第一次世界大戦真っ只中の1917年2月、大日本帝国は英国の要請により、連合国軍の輸送船を保護するため、第二特務艦隊を地中海に派遣する。当時の地中海はドイツ軍のUボートが猛威をふるう「魔の海」―。ここで果敢に戦い、そして命を落とした78名の勇兵たちがいた。日本の海軍史上最初で最後の遥か地中海への遠征について、前編に引き続きお届けする。

●サバイバー●取材・執筆・写真/吉田純子・本誌編集部

「魔の海」へと乗り込んだ日本海軍

1914年7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦を布告したとき、これが、人類が初めて経験する「世界大戦」の幕開けとなろうとは、いったい誰が想像し得ただろうか。帝政ロシア、ドイツ、フランス、そして英国と、思惑に反して、ヨーロッパの大国が次々と戦いの渦へとのみこまれていった。

「落ち葉の頃には家に帰ることができるだろう」という甘い憶測をあざ笑うかのうように、戦いはクリスマスになっても終わらないどころか、トルコ、イタリア、米国などを巻き込み、翌年、その翌年、さらにその翌年も続いた。

先の見えない世界大戦のただなかで、英国政府が地中海への日本海軍派遣を要請したのは、1917年のこと。日英同盟を結んでいた日本はこれを受け、地中海におけるドイツ軍潜水艦Uボートから輸送船舶を護衛するため、第二特務艦隊の派遣を決定。派遣されたのは巡洋艦「明石」(後に「出雲」と交代)を旗艦に駆逐艦8隻で、同年4月13日マルタに到着。この時から第一次世界大戦が終了するまでの約1年半の間に第二特務艦隊が護衛した回数は348回、護送した軍艦、輸送艦は主に英国籍で延べ788隻、護送人員75万人に及んだことは、前編で述べたとおりである。

ようやく特務艦隊が辿り着いた地中海は「魔の海」と化していた。1917年2月1日、ドイツがUボートによる無制限潜水艦作戦(指定した戦闘区域内の船を無制限に攻撃すること)を宣言し、それ以来連合国側の輸送船被害が激増していたからである。

かくして、連合国が心待ちにしていた第二特務艦隊は、マルタ到着の翌々日から対潜水艦作戦の任務を開始した。

特務艦隊の名を世界に轟かせることになった出来事が起こるまでに、長くはかからなかった。

1917年5月3日夕刻。駆逐艦「松」と「榊」は英兵運送船「トランシルヴァニア」号の護送任務を受け、出航した。トランシルヴァニア号は約3300人の陸兵や船員と大砲などの兵器を満載し、マルセイユからアレクサンドリアへと赴く予定で、松と榊は途中のメシナで護送を英駆逐艦に引継ぎ、マルタへと帰ることになっていた。

雲が低くたれこめ、冷たい雨の降る翌4日の午前10時20分頃、サヴォナ沖にて松、榊が前方で護衛にあたっていたその時、トランシルヴァニア号の左舵後方に魚雷が命中してしまったのである。輸送船は爆煙をあげ、左側に傾斜しながら、減速して弧を描き、ついには停止した。

英海軍も絶賛した勇気

旗艦「明石」に集合する第二特務艦隊士官以上 1917年5月© Imperial War Museum

松は全速力で輸送船の左舷に横付けし人員救助にあたり、榊は付近の警戒に努めたが潜水艦を発見することはできなかった。潜水艦はすでに航路を変え、追撃を狙っていたらしい。そして2度目の魚雷が放たれた。

この魚雷は松を狙って発射されたものともいわれ、松に乗り組んでいた片岡覚太郎中主計は『日本海軍地中海遠征記』の中で、「一条の航跡を残して、敵の魚雷が真一文字に疾走して来ているではないか。後看板からの観測では、ちょうど松の艦橋下位を狙っているように思われて、到底命中は避け難いものと観念の眼を瞑った」と記している。しかし、魚雷は松の10メートル前方をかすめて輸送船左舷中央部に命中。これによって輸送船の沈没は免れない事実となった。

不幸中の幸いとなったが、至近距離にいた松は輸送船爆発の影響を受けて浸水し、負傷者も出た。すでに800名ほどの人員を救助していた松はこの時点で横付けを離れ、敵潜水艦の攻撃に移った。代わって輸送船右舷に横付けした榊は、ほんの5分間で1000名もの乗員を救助した。とてつもない迅速さである。榊は「桃を盛ったように、上甲板は人の黒山」で埋め尽くされたという。

その後イタリアの駆逐艦も駆けつけ溺者の救助にあたるなどし、松、榊の両艦が救助した者とその他の特務船、漁船が救い上げた者とで合計3000人、全乗員の9割が結果的に救助された。トランシルヴァニア号は沈んだものの、被害は最小限に抑えられたといえよう。

その当時、英海軍ではUボートによって被害を受けても救助活動をしてはならないという規定があった。というのも、撃沈された英艦船を助けにいった他の2隻が追撃を受け、3隻もろとも沈没し、6000名の死者を出すという悲劇がそれ以前に起きていたからである。それだけに、追撃を覚悟したうえでの松、榊の決死の救出はこの上なく勇敢なこととして英海軍司令部を驚かせた。しかも、救助した人々を最寄港のサヴォナまで送り届ける間、松、榊の乗組員たちは戦闘による疲弊をものともせず自分の衣類、寝場所、食料や水などを提供し、サヴォナに停泊している間、多くの英兵たちから握手を求められたり、賛辞を受けたりしたという。

また、両駆逐艦がいよいよ任務に戻るためサヴォナを出港する際、「救助された英国の陸兵が黒山のように集って別れを惜しみ」、いつまでも手を振って見送っていたということも美談として書き留めておきたい。

日英の強い絆

これ以来、日本海軍への護衛依頼が殺到し、第二特務艦隊の護衛なしには出航しないと言い張る輸送船長もいたという。

松、榊がマルタに帰港すると、のちの英国首相であり、当時英海軍大臣であったチャーチルより「英国海軍および英国海軍省の名をもって、両艦の勇敢なる行為と作業とに、深き謝意を表する」との電報が届き、英下院議員では、議員一同が起立して日本語で「バンザイ三唱」が行われた。そして両駆逐艦の艦長以下20数名には、英国王ジョージ5世より勲章が授与されたのである。一時にこれだけ多くの人に勲章が贈られるというのは日本海軍史上、異例の出来事であった。

このトランシルヴァニア号救助の一件には、単なる任務遂行という枠を超え、敬意や友情といった日英相互の強い結びつきが色濃く表れている。トランシルヴァニア号の船長は退船勧告を断り、沈みゆく甲板に頑なに残った末、海中に投げ出され救い上げられたが、後日病院で息を引き取った。

第一次世界大戦 主な参戦国一覧

同盟国 ドイツ、オーストリア・ハンガリー、トルコ、ブルガリア他

連合国 英国、フランス、ロシア、日本、イタリア、アメリカ他

片岡中主計は「老船長の心中は、吾人の胸に多くの共鳴を与える。(中略)『生も死も、この船と共にこそ』という雄々しい覚悟があってこそ、船長としての勤めが、立派に果たされるであろう」とこの船長の潔い精神を称えている。

また遭難者救助中に、救い上げられたばかりの憔悴しきった英一等水兵が、小さないかだに辛うじて掴まっていた瀕死の英海軍少尉を見つけ、一心不乱に海に飛び込み救助した場面では、松の甲板に喝采が沸き起こったという。「その善行が献身という美しい心から出たのを見た時、涙脆い後部哨戒長の眼はうるんだ」ともある。英兵も日本兵も一丸となって助け合い、敬い合っていたことを物語っている。

トランシルヴァニア号救出は、この派遣中の最も輝かしい功績であったことは疑う余地はない。しかし、まもなく、特務艦隊は最大の悲劇を経験する。

犠牲となったのは、トランシルヴァニア号救出で大活躍を見せた榊。時は1917年6月11日、同号救出の約1ヵ月後であった。オーストリア・ハンガリー海軍Uボートの攻撃を受けて大破し、59名の戦死者を出すに至ったのである。

サロニカまで病院船を護衛した榊は、松とともに9日に同港を出発してマルタに帰る途中であった。この榊の被雷については佐藤吉洋氏(下のコラム参照)の詳しい記述があるので抜粋する。

~英国による第二特務艦隊の評価~ 佐藤吉洋

当時の英国地中海艦隊幕僚長ディケンズ少将による地中海の各国海軍に関する報告がある。
「イタリア海軍は非効率的で、攻撃的にせよ守勢的にせよ能力に欠け、沿岸海域の防御などの限られた任務しかできず、イタリア海軍の支援はほとんど期待できない。フランス海軍は積極的ではあるが組織的に問題があり、その作戦は軍事常識に欠け信頼できない。日本海軍は素晴らしいが数が少なく、ギリシャ海軍は計算外であり、米国海軍はジブラルタル方面から大西洋に展開されており、使用できない」。この報告は「英国海軍以外は期待できない」という論調でかなりの辛口だが、日本海軍に対する『素晴らしいが数が少なく』というのは、英国側の偽らざる心境であろう。
実際英国マルタ基地司令官バラード少将からは「イタリア、フランス海軍とは作戦方針などをめぐりしばしば摩擦が生じるが、佐藤皐藏(こうぞう)司令官は常にわが要請に応じてくれるので、日本海軍との間には何ら問題は無く、その仕事に満足している。日本艦隊の支援は貴重である。フランスの稼働率は英国に比べて低く、イタリアはフランスよりもさらに低いが、日本海軍は別である」と報告され、英国地中海艦隊司令官キャルソップ中将からは「佐藤司令官は常に私の要求に応じようと艦隊を即応体制に維持し、彼の部下は常に任務を満足に遂行している」、「日本艦隊は言うまでもなく素晴らしい」といった報告が海軍省に送られていた。地中海における各国の稼働率を比較してみると、英国が60%、フランス・イタリアが45%に対して、第二特務艦隊駆逐艦は実に72%にも達している(但し日本駆逐艦全てが新造艦であったのは考慮に入れる必要がある)。
しかし、現地運用艦船を含め最大17隻という数はやはり戦力不足であった。英国艦隊は英国紳士らしく個々の評価、つまり第二特務艦隊の評価に対しては最大限の賛辞を送っている。しかしそうであるが故に日本海軍が地中海に大した戦力を送らなかった事に対する不満を感じたのは容易に想像できる。
第二特務艦隊の活動が「日本は連合国の一員として戦っている」事を示す上で効果があったのは間違いないが、逆にそれ以上の効果、たとえば「日本人の勇敢さを欧米人に知らしめた」などと考えるのは軽率と言えるだろう。

佐藤吉洋
1968年滋賀県生まれ。大阪府在住の会社員。第二特務艦隊の佐藤司令官の遠縁にあたり、第二特務艦隊や第一次世界大戦の資料収集、研究、発表を行う。
「榊」の被雷

第二特務艦隊 第11駆逐隊 「榊」 『日本海軍艦艇写真集 駆逐艦』より

6月9日、第二特務艦隊の駆逐艦「松」と「榊」はエーゲ海の奥、ギリシャ領サロニカまでの護衛を終え、根拠地マルタへの帰路につきます。護衛する船舶はなく2隻のみの航行でした。

2隻は途中、ミュドロス島とミロス島に寄港し、11日10時30分(「榊」機関部戦時日誌や別史料では11時35分)ミロス島を出港。潜水艦出没警報の出ていたギリシャとクレタ島間の海峡を通過してマルタ島に帰還する航路をとります。駆逐艦「榊」はここで潜水艦の攻撃を受ける事となります。当時の天候は晴れ、北の風で波が立つが航行に支障は無く、もやが立ち視界は良くなかったようです。

両艦の間隔は300m(史料により600m)、両艦は「松」右で「榊」が左に並んだ隊形で周囲の警戒をしつつ航行していました。途中、12時30分に英駆逐艦「リブル Ribble」がギリシャからクレタに向かって両艦の前方を横切っていった以外は変わったことも無く、彼らの警戒も緩んでいたかもしれません。

13時32分、北緯35度15分・東経23度50分、「榊」は隊形外側200m(史料により180m)から突然魚雷による攻撃を受けます。攻撃を行ったのはオーストリアの潜水艦U-27とされています。機関部には突然全速が発令され、同時に取り舵(右回頭)が行われます。次の瞬間、艦全体には大きな衝撃が走りました。

「榊」艦橋にいた乗員の証言が残されていないので、その時「榊」艦橋で何があったかの詳細は不明です。他の記録などを併せて判断すると「榊」は接近する魚雷を発見、直ちに右回頭をして魚雷を避けようとしたのですが、距離が近かったためどうしようもなかったようです。

魚雷は艦首12cm砲の直下に命中、おそらく搭載していた砲弾も誘爆したため艦首が吹き飛びます。船体の約3分の1を失った「榊」は取り舵のままゆっくりと右回頭、ほぼ反対の方向を向いた状態で自然に停止しました。


 「榊」の被雷を目撃した駆逐艦「松」はただちに総缶点火、接近する「榊」を避けて右回頭を行い、その後ろを回って魚雷が発射されたとおぼしき地点に爆雷を投下します。日本海軍がはじめて爆雷を実戦使用した瞬間となります。「松」はその後「榊」から約1000mの距離をおいて不規則に周回、潜水艦からの次の攻撃を警戒しました。

一方、被雷した「榊」は艦橋を失ったために操艦能力を失いますが、後部にいて助かった吉田庸光大尉は機関停止を指示、次いで後進を指示。「榊」をゆっくりと後退させます。吉田大尉は無事だった後部8cm砲を指揮して周囲への威嚇射撃を行わせます。「榊」は威嚇射撃を1時間にわたって行い、搭載していた砲弾のほとんどを消耗して14時34分に砲撃を停止しました。

「榊」の被害は、当時艦橋にいた士官のうち、艦長上原太一中佐は爆発で吹き飛ばされ戦死認定、機関長竹垣純信機関中佐は重傷となって後に死亡。艦橋当直士官庄司大尉は重傷。

死者は上記士官2名のほか、准士官2名と下士官28名、水兵および機関兵その他27名が犠牲になっています。准士官と下士官で30名と、死者の半数以上を占めるのは、魚雷命中箇所の直後に准士官室があり、そこにいた全員が死亡したためです。


「松」から発信された救難信号SOSを受信した連合国艦船は、直ちに「榊」遭難現場に急行します。真っ先に到着したのが、「榊」被雷前に進路上を通過した英駆逐艦「リブル」で、14時50分現場到着。危険海域にもかかわらず、「榊」横に停止、直ちに短艇を降ろし、士官と水兵を「榊」に乗船させようとします。「榊」ではこれを見て15時05分機関を停止。直ちに乗船した英士官は、「榊」後部で指揮をとっていた吉田大尉に、「艦の損害甚大と判断するので、生存者全員を移乗させて、艦を放棄しよう」と提案します。これを聞いた吉田大尉は、戦闘旗(軍艦旗を後部マストに掲げていたのか?)を指差して、「ノー」と拒否。本艦は未だ戦闘旗を掲げており、放棄しないという意志を示します。

このあたりは、世界最大の海軍力を誇る英国海軍と、新興国日本海軍の意識の違いが現れて面白いです。英士官は「これだけ損害を受けた駆逐艦は放棄して新しい駆逐艦を作った方が合理的」と考えたのでしょうが、日本人としては「まだ浮いている艦を放棄するなんてとんでもない。これは俺たちの駆逐艦なんだ」と思ったのでしょう。英士官は吉田大尉の意図を理解し、まず短艇で負傷者を「リブル」に収容した後、「榊」の曳航(えいこう)準備を開始します。その作業手順は日本側から見て極めて手際がよく、全ての日本側文献で賞賛されています。

曳航準備が完了し、曳航が開始されたのは15時34分。この頃になると別の船団を護衛していた護衛艦も現場に到着し、「リブル」に曳航される「榊」を護衛する体勢をとります。

途中17時40分と20時00分に曳航索が切断しますが、「リブル」はその都度曳航索を取り付けなおし、23時30分、無事スーダに到着しました。 (以上、抜粋)

【写真左】被雷直後の「榊」=右=と「松」=左。『第二特務艦隊 記念写真帖』より 【写真右】損傷部分拡大

『日本海軍地中海遠征記』 ―若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦―

 

片岡覚太郎著 C.W.ニコル編・解説 河出書房新社 2,000円(税別)

本書は、駆逐艦「松」の乗組員で当時中主計(のちに主計中尉)だった片岡覚太郎が司令官の命で書き残した「地中海遠征」公式航海日誌を復刻したものである。もともとは1919年11月18日、日本海軍第二特務艦隊整理部の編纂により「非売品」として発行されたものが、ある歴史研究家によって所蔵され、その後岩手県水沢私立図書館に寄贈されていた。
C.W.ニコル氏も述べているが(『前編』参照)、日英同盟下の戦乱の時代を描いた歴史小説『盟約』(C.W.ニコル著)を読ん送り、この航海日誌を同図書館から借りて二コル氏に手渡したことから、復刻出版が実現した。
戦史として貴重な記録であるとともだ一読者が「私の祖父は『榊』に乗って地中海で戦い、九死に一生を得ました」という手紙をニコル氏にに、寄港した先々で観光した印象なども素朴で生き生きとした文章で綴られている。故郷を遠く離れ、死と背中合わせの状況の中でも明るく誇り高く、任務を遂行した隊員たちの姿が克明に描かれているのだ。埋もれた事実を明るみに出すきっかけとなった必読の一冊だ。

戦没者慰霊碑の建立と今

【写真左】カルカーラ英連邦墓地入口 【写真右】第二特務艦隊戦死者の墓碑

英駆逐艦「リブル」に曳航され、榊はなんとかスーダに到着。負傷者を英海軍病院に収容し、午前3時頃から夜を徹して遺体への対応、破損箇所の修理などが行われた。英海軍の先任指揮官であるマクローリー大佐が深夜にもかかわらず、弔意を述べに訪れ、戦死者の火葬や遺骨を納める小箱などの手配を快く引き受けたという。箱に納められなかった残りの遺灰を英海軍墓地に埋葬、19日には遺骨、遺物を乗せた松がマルタへと向かい、マルタの英海軍墓地に埋葬された。

1918年6月に行われた納骨式。 『第二特務艦隊 記念写真帖』より

しかし、この時既にスーダに一部埋葬した遺骨を特務艦隊の本拠地であるマルタに移し、戦没者全員を合葬し、墓碑を建てて後世に伝えようという話があり、10月に着工、翌年6月に完成し、榊が大破したちょうど1年後に盛大な納骨式が行われた。榊の被雷時に亡くなった59名のほか、派遣中に事故や病気で亡くなった兵士を含め73名がここに祭られた。この墓碑は、第二次世界大戦時にドイツ軍の爆撃を受け、上部四分の一が破損してしまい、その後は約30年もの間放置されていたが、旧海軍関係者らの修復運動の末、1973年に再建された。

ちなみに、榊は撃沈されたという誤った記述も少なくないが、榊は大破後、本格的な船体修理に入るためギリシャの港へと移り、1年近い復旧工事を経て、1918年8月には任務に復帰。それから2度の交戦を経験して終戦後には無事日本へ帰港している。

第二特務艦隊の功績

護送中における駆逐艦 © Imperial War Museum

派遣中の最も輝かしい功績はトランシルヴァニア号救出であり、それは特務艦隊派遣後まもなく起き、特務艦隊の名を世界に轟かせることになったのは、先にも述べた通り。そして、その後も果敢に任務は果たされていった。

トランシルヴァニア号救出から約2ヵ月経った7月、梅、楠が、魚雷を受けた英輸送船「ムールタン」号の乗員約550名をほぼ全員救助することに成功。また、英輸送船「オスマニエ」号が沈没した同年大晦日には桃、柳が約254名を救助し英国司令長官より礼状を受けた。そして翌年には、桃と樫が、大破した英輸送船「パンクラス」号の全乗組員を救助し、マルタまで危険を冒してパンクラス号の曳航を守り、英兵たちより熱狂的な歓待を受けた。ここに挙げたのは主なもので、その功績は枚挙にいとまがない。

18年春から開始されたアレクサンドリア―マルセイユ間の船員輸送では、5~7隻の輸送船を5~8隻の駆逐艦で大船隊を組んで護送するという方式がとられたが、一部の英駆逐艦を除いて全て日本の駆逐艦で構成されたというから、その活躍ぶりと英国および連合国の信頼のほどが窺える。この大船隊護送作戦によって、連合国の西部戦線が一挙に強化されたことは連合国側の大きな勝因となった。日本はこの功績を評価され、連合国五大国のひとつとしてパリ講和会議に参加、ベルサイユ条約によりアジアにおけるドイツの権益を信託統治領として譲り受け、20年には晴れて国際連盟の常任理事国となった。

活かされなかった教訓

第二特務艦隊 第11駆逐隊 「柏」© Imperial War Museum

しかし、この時点で日本は中国から強い反感を買い、アメリカとの利害も対立し、世界から孤立し始めていた。英国を助けて戦えば世界での位置が強まると信じて戦ったものの、その英国すらドイツが敗北した途端、日本との同盟維持の必要性に疑問を抱く始末だった。世界が日本の勢力拡大を疎ましく思っていたのである。そして、1921年のワシントン会議では日英同盟の更新を行わないことが決定され、中国における日本の権益は認められず、日本は国際的に孤立の一途を辿ることになる。

そして第二次世界大戦では、蜜月時代を忘れてしまったかのように日英はお互いを敵にまわしてしまうのである。第二次大戦のわが国の敗因は海上護衛の軽視にあるといわれている。艦隊による決戦に重きを置き、護衛の重要性を欠いたため、資源輸送の段階で潜水艦や飛行機の爆撃を受け、生命線である補給路が絶たれてしまったのだ。第一次大戦時に勇んで地中海まで派兵し、護衛作戦や駆逐艦の有効性、対潜水艦作戦などを目の当たりにする機会を得たにも関わらず、日本は残念ながら、地中海で決死の活躍をした特務艦隊の経験を最大限に活かすことができなかったのである。

ここに、実際に戦地に赴いて任務を全うすべく魂を注いだ兵士たちと、当初から欧州派兵に対して後ろ向きあるいは無関心だった日本政府や海軍内部との信じがたい温度差がある。この食い違いが日本を孤立させ、この輝かしい事実を埋没させたといっても過言ではないだろう。

海軍をテーマとする著書が多いことで知られる阿川弘之氏は『日本海軍地中海遠征記』によせた序文の中で、「日英同盟を破棄せず、あと22、3年、お互ひ海の友邦であり得たなら、日本中の大都市が焼野原になり、全領土を米軍に占領される第二次大戦の悲劇的結末は避けることが出来たのにと思ふ」と語っている。

歴史を変えることはできない。しかし、変えられないのなら、特務艦隊の功績も埋もれさせるわけにはいかない。日本を列強の一員にすべく命を懸けて戦い、「地中海の守護神」と称えられた彼らの誇り高い大和魂は、いつの時代も我々を鼓舞するはずであろうから。

マルタでぜひ訪れたい日本海軍関連スポット
 日本海軍第二特務艦隊戦没者 カルカーラ英連邦墓墓碑地
(旧英海軍墓地)
Kalkara Naval Cemetery (Commonwealth War Graves Commission)

【写真下】芳名帳にはたくさんの日本人訪問客の名前が見られた。
毎日朝から日没まで開いているが、スタッフがいるのは、4~6月:6時半~16時半、7~9月:6時半~13時、10~3月:7時~16時まで。

行き方:カルカーラはスリー・シティーズの北、ヴァレッタの対岸にあり、ヴァレッタからはバス(番号はヴァレッタの観光案内所にて要確認)で約30~40分。
入り口を入って一番左奥に他の墓石とは形の異なる2メートル級の墓碑が立っているので見落とすことはないだろう。「大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」と刻まれ、英字で「Sacred to the mercy of the officers and men belonging to his imperial Japanese majesty's 2nd detached squadron who gloriously fell in the mediterranean during the great war 1914-1918」とある。側面には戦没者の階級および名前も刻まれている。

現在は、日本政府から委託され、在マルタ日本名誉総領事が行き届いた管理をしており、再建から30年を経たとは思えないほど、美しく整備されていた。また、芳名録には多くの日本人訪問客の名前も見られ、年々日本人訪問客が増えているという事実もわかった。
1921年に皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)が初めての訪欧をされた際、マルタに立ち寄って墓碑を参拝されており、常々この墓碑のことを気にかけておられたという。


 カジノ・マルティーズ The Casino Maltese

【写真右下】右下は、1921年に皇太子裕仁親王が訪れたことを記すプレート。下の写真の前列中央が皇太子裕仁親王。
住所:247 Re public Street, Valletta

当時、マルタの社交の場として利用されていたものに「ユニオン倶楽部」と「馬太倶楽部」と呼ばれるものがあった。前者は英国の海陸軍士官および役人により構成されており、後者は貴族や資産家などが集う、いわゆる紳士クラブ。特務艦隊の隊員たちは両倶楽部から名誉会員として歓待されていた。『日本海軍地中海遠征記』には、「ユニオン倶楽部に湯(バス)に(入りに)行く」とか「浴後馬太倶楽部で氷菓子(アイスクリーム)を飲んで、活動写真を一幕覗く」といった記述があり、停泊時に頻繁に利用していたことがわかる。カジノ・マルティーズはこの馬太倶楽部のことで、各国の皇室、貴族が訪れた際に利用する談話室やダンスホールなどがある。皇太子裕仁親王が訪れた際にこの建物の横のパレス広場でパレードを行い、その時の写真も掛けられていた。 現在も会員制の紳士クラブとして使われており、一般公開はされていないが、館内の閲覧は予約にて可能。

【写真左】1919年3月31日にはパレス広場で第二特務艦隊乗員の送別式が盛大に行われた。【写真右】現在のパレス広場は駐車場になっている。左の写真のちょうど反対側から見た風景。

 国立戦争博物館 National War Museum

住所:Lower Fort St Elmo, Spur Street, Valletta
9時~17時 最終入場16時半

ヴァレッタのあるシベラス半島の先端に位置し、16世紀に建てられた星型の砦、聖エルモ砦内にある。マルタにおける戦争の歴史を紹介しており、なかでも第二次世界大戦関連のものが多く、イタリア、ドイツ軍から空爆が繰り返されていたマルタ攻防の記録写真、ルーズベルト大統領が訪問した際に利用したジープの他、武器や軍服、軍用車、戦闘機などが展示されている。第二次世界大戦の過酷な状況を耐え抜いたマルタ島民には、当時の英国国王であったジョージ6世から賛辞と勲章が贈られた。

Special Thanks to:本特集の取材・執筆にあたり、佐藤吉洋氏、C.W.ニコル氏、株式会社サンオフィス森田いづみ氏、Malta Tourism Authorityのガイド、Narcy Calamatta氏、マルタ観光局(MTA Japan)に多大なるご協力をいただきました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。 参考資料:『日本海軍地中海遠征記』、『特務艦隊』、各種関連ウェブサイト

週刊ジャーニー No.855(2014年11月6日)掲載