英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2015年5月7日 No.880

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杉原千畝の選んだ道

6000の命を救った外交官

杉原千畝の選んだ道 【後編】

1940年夏。ヨーロッパの小国リトアニアで、外務省の指示に反して、
条件を満たしていないユダヤ人難民たちにも
日本入国を認める「通過ビザ」を発行した日本人外交官がいた。
名を杉原千畝(すぎはら・ちうね)という。
彼が発給したビザの数は2139以上。
約6000人ともいわれるユダヤ人がこれにより生き延びることができたとされる。
後編は、前編に引き続き、杉原千畝とその夫人についてお届けすることにしたい(本文敬称略)。

●サバイバー●取材/本誌編集部

JFC
TK Trading
Centre People
ロンドン東京プロパティ
Dr Ito Clinic
早稲田アカデミー
サカイ引越センター
JOBAロンドン校
Koyanagi

ナチス・ドイツの衰退

カウナス駅から次の赴任地プラハへ向かうため、ベルリン行きの国際列車に乗り込んだ杉原一家(写真提供:United States Holocaust Memorial Museum〈 以下、USHMMと省略 〉 )
1940年9月。忘れようにもとうてい忘れることのできない、カウナスでの夏を経験した杉原とその家族は、ベルリン経由で次の赴任地、プラハに向かった。
外務省から責任を追及されることを恐れていた杉原だったが、予想外に「お咎め」はなく、リトアニアでの領事業務の報告を求められただけだった。そのままチェコのプラハ総領事館勤務になり、翌年2月末にはドイツ領東プロイセンのケーニヒスブルグ領事館に異動、さらに、一等通訳官(後に三等書記官)としてルーマニアのブカレスト公使館勤務を任じられた。
日本による真珠湾攻撃、太平洋戦争勃発の知らせを杉原が聞いたのは、ブカレスト赴任直前のことだった。「この戦争は負ける」と予想していたものの、一外交官として何ができるわけでもなく、杉原は歯がゆい思いをしていたことであろう。真珠湾攻撃に先駆けて、ヨーロッパ駐在の日本人外交官たちには家族を日本に帰すよう通達が出されたが、「遠く離れた日本で(杉原のことを)心配するのは嫌」だと考えた幸子(ゆきこ)夫人は、子供たち、そして妹ともども杉原のもとに留まることを選択した。
41年末以降、ドイツの敗色は年を追うごとに色濃くなっていったが、ドイツの同盟国であった日本の公使館に勤務していた杉原らは、ドイツ占領下のブカレストで比較的恵まれた生活を送った。やがて食糧品は配給制のものしか手に入らなくなったが、一般用とは異なり、日本の外交官たちにはコーヒーなどの嗜好品も配給されるなど優遇されていた。

現在の旧東欧を中心としたエリアの国境

しかし44年になると、ブカレストも連合軍の空襲を受けるようになる。また、同年三月、ソ連軍が旧国境を越えてルーマニアへの侵攻を開始し、ドイツ軍は徐々に後退を余儀なくされるようになった。間もなく、杉原一家はポヤナブラショフというブカレスト近郊の別荘地へ一時避難することになったのだが、5月になって、幸子夫人が消息不明になるという「事件」が起こってしまう。
幸子夫人が宝物として大切にしていた、フィンランドの大作曲家シベリウスにもらったサイン入りの写真など、ブカレスト市内の自宅に残してきたものが気にかかり、それらを取りに行こうと無謀な外出を決行したのが原因だった。
ブカレストではソ連軍とドイツ軍の間で市街戦が始まり、幸子夫人は撤退してきたドイツ兵たちとともに、ブカレストとドイツ領の間にある森に逃げ込まざるを得なくなったのである。今のように携帯電話があるわけでもなく、また、幸子夫人を車に乗せてきた領事館付きの運転手とは離れ離れになり、杉原に所在を知らせる術を幸子夫人は完全に失ってしまったのだった。

リトアニアのカウナス近郊にある、「第9要塞博物館」にて=写真左。ホロコーストの犠牲者と旧ソ連によるシベリア抑留者に関する資料が
展示されている同博物館内には、杉原千畝についての資料が集められた部屋があるほか、中庭には記念碑=写真右=も置かれている。
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幸子夫人を救ったドイツ軍青年将校

ルーマニアのブカレスト駐在時代の杉原一家(写真提供:USHMM)【写真枠内】ルーマニアの新聞用に撮影された、幸子夫人のポートレート(写真提供:USHMM)
パルチザン(民間人で組織されたゲリラ軍)に囲まれ、幸子夫人はドイツ兵たちとともに森に立てこもった。
幸いなことに幸子夫人はロシア語だけでなくドイツ語も話せたため、ドイツ兵と意思疎通を図るのには困らなかった。1台の軍用車が幸子夫人の住居代わりにあてがわれ、デューラーという青年将校が護衛係としてあれこれ世話を焼いてくれたのだった。
昼夜、幸子夫人の無事を確かめに来てくれたデューラーとは様々な話をした。彼が1人息子であることを聞き、幸子夫人も夫と子供がポヤナブラショフで自分を待っていることを話しながら、無事でいることを杉原に伝えられない、その状況を作り出したのが自分自身であることを激しく悔やんだことだろう。
ただただ待つ日が続いた。
デューラーにとって、幸子夫人との会話はつかの間の慰めだったようだ。また、他の将校も夫人と話したがっている、とデューラーが言ったとおり、年配の将校が、幸子夫人を相手に身の上話をしに車を訪れたこともあったという。幸子夫人がこの森で出会ったドイツ軍将校たちは、あくまで礼儀正しく、そして敗れゆく祖国のことを憂え、国に残してきた家族のことを想う良識ある人たちだった。
約1週間目の夜のこと。ドイツ兵たちはついに森から出て、闇の中、退却を開始。たちまち、パルチザンとの間で激しい銃撃戦が始まった。
幸子夫人もデューラーとともに、森から脱出。途中、車では身動きがとれなくなり、自分の足で逃げるしかなくなったが、デューラーに手を引かれ幸子夫人は必死で走った。砲弾が近くで炸裂するたびにデューラーが文字通り体を張って夫人を守ってくれた。走っては伏せ、走っては伏せる前進を繰り返していたが、やがて1発の砲弾がすぐそばで爆発。幸子夫人はしばらく気を失ってしまう。

チェコのプラハにある公園にて。杉原と幸子夫人の間には、チェコ語とドイツ語で「ユダヤ人入るべからず」と記されたプレートが掲げられているのが見える。(写真提供:USHMM)
気がついた時、周りの砲撃は止んでいた。そして、ゆっくりと昇ろうとする朝日の光の中で幸子夫人が目にしたのは、もうどんなに呼んでも動かないデューラーの変わり果てた姿だった。ただ、彼は静かな微笑を浮かべていたという。 デューラーが戦友たちの手によって葬られるのを見届けた幸子夫人は、ドイツ国境を目指す兵たちとは別れ、助けを求めて近くの村に向かった。しかし今度はパルチザンに拘束されてしまう。
銃口を突きつけられ、一時は引き金が引かれそうになったが「撃つなら撃ちなさい! 私は日本人です」と日本語で一喝。パルチザンはその声にひるんだのか、銃口を下げたが、幸子夫人の脚は震えていたという。その後、「ロシア語かドイツ語が話せる人を連れてきてほしい」という要望が聞き入れられ、夕方になってようやくドイツ語のわかる青年がみつかり、幸子夫人は全てを説明。やがて村長の家に案内されて休息の場を与えられ、翌朝、ついには杉原の待つ別荘に帰ることができたのである。幸子夫人が消息を絶ってから8日がたっていた。命がある幸せをかみしめる、大きな出来事だった。

大切なものを次々に失った悪夢の47年

43年9月、ドイツのもうひとつの同盟国、イタリアが無条件降伏を受諾。44年6月、ノルマンディ上陸作戦が成功。その後、ヒトラーが自殺し、ドイツが降伏するのに1年もかからなかった。
45年7月末、ブカレストに戻った杉原たちは、8月8日、ソ連が日本に宣戦布告したことを告げられる。いったん公邸と武官邸に軟禁された後、8月15日の日本によるポツダム宣言受諾をうけ、杉原一家を含む、日本外務省関係者らは、ブカレスト郊外のソ連軍捕虜収容所に連行された。シベリア経由で杉原一家が日本に帰りついたのは、それから2年近くもたってからのことだった。この間、杉原も幸子夫人も死がすぐそばにあることを意識しない日はなかったであろう。しかし、47年4月、ウラジオストックを出航した船で無事に博多に上陸。幸運にも家族5人、そして妹の節子も生きて日本の地を踏むことができたのである。日本を発ってから、10年の歳月が流れていた。
神奈川県藤沢市にようやく落ち着いたばかりの47年6月7日。杉原は大きな打撃を受ける。外務省で、約3分の1の人員削減という大幅なリストラが行われ、杉原は、後の外務大臣(当時は外務次官)岡崎勝男に「ポジションがないので辞めてもらえないか」と告げられたのだった。杉原の証言によると、「例(リトアニア)の件が問題になっており、もうかばいきれない」とも言われたという。
この年から約60年を経た2006年、リトアニアで杉原がとった勇気ある行動が日本で広く知られるようになり、「(その杉原を)懲戒処分にしたのは許しがたい」という世論が確立されつつあることに対し、日本政府も重い腰を上げるに至った。3月25日には「(杉原氏は)訓令違反により外務省を解雇された」とする説を否定、「保管文書で確認できる範囲では、懲戒処分が行なわれた事実はない」という異例の閣議決定を発表した。
しかしながら、文書が残っていないからといって、「処分」がなかったと断定することが可能だろうか。外務省きってのロシア語の使い手で、8年間、ヨーロッパで公使・領事館勤務を経験した人材を、このような形で人員削減の対象にするのは説明に窮すると主張する人が少なくないのもうなずける。
何より、杉原夫妻が外務省に対して、憤りを封印してその後の人生を送ったという事実が、外務省の冷酷な仕打ちが実際に行われたことを証明していると考えるのが自然ではないだろうか。
傷心の杉原が外務省を依願退職した後、さらなる不幸が杉原家を襲った。同年11月に三男晴生が小児ガンにより急逝。わずか7歳、あまりにも突然の最期だった。さらに翌年、妹の節子も病に倒れ、この世を去った。杉原家にとっては呪われたような1年だった。また、外務省からの退職金などは瞬く間に生活費に消え、戦後の混乱の中で杉原家も困窮する。
ようやく杉原たちが希望の光を感じるようになったのは49年になってからだった。四男伸生(のぶき)が誕生、50年には進駐軍のPX(Post Exchange=「売店」のこと、現松屋デパート)の総支配人に推薦され、経済的にも安定するにようになった。
それからの杉原は、アメリカ系貿易会社、NHK国際局、ニコライ学院でのロシア語教師の職などを転々とし、60年からは商社のモスクワ駐在員となり、75歳で退職するまでの15年間、モスクワで単身赴任生活を送った。最終的に、得意のロシア語をいかせる仕事に就けたことは、せめてもの救いだったといえるだろう。

映画・DVD・BOOK

映画

【写真左】2015年12月公開、映画『杉原千畝 スギハラチウネ』。杉原千畝を演じるのは唐沢寿明、幸子夫人を小雪が演じる。

DVD

【写真中央】2005年10月、「終戦60年ドラマスペシャル」としてテレビで放映された同名ドラマのDVD。杉原千畝を反町隆史、幸子夫人を飯島直子が演じた。(制作著作:よみうりテレビ/発売元:株式会社バップ/3,990円・税込)

BOOK 

【写真右】反町隆史主演ドラマの原作本。著者は杉原千畝の妻、幸子夫人本人で、本稿を書くにあたっても、大いに参考とさせていただいた。(大正出版刊/1,575円・税込)

45年目の「ご褒美」

リトアニアの首都ヴィリニュスの中心部から車で10分ほど走ったところにある「桜パーク」。2001年10月2日、杉原が一時期籍を置いた早稲田大学(杉原は外務省に入るため、同大を中退)により記念碑が設置され、桜の苗木が植えられた。
杉原が日々の糧を得るのに忙しく働いていた68年。東京のイスラエル大使館から一本の電話が入った。カウナスで、杉原との交渉に当たった5人の代表者のうちのひとり、ジェホシュア・ニシュリが参事官として日本に赴任してきており、杉原の行方をついに突き止め、連絡してきたのである。
杉原が発給したビザにより生き抜くことができたユダヤ人たちは、戦後、杉原を懸命に探したものの、杉原が自分の下の名前を、彼らが呼びやすいようにと「センポ」と紹介していたため、外務省に「センポ・スギハラ」で照会。「該当者なし」との回答しか得られていなかったのである。
ニシュリとは実に28年ぶりの再会だった。
四男伸生はイスラエルのヘブライ大学に公費留学生として迎えられた。そして翌69年、杉原もイスラエルに招かれ、やはりカウナスで会った5人の代表者のひとりで、宗教大臣となっていたゾラフ・バルハフティックに再会、勲章を授与された。
さらに85年、日本人としては初めて、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」が贈られたのである。
杉原は、決して自分がカウナスでとった行動を自慢したりせず、また、外務省に抗議したりすることもしなかった。様々な思いは自分の胸におさめて静かに生きてきたが、40年余り後にこのような形で評価を示されたことは、意外でもあり、また、大きな喜びであったことだろう。天は見ていてくれていたのだ。
ヤド・バシェム賞を受賞した翌年、86年7月31日。持病の心臓病が悪化し、入院中だった杉原は病院で息を引き取った。享年86。カウナスでの運命の夏から数えて46回目の夏が訪れていた。
2000年10月10日。杉原の生誕百年を記念して、様々な行事が行われたが、その一環として、外務省の外交資料館に杉原の功績をたたえる「顕彰プレート」が設置され、除幕式が行われた。外務省での完全なる「復権」が実現したのである。その場に杉原の姿がなかったことだけが惜しまれた。
また、この2000年に、あるプロジェクトがリトアニアで始まった。杉原の功績を後世に伝えるため、平和へのシンボルとして、日本から運んだ桜の木を植えようという活動だ。リトアニアの首都ヴィリニュスとカウナスに、1ヵ所ずつ「桜パーク」と呼ばれる植樹地が設けられた。聞けば、リトアニアの冬が厳しすぎて、枯れてしまった苗木もかなりあったという。
編集部が訪れてから9年。若木はどこまで成長したのだろう。見事な花をつけるまでには、吹き付ける雨風や、つらい寒さを耐え忍ばねばならないことは言うまでもない。それは杉原の生涯に重なるものにも思え、1本でも多く、無事に大きく育ってくれているよう願わずにはいられない。

杉原千畝は外務省に対して訓令違反を犯したか

杉原がリトアニアのカウナスで発行した、日本の「通過ビザ」。手書きの部分の多さに驚かされる。(写真提供:杉原記念館)
ポーランド、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランスがドイツ占領下にあった1940年、ユダヤ人難民の逃げる道は東にしか残されていなかった。ユダヤ人に同情的だったオランダ名誉領事ヤン・ツバルテンディク(Jan Zwartendijk)は、カリブ海のオランダ領キュラソーという岩だらけの小島へ「移住」するという妙案を提示。キュラソーなら税関もないため、入国審査もないことに着目、「キュラソーへ入るには入国ビザが必要ないことを証明する」(裏を返せば「入国ビザなしに入国できる」と解釈できる)という書面を難民たちに発行したのだった。日本の通過ビザがあれば、ソ連はシベリア横断を許可するとの判断を示しており、ユダヤ人難民の運命は杉原の決断ひとつにかかっていた。

オランダ領事、ヤン・ツバルテンディクと、彼が発行した書面(写真提供:ともに杉原記念館)
このカウナスでの一件からさかのぼること1年8ヵ月。38年12月6日、ユダヤ人の扱いについて「五相会議」(首相、外相、陸・海軍相、蔵相の主要閣僚)を開いた日本政府は、「日本、満州国、中国に住むユダヤ人について、他の外国人と平等に扱い、追放などはしない」「日本、満州国、中国への入国を希望するユダヤ人について、現行の移民法にのっとって平等に扱う」といった基本姿勢を決定。これに基づき、外務省からは「通過ビザは、行き先国の入国許可手続きを完了し、旅費および本邦(日本)滞在費などの相当の携帯金を有する者に発給する」との『指示』が出ていた。
杉原は、在リトアニアの日本領事館に殺到したユダヤ人難民のほとんどが、この条件を満たしていないことを承知で通過ビザを発給したとされている。この点について、「(杉原は)指示にある要件を満たしていない者に対しても通過ビザを発給した」(つまり、「指示違反」だが「訓令違反」ではない)というのが外務省の公式見解。また、外務省は杉原に対して「懲戒処分が行なわれたとの事実はない」としている。

カリブ海の島、キュラソーへ向かう――カウナスの杉原のもとに殺到したユダヤ人難民にとって、鉄道でシベリアを横断、
さらに船で日本に渡った後、アメリカ合衆国などの第3国に逃れるルートで生き延びられるかどうかは
、日本の通過ビザが入手できるか否かにかかっていた。

リトアニアの歴史

● 紀元前より、バルト語族に属する原住民(リトアニア人)が居住していたとされる。
● 10世紀末ごろには、いくつかの小公国が誕生。ドイツ騎士団などドイツ方面からの武装勢力に常に脅かされており、それに対抗するうちに徐々に統一が進んだ。
● ミンダウガス大公、登場。1236年の戦いでドイツ騎士団を撃破する一方、国内を平定。1253年、キリスト教に改宗し、ミンダウガス大公が最初のリトアニア王として即位。この即位日の7月6日がリトアニアの建国記念日となっている。
● 1263年、ミンダウガス大公、暗殺される。
● ミンダウガス大公の孫、ゲディミナス大公がリトアニアの勢力を拡大。1323年、首都ヴィリニュスを建設。
● 1386年、ヨガイラ大公、ポーランド王国の女王、ヤドヴィガと結婚。ヨガイラはローマ・カトリックに改宗、ポーランド王として迎えられた(ポーランド・リトアニア連合)。
● 1392年、ヴィタウタス大公が王に即位。積極的に領土を拡大、リトアニアは全盛期を迎え、バルト海から黒海に至る大国となる。
● 1410年、ポーランド・リトアニア連合軍、ジャルギリスの戦いで、チュートン(ドイツ)騎士団を破る。
● 1569年、ポーランド王の策略により、リトアニアとポーランドの間に「ルブリン合同」が成立。リトアニアは自治権を失くし、事実上ポーランドに吸収された。
● 1579年、ヴィリニュス大学創設。
● 1772年、ロシア、プロイセン(後のドイツの一部)、オーストリアによる、第一次ポーランド分割。
● 1793年、第二次ポーランド分割。
● 1795年、第三次ポーランド分割。
● リトアニアの大部分はロシアに組み込まれてしまう。これ以降、独立運動を展開。
● 1914年、第一次世界大戦が勃発。15年、ドイツに占領される。
● 1918年2月16日、ドイツ占領下にありながらもリトアニアは独立を宣言(現在、独立記念日とされているのはこの日)。19年、ドイツ降伏。
● 1920年、リトアニア共和国として独立するも、首都ヴィリニュスはポーランドに占拠され、カウナスに首都が移される。
● 1939年、第二次世界大戦が勃発。40年にはソ連軍がリトアニアに侵攻、41年、リトアニアはソ連に併合された。
● 約50年、ソ連による圧政が続き、12万人ともいわれるリトアニア人がシベリア追放となった。
● 1980年代後半から、ソ連共産党書記長となったゴルバチョフによるペレストロイカ(改革)が進んだのをうけ、90年、リトアニアでも非共産党政権が誕生、ソ連邦の中で他にさきがけて独立宣言を行った。
● 1991年1月、ゴルバチョフ政権は軍隊を派遣、放送局やテレビ塔を占拠。国会議事堂などを守ろうとした非武装の市民14人が死亡、700人が負傷した。
● 同年9月6日、ついにソ連も独立を承認、リトアニア共和国として悲願を果たした。12月、ソ連崩壊。
● 1994年、ヴィリニュスの旧市街が世界遺産に指定される。
● 2004年、NATOおよびEUに加盟。

■ カウナスの杉原記念館 Sugiharos Namai

開館時間

5-10月 月-金曜日 10:00-17:00、土・日曜日 11:00-16:00
11-4月 月-金曜日 11:00-15:00、土・日曜日 休館
※開館時間以外でも、事前に連絡すれば見学が可能になる場合もある。

杉原記念館の存続にご協力を
来訪者・見学者からの募金を主体として運営されている同記念館では、財政難が続いている。毎年6,000人ほど(日本人は約5,000人)が訪れる同記念館は、施設維持のために年間約1万ユーロが必要とされるが、募金だけでは職員の給与や冬場の暖房費などの経費もまかなえないという。また、老朽化にともなう大々的な修理も必要とのこと。1人でも多くの人からの善意が求められている。
Sugihara House
Vaizganto g. 30, Kaunas, LT-44229 Lithuania 
Tel: 370-698-02184 / 370-680-42242 (海外から)
www.sugiharahouse.com/お問合せ先:このメールアドレスはスパムボットから保護されています。閲覧するにはJavaScriptを有効にする必要があります。

寄付金のお振込先

Vilniaus Bankas AB, Vilnius
SWIFT: CBVI LT 2X, Vilnius, Lithuania
口座名: Sugihara "Diplomats for Life" Foundation
Account No: LT67 7044 0600 0331 2024

カウナス Kaunas トラベル・インフォメーション

※情報は2015年5月3日現在

歩行者天国のライスヴェス通り。正面に見えるのは聖ミカエル教会。このライスヴェス通り、ロトゥシェス広場へと続くヴィリニャウス通りがカウナスの目抜き通りで、両側にはしゃれた店やカフェが並ぶ。なお、杉原一家がカウナスを離れる直前に滞在したメトロポリス・ホテルは、ライスヴェス通りとS.Daukanto gatveとが交わる角に建つ。

カウナスの興り

他のバルト海に面した国と同じで、リトアニアも琥珀の名産地として知られる。お土産に最適!
◆10世紀にはすでに町としてのまとまりを見せていたとされるカウナスだが、ヴィリニュス同様、常にドイツ騎士団の脅威にさらされており、侵攻にそなえて13世紀には市壁が築かれた。
◆歴史文献に初めて登場したのは1361年。
◆商業都市として発展し、1441年にはハンザ同盟の都市に加えられた。
◆リトアニア公国の歴史に歩調をあわせ、発展と衰退を経験。17世紀から18世紀にかけてはロシア、スウェーデン、フランス(ナポレオン軍)などによる侵攻を受けた。
◆19世紀には、鉄道の開通にともない、工業都市として復活。
◆1920年、首都ヴィリニュスがポーランドの占領下に入ったため、一時的にカウナスがリトアニアの首都となった。
◆1941年、リトアニアはソ連に併合された。戦後、リトアニアは工業国として再び活気を取り戻した。
◆1991年、ソ連からリトアニアが独立。カウナスは現在もリトアニア第2の都市として機能している。

ロンドンからのアクセス

ロンドンのルートン空港、またはスタンステッド空港から直行便が出ているが、ヴィリニュスに飛行機で入り、そこからバス、列車でカウナスに向かうのが一般的。ヴィリニュスからは西へ約100キロ、バスまたは列車の場合、所要約1時間半。

市内の主要な観光ポイント

ツーリスト・インフォメーション・センター 
住所:Laisves al. 36 電話:373-23436

❶ カウナス城 Kauno pilies

「城」というよりは、要塞に近い建物。13世紀、ドイツ騎士団に対抗するために造られた。1363年にはいったん破壊されたが、15世紀に再建された。

❷ 旧市庁舎Rotuse

旧市街の西端に位置するロトゥシェス広場に建ち、「白鳥」の異名をとる白亜の建物。1542年に最初の建物が造られたという記録が残っている。現在は、結婚式場としても人気。また、地下は陶器博物館になっている。

❸ マイロニス・リトアニア文学博物館
Maironio Lietuviu literaturos muziejuss

ロトゥシェス広場から徒歩3分ほどの場所にある。国民詩人マイロニスの私邸を利用し、リトアニアの文学資料全般を公開。

❹ 大聖堂Arkikatedra bazilika

15世紀に建てられた、赤いレンガ造りの建物。リトアニアでも最大クラス。

❺ ヴィタウタス大公像
Vytauto Didzioji paminklas

1392年に即位し、リトアニアをバルト海から黒海に達する大国にするまでに至ったヴィタウタス大公の像。

❻ 悪魔の博物館 Velniu muziejus

ジムイジナヴィチウスという画家が集めた「悪魔」に関する品々のコレクションを展示した、一風変わった博物館。現在もコレクションは拡充中という。

❼ M.K. チュルリョーニス美術館
M.K. Ciurlionio dailes muziejus

リトアニアを代表する画家であり作曲家でもあった、多才なチュルリョーニスの作品をメインに展示した美術館。リスニングルームも用意されており、チュルリョーニスの作品を聴くこともできる。

❽ ヴィタウタス大公戦争博物館
Vytauto Didzioji karo muziejus

ヴィエニベス広場に建つ、中世から近代までの戦争にまつわる展示物を集めた博物館。なお、同広場内には、独立記念碑=写真右=と自由記念碑=写真左=も置かれている。

郊外の主要な観光ポイント

第9要塞博物館 Devintojo forto muziejus

カウナス中心部からバスで約20分(バスはカウナス城の北にあるバスターミナルから発着。『Devintojo forto』行きと言えば、すぐにどのバスか教えてもらえるはず)。もともとリトアニアの軍事施設として建てられたものを、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツが強制収容所として利用。ここでカウナスのユダヤ人たちを中心に、約5万人ともいわれる命が奪われた。リトアニアがソ連邦の一員だった時代に、ホロコースト(ナチスによる大量虐殺)に関する資料を集めた博物館として再オープンした。敷地内の巨大なオブジェは、1984年に設置されたもの=写真。「痛み」「悲しみ」「拷問」「永遠の記憶」を表現したものという。リトアニアがソ連から独立を果たした後は、ホロコーストの展示に、スターリン政権によってシベリアに送られた人々の展示が加えられた。ソ連によって博物館に生まれ変わった建物で、そのソ連の残虐行為を紹介するという「皮肉」は、ソ連に対するリトアニア人のせめてもの報復といえるのかもしれない。

リトアニアの味覚

ロシア料理やポーランド料理と似た料理もかなり見受けられる。味はしっかり目で、ジャガイモのすりおろしたものを使う料理は特にバラエティ豊か。
【写真左】夏のスープの定番、冷たいボルシチ。鮮やかなピンク色に最初は驚くかも。赤カブ(ビーツ)と発酵させた牛乳にネギ、ディル、ゆで卵を加えて作る。適度な酸味が食欲をアップさせる一品。アツアツのふかしたジャガイモといっしょに食す。【写真右】ツェペリーナイ。モチモチした、おろしポテトの皮の中に、ジューシーなひき肉がたっぷり。好みにより、ベーコン入りのクリームソースをかけてもOK=写真右端。かなりのボリューム!

↓画像をクリックすると拡大します↓

Kaunasの地図

ヴィリニュス Vilnius トラベル・インフォメーション

※情報は2015年5月3日現在

ヴィリニュスの興り

◆14世紀にリトアニアを大きく発展させたゲディミナス大公が、当時の都トラカイから、ネリス川とヴィリニャ川にはさまれた谷に狩猟にやってきた際、道に迷い、今のゲディミナスの丘のあたりで眠ってしまった。その夜、大公はある鉄の大きなオオカミが、100頭分のオオカミのような声で吠えている夢を見たのだった。この夢の話を聞いた祭祀は、その場所に城と町を築くよう告げる。その町は鉄のオオカミのように強く、100頭のオオカミが吠えるがごとく、遠くまでその名をとどろかすような繁栄を見ると予言。喜んだゲディミナスは早速その言葉どおりに行動を起こし、ヴィリニャ川にちなんで、その町にヴィリニュスと名づけたとされている。

ロンドンからのアクセス

ルートン空港、またはスタンステッド空港からの直行便を使うと便利。所要約2時間半。
※ヴィリニュス空港到着後、入国審査を受ける際には必ず『All Passports』の列に並ぶこと。『Citizens』のカウンターに行くと、並び直すよう指示される。また、「Medical Insurance」を提示するよう言われるかもしれないが、これはパスポート以外の身分証明書を見せなさい、の意。クレジットカードを見せれば大丈夫。
※空港内は全面禁煙。バー内でも吸えないので注意。

市内の主要な観光ポイント

ツーリスト・インフォメーション・センター(英国に支所はないので注意)  
住所:Didzioji g. 31 電話:526-26470

❶ 3つの十字架の丘 Triju kryziu kalnas

この丘の上で3人のフランシスコ派の修道士が磔(はりつけ)に処せられたという伝説が残っている。17世紀ごろから十字架が建てられ始めたものの、ソ連併合当初にあった十字架は完全に破壊されてしまったという。今建っているのは、1989年に再建されたもの。なお、カテドゥロス広場から2通りの行き方があるが、ヴィリニャ川沿いにいったん南下してから登る道は勾配がきつく、息切れするほど。ネリス川のほうから❷のコンサート会場=写真上=を経由するルートのほうが緩やかでお薦め。

❸ リトアニア民族歴史博物館
Lietuvos nacionalinis muziejus

もとは18世紀に建てられた武器庫で、今はリトアニアの歴史がぎっしりつまった博物館となっている。外からは見えないが、❹のゲディミナス・タワーが建つゲディミナスの丘へのケーブルカー乗り場は、この博物館の敷地内にある。

❹ ゲディミナス城 Gedimino pilies

ゲディミナスの丘に建てられた「上の城」は一部が残っているのみだが、城のそばにあるゲディミナス塔(Gedimino bokstas)=写真=は上までのぼれる(月曜閉場)。

❺ 大聖堂Arkikatedra Bazilika

ヴィリニュスは聖堂や教会がきわめて多い都市だが、その中でも文句なく、最大にして最も重要なのがここ。手入れが行き届いていないという印象は否めないものの、豪華な聖カジミエル(Sv Kazimiero)のチャペルなど、内部はみごたえあり。なお、大聖堂の前に建つ鐘楼(Varpine)は13世紀に建てられた部分を含む。また、大聖堂の南そばにあるのは、ヴィリニュスを建設したゲディミナス大公の像。

❻ ヴィリニュス大学 Vilniaus Universitetas

❼ 聖ヨハネ(ヨノ)教会
Sv. Jonu baznycia

旧市街にある教会の中では、ひときわその高い鐘楼が目立つ教会。18世紀に大学附属となった。現在の建物は、1737年の火災の後に建て直されたもの。

❽ 聖アンナ(オノス)教会Sv. Onos baznycia

33種類もの異なる形のレンガが用いられている教会で、1812年、ロシア遠征の途中に立ち寄ったナポレオンが気に入り、フランスに持ち帰りたいと語ったというエピソードが残っている。

❾ 旧市庁舎 Vilniaus rotuse

大きな広場に面して堂々と建つ。

❿ 聖カジミエル教会Sv. Kazimiero baznycia

リトアニアの守護聖人、聖カジミエルのための教会。ピンクの外観が印象的。

⓫ 聖三位一体教会 Sv. Trejybes cerkve

⓬ 夜明けの門 Ausros Vartai

ヴィリニュスを守る市壁には、合計9つの門があったが、現在残っているのはここのみ。中には小さな礼拝所があり、そこにある聖母マリアのイコン=写真右=は特に名高く、今も多くの信者が参拝にやってくる。見学は無料ながら、参拝者たちへの気遣いは必須。

⓭ 国会議事堂 Tarybos rumai

1991年1月、ソ連軍から国会議事堂を守ろうと築かれたバリケードがそのまま残されている=写真。また、その前には、合計14人が亡くなったこの「血の日曜日」事件のメモリアルが建てられている。

⓮ 杉原千畝モニュメントSugihara Memorial

1992年に設置された、杉原千畝のモニュメント。

⓯ 聖ペテロ&パウロ(ペトロ・イル・ポヴィロ教会)
Sv. Petro ir Povilo baznycia

カテドゥロス広場から、東へ約30分歩いたところにある教会。2000以上ある内装彫刻をはじめとし、内部の荘厳さで知られる。

郊外の主要な観光ポイント

トラカイ Trakai

ヴィリニュス市内から27キロ、バスで約30分(バス停からトラカイ城まで約1.5キロ)ほどの距離にあるトラカイは、30以上の湖を有する緑豊かなエリアだ。リトアニアの首都が置かれたこともあり、キェストゥティス大公とヴィタウタス大公が14世紀後半に建造し、1961年から25年余りをかけて修復されたという赤レンガの美しい古城が、湖面に姿を映している。

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Kaunasの地図

■ リトアニア共和国

正式名称:Lietuvos Respublika
英語表記:Republic of Lithuania


言語 : 公用語はリトアニア語(バルト語系)若者は英語、中年以上はロシア語も通じることが多い
面積 : 北海道の約80%
人口 : 約361万人(2004年)
人口構成 : リトアニア人81.8%、ロシア人8.1%、ポーランド人6.9%、その他3.2%など
宗教 : ローマ・カトリック教徒が大多数、他にロシア正教徒などもいる
気候 : 四季があり、夏も乾燥している点は英国に似ているが、全体的に英国より気温は低め。12月~2月の平均最高気温は零下、雪は12月ごろから降り、雪解けは3月ごろ。ただ、夏の最高気温は20度を超え、日中は海水浴ができるほどの暑さになることもある
時差 : 英国プラス2時間(英国の午前8時は、リトアニアの午前10時)
通貨 : ユーロ
※ビザ:日本人が観光で訪れる場合、90日まではビザなしで入国・滞在することが可能(パスポートの残存期間は6ヵ月以上必要)
参考資料:『六千人の命のビザ』杉原幸子著(大正出版刊)/『ヒトラーとユダヤ人 悲劇の起源をめぐって』フィリップ・ビューラン著、佐川和茂・佐川愛子訳(三交社刊)/『ホロコーストを学びたい人のために』ヴォルフガング・ベンツ著、中村浩平・中村仁訳(柏書房刊)/このほか関連ホームページ各種