覚悟を固めた、4男坊の娘

現在の英国は立憲君主国と呼ばれる。君主の立場は「君臨すれども統治せず。The Sovereign reigns, but does not rule.」で、大いに制約される。しかし、かつては「絶対王権」という概念があり、君主になれば絶大なる権力が与えられた。有力貴族たちがこぞって君主に、あるいはその後見人になりたがったのも自然なことだった。英国史を長い間動かしてきたのは、王座をめぐる権力闘争だったことは改めて指摘するまでもないはずだ。
しかし、近代では話が異なる。フランス王室が絶えた一方で、英王室がこうして生き残ったのは、議会による締め付けが厳しく、仏ブルボン王朝の王たちのように浪費に浪費をかさねることができなかったからこそといえるが、君主になった時の「おもしろみ」は大幅に減じられてしまった。国民への気遣いから、エリザベス2世とチャールズ皇太子は『自発的に』税金を納めるまでになっており、責務ばかり重い仕事として嫌われても無理からぬこと。
しかし、ヴィクトリア女王とエリザベス2世については、運命の歯車が容赦なくまわり、君主にならざるを得なくなった時に、それを受け入れただけでなく、60年以上にわたってみごとに責務を果たしており、その取り組みの姿勢は敬意と感謝をもって認められるべきだろう。
さて、さきほど「君主にならざるを得なくなった時」と述べたが、ここで、このふたりの女王の一番の共通点といえる、「思わぬ展開により、王位がまわってきた」経緯について、それぞれ記しておこう。

戴冠式に臨んだヴィクトリア女王の姿を描いた作品
(1870年ごろ、Franz Xaver Winterhalter作)。
ヴィクトリア女王(Alexandrina Victoria)については、まず、下の系譜をご覧いただきたい。ヴィクトリア女王の父、ケント公エドワードはジョージ3世の4男にしか過ぎなかった。ところが、ジョージ3世の跡を継ぐことになっていた長男ジョージ(後のジョージ4世)の唯一の嫡出子シャーロットが死産にともない、21歳で逝去してしまう。この時、ジョージは50歳、正妻のカロラインは49歳。また、ジョージの弟たちは、多くの愛人を持ちながらも結婚していないか、正式に結婚していても子供がいないかのどちらかで、嫡出子のいない状態だった。
次世代の嫡出子をつくらねばならない―。危機感を抱いたジョージと議会は、資金援助と引き換えにして3男ウィリアム(後のウィリアム4世)と、4男エドワードを、欧州の王室出身女性と結婚させることに成功する。しかしながら、ウィリアムの初の嫡出子エリザベスは生後4ヵ月で他界してしまった。
この時点で、ヴィクトリアは王位継承権4位。だが、次男のヨーク公フレデリックが1818年に亡くなり、父エドワードも2年後に肺炎がもとで息を引き取った。また、ウィリアム夫妻にその後、嫡出子は誕生しなかった。
在位50年を迎えたヴィクトリア女王。
30年に3男ウィリアムがウィリアム4世として即位。11歳のヴィクトリアは「暫定王位継承者」となったのだが、これだけ確率の低いことがよくも起こったものだと驚くしかない。

ウィリアム4世は、晩年、ヴィクトリアが摂政なしに即位できる18歳になるまでは、生き永らえたいと周囲に話していたとされ、その望みは見事に叶えられた。ヴィクトリアが18歳になった1837年5月24日からひと月もたたぬ同年6月20日午前2時20分、ウィリアム4世は神に召された。王位についたのが65歳と高齢だったため、在位期間が約7年と短いのはいたしかたないことだった。
同日、午前6時。カンタベリー大主教と宮内長官がヴィクトリアの住むケンジントン宮殿に赴き、ヴィクトリアに謁見した。着替える間などなく、ヴィクトリアは純白の寝衣のままだったという。ここにヴィクトリア女王が誕生したのである。
その5時間半後、ケンジントン宮殿で初めての枢密院会議が行われたが、ヴィクトリアは優雅さの中にも堂々とした風格を漂わせ、ウェリントン公爵ら、政府のなみいる重鎮たちを感服させた。11歳の時に、「将来、君主になる運命だ」と知らされ、陰で大泣きしたと伝えられているが、7年のあいだに覚悟を固め、81歳でその生涯にピリオドを打つまで、女王として君臨したのだった。

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ヴィクトリア女王を中心とした王室家系図