目にした「光景」は、それまでの人類の想像を絶する行為がここで繰り広げられたことを、圧倒的なインパクトでもって伝えており、ヒトラー、あるいはナチスの上層部がどのような過程をどの時期に経て「最終解決」に至ったかが解明されようとされまいと、その罪の大きさになんら違いは生じないと思わずにはいられなかった。

「解決」という名の絶滅作戦

ひどい湿気、ネズミの大量発生など、アウシュヴィッツとはまた違った意味で劣悪な環境にあったことが伝えられる、ビルケナウ強制収容所。
木造の粗末なバラックでは、冬の寒さもこたえたことだろう。
ナチスが建造した収容所には2通りあったとされている。ひとつは、単なる「強制収容所」で、1933年、ドイツのミュンヘン近郊にダッハウ強制収容所が初の試みとして建てられた。ドイツには、ほかにもこうした強制収容所が建造され、ヴァイマール郊外のブーヘンヴァルト(36年開設)、ベルリン近郊のザクセンハウゼン(36年開設)、ハンブルク郊外のノイエンガンメ(40年夏開設)、収容されたアンネ・フランクが死亡(収容所内で流行したチフスによる)したことでも知られる、ハノーファー近郊のベルゲン・ベルゼン(43年春開設)などがある。
また、オーストリアにはマウントハウゼン、フランスにはオラドゥール・スュル・グラヌ、チェコにはテレジェンシュタットの各強制収容所が建造され、いうまでもなく、どの収容所でも多くの人命が奪われたが、大量殺戮用のガス室がない所もあり、最初は政治犯などを文字通り「収容」する目的で建造された場所もあった。

ビルケナウの収容棟内部。捕虜たちはこの悪夢から早く目覚めたい、
と祈りながら眠りについたに違いない。
これに対し、ポーランドに造られた収容所は目的が違った。ワルシャワ近郊のトレブリンカ、マイダネク、そしてアウシュヴィッツおよびビルケナウ(第二アウシュヴィッツ)は、いずれも「絶滅収容所」として建造されたのだった。もちろん、どの収容所も「強制」や「絶滅」といった言葉が名称に正式につけられていたわけではないが、ナチス内部ではこの識別は明確に行われていたとされる。
そして、こうした「絶滅収容所」こそが、ヒトラー、あるいはナチス上層部が、1941年ごろにいきついたといわれる、ユダヤ人問題の「最終(全面)解決」の答えだったのである。
「最終解決」を導くことになったヒトラーの主張は、以下のようなものだった。フィリップ・ビューラン著(佐川和茂、佐川愛子訳・三交社刊)『ヒトラーとユダヤ人 悲劇の起源をめぐって』にあった記述を参考に書き記してみる。

◆ユダヤ人は、自らの国を建設することができないかわりに、ユダヤ人同士では結束し、世界制覇をねらっている。また、住み着いた国々で人々が労働で得たものを搾取する寄生的人種である。

◆ユダヤ人は、細菌、寄生虫、ヒル、クモであり、非常に有害で不快な存在であるため、絶滅させなければ安心できない。

◆ユダヤ人は資本主義(ユダヤ人が発達させた)とマルクス主義(共産主義。ユダヤ人のカール・マルクスが考え出した)を道具に、世界制覇を達成しようとしている。資本主義を用いて、ユダヤ人は経済を国際化し、彼らの支配化に置いた。一方のマルクス主義により、人々を互いに反目させ、内戦を引き起こし、国力を弱めさせた。

◆世界には「適者生存」という普遍の法則があり、強者の意思が尊重される。人類の中にも、歴史的偉大さによって決まる「階級組織」があり、血を純粋に保つ(ヒトラーはアーリア主義に心酔。優れたアーリア人のみをドイツ人として認めるとした。金髪碧眼が理想)ことのみが、その人種の「堕落」を防ぐ。

◆ドイツ民族を堕落させたのは、自由主義、民族主義、マルクス主義などの虚弱思想で、さらに性病や遺伝病の蔓延、劣等人種(ユダヤ人、黒人など)との「雑婚」もそれに拍車をかけた。性病患者、アルコール中毒患者、犯罪者、身体障害者、精神障害者らは断種・不妊化の対象となるべきで、純粋なドイツ民族繁栄のためには野蛮な処置の実行もいたしかたない。

◆1918年、第一次世界大戦でドイツが敗れたのはユダヤ人のせいである。万人の敵であるユダヤ人は、ドイツの国内外でこの戦争を仕掛けた。国外のユダヤ人がドイツへの憎悪をあおりたて、英仏を始めとする諸国を戦争へと駆り立てる一方、ドイツ国内においてはユダヤ人が経済を牛耳り、労働者を十一月革命(ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位。事実上、ドイツは戦争続行不能となり休戦に合意)へと扇動した。

◆休戦に際して締結されたヴェルサイユ条約で、軍備も大幅に制限され、ドイツは「奴隷状態」になった。これもユダヤ人が引き起こしたことが原因。

◆ロシアは、共産主義(マルクス主義)の名のもとに、ユダヤ人が実権を握り、フランスでは、特権階級とユダヤ人が協力してドイツの奴隷化をもくろんでおり、どちらもドイツの敵である。

◆世界制覇をもくろむ「国際主義的ユダヤ人」との世界戦争に勝利するため、世界の反ユダヤ主義者は団結するべきである。これは宗教戦争であり防衛戦で、ドイツは、ユダヤ人による「災禍」を取り除く仕事を担っているのである。

不条理な言いがかりとしか言いようがないが、ヒトラーは大真面目であり、ナチス上層部はいうまでもなく、ナチス党員、将校・兵士、そしてドイツ国民の多くもヒトラーに追従したのである。次号では、ユダヤ人問題の「最終解決」実践の場となったアウシュヴィッツ、ビルケナウ(第二アウシュヴィッツ)の両収容所、そしてナチス・ドイツの終焉までについてさらにお届けすることにしたい。

後編に続く…

ホロコースト関連 キーワード

ホロコースト holocaust

大虐殺のこと。特に、ナチスによるユダヤ人の大量殺戮を指す。

ポグロム pogrom(ロシア語)

ユダヤ人に対する集団的・計画的な迫害や虐殺。特に、19世紀後半から20世紀初頭にかけてロシアを中心に起きたものをいう。

ジェノサイド genocide

集団殺害。集団殺戮。ホロコーストも、広い意味ではこれに含まれる。1948年には、集団殺害の防止および処罰に関する条約である「ジェノサイド条約」が国連総会で採択された。これにより、国民・人種・民族・宗教などの集団を破壊する意図をもって、集団構成員に殺害・危害を加える行為が禁止された。

アンチ-セミティズム anti-Semitism(またはAnti-Jewish policy)

反ユダヤ主義。ナチスが展開したイデオロギーがその典型。

シナゴーグ synagogue

(集会を意味するギリシャ語より)ユダヤ教徒の礼拝所。会堂。また、集会所。

ゲットー ghetto

ヨーロッパの都市で、ユダヤ人が強制的に居住を指定された区域(ユダヤ人街)だが、20世紀にはほとんど消滅。なお、第二次世界大戦中、ナチス-ドイツが設けたユダヤ人強制収容所を指すこともある。

ナチス Nazis(ドイツ語)

「Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei(国家社会主義ドイツ労働者党)」の通称。ナチ「Nazi」の複数形。ナチ党。第一次世界大戦後、1919年に結成され、ヒトラーを党首としてドイツで活動したファシズム政党。大恐慌下に、大ドイツ樹立・ヴェルサイユ条約破棄・ユダヤ人排斥などを唱えて支持を拡大した。33年政権を掌握し、ヨーロッパ征服をめざして軍備拡張を行い、第二次世界大戦を起こしたが敗北。45年に崩壊した。

第三帝国 The Third Reich <ライヒ>(英語とドイツ語の複合語)

ナチス-ドイツの自称。ドイツ語では「Das Dritte Reich」という。神聖ローマ帝国を第一帝国、ビスマルクのドイツ帝国を第二帝国とし、それに続く第三の帝国、の意。

ゲシュタポ Gestapo(ドイツ語)

「Geheime Staatspolizei」の略。1933年に組織されたナチス-ドイツの秘密国家警察のこと。超法規的な強い権限を有し、反対派・ユダヤ人・占領地住民などに対して容赦なく弾圧を加えた。

エスエス SS

ナチス親衛隊「Schutzstaffel」(ドイツ語)の略称。1925年、ヒトラーを護衛する組織として誕生し、29年以降ヒムラーのもとで警察機能をもつに至った。占領地行政や強制収容所の管理を行った。

収容所 Concentration Camp

戦争時などに、捕虜や敵国人、反体制派の人々を収容するために造られた施設で、第二次世界大戦中のアウシュヴィッツは特に有名。同敷地内には、ガス室(gas chamber)や焼却炉(crematorium)があり、「死のキャンプ(the Death Camp)」とも呼ばれた。

アドルフ・ヒトラー Adolf Hitler(1889-1945)

ナチ党総裁、ナチス-ドイツ国総統(宰相も兼任)、国防軍事最高司令官。45年4月30日、ベルリンで自殺。

ルドルフ・ヘス Rudolf Hess(1894-1987)

ナチ党の副総統。1923年のミュンヘン一揆失敗後はスイスに逃亡するが、翌年帰国。ヒトラーと同じ獄で『我が闘争』の口述筆記者を務める。ヒポコンデリー(「心気症」。自分の身体や健康状態を異常に心配する症状のこと)に悩むヘスは、徐々に権力を失い、第二次世界大戦の勃発数日前に国防会議のメンバーになったものの、実権はほとんどなかった。ニュルンベルク裁判で終身刑、1987年8月17日、93歳で獄死(暗殺説あり)。

ヨーゼフ=パウル・ゲッベルス Joseph Paul Goebbels(1897-1945)

国民啓蒙・宣伝相。プロパガンダを駆使して、ドイツ国民の間にナチズムを浸透させた。1945年4月25日、ヒトラーとエヴァ・ブラウンの結婚の立会人となり、その後の二人の死を見届けたといわれている。5月1日、5人の娘と1人の息子に青酸カリを与えて殺したあと、マグダ夫人と共に自殺。

ラインハルト・ハイドリヒ Reinhard Heydrich(1904-42)

国家保安本部長官。SS大将。ユダヤ人の「最終解決(the Final Solution)」を具体化するよう命を受け、1941年、悪名高い『バンゼー会議』(ここで絶滅収容所についての構想が固まったとされる)を主催。42年5月27日、プラハで暗殺者にねらわれ、その時の傷がもとで6月4日に死亡。

アドルフ・アイヒマン Karl Adolf Eichmann(1906-62)

SS中佐、ユダヤ人担当部局所属。終戦後、アルゼンチンに逃亡したが60年に逮捕され、イスラエルで裁判にかけられ、62年6月1日、処刑された。

ヘルマン・ゲーリング Hermann Göring(1893-46)

国会議長。国家元帥。ナチ党政権下のドイツにおける第二の実力者として一時は権勢を誇ったが、スターリングラード攻防戦における無謀な空輸作戦の失敗によって失脚。以後、公の場には姿を見せず美術品収拾などの趣味に没頭した。ニュルンベルク裁判では一貫して無罪を主張し、ホロコーストなど他民族に対する弾圧には責任がなかったと繰り返したが、判決は死刑。軍人らしい銃殺刑が許されず絞首刑が宣告されたため、絶望したゲーリングは、執行の当日1946年10月15日、どこから入手したかは未だに謎とされる、青酸カリのカプセルを飲み込んで自殺。

ヨーゼフ・メンゲレ Dr Josef Mengele(1911-79)

アウシュヴィッツで囚人に実験をほどこし、ガス室に送られる人々の選択を行ったナチの医者。「死の天使」として知られている。ドイツ降伏直前にメンゲレは、一般の歩兵に変装してアウシュヴィッツから逃亡。彼を追い詰める国際的な努力にもかかわらず、逮捕されずに様々な別名を使って35年間生き延びた。1979年に海水浴中に心臓発作で溺死するまで、パラグアイとブラジルで暮らした。92年に遺骨のDNAテストで本人であることが確認された。

ハインリヒ・ヒムラー Heinrich Himmler(1900-45)

SS全国指導者兼国家警察長官。内相。予備軍最高司令官。SSをテロの実行部隊に育て上げ、ユダヤ人ら集団虐殺に『貢献』した。敗戦間近にはヒトラーと対立、1945年4月28日に逮捕命令が出されたが、ヒムラーは偽名を使って逃亡し、英国軍の捕虜収容所に収容された。1945年5月23日、収容所の取調べで偽名が暴かれ正体が知れたため、隠し持っていた青酸カリのカプセルを飲んで自殺した。

ルドルフ・ヘス Rudolf Höss(1900-47)

アウシュヴィッツ初代司令官。SS大尉。1947年4月16日、アウシュヴィッツで絞首刑になった。なお、ナチ党の副総統のヘスとは別人(カタカナにすると同じだがつづりが違う)。