●サバイバー●取材・執筆・写真/吉田純子・本誌編集部
英海軍との強い結束
第一次世界大戦中、日本が「第二特務艦隊」という駆逐艦隊を地中海に派遣したという事実は戦史に詳しい人ならご存知かもしれない。また、近年発行された『日本海軍地中海遠征記』(片岡覚太郎著)や『特務艦隊』(C・W・ニコル著)などの著作により、今では広く知られる機会も与えられている。
日本海軍が欧州に艦隊を派遣し、本格的な戦闘を行ったのは後にも先にも、この第一次大戦時の「地中海派遣」のみ。それまでの日清、日露戦争で勝利を収めた日本にとって、列強に加わり遥か地中海に出征することは誇り高いことでもあった。
1917年1月11日、英国政府が地中海への日本海軍派遣を要請、日英同盟を結んでいた日本はこれを受け、地中海におけるドイツ軍潜水艦Uボートから輸送船舶を護衛するため、第二特務艦隊の派遣を決定する。派遣されたのは巡洋艦「明石」(後に「出雲」と交代)を旗艦に駆逐艦8隻で、同年4月13日マルタに到着。この時から第一次大戦が終了するまでの約1年半の間に第二特務艦隊が護衛した回数は348回、護送した軍艦、輸送艦は主に英国籍で延べ788隻、護送人員75万人に及んだ。
とくに17年5月4日、撃沈された英兵輸送船「トランシルヴァニア」号の救助にあたっては、駆逐艦「榊」と「松」が犠牲を惜しまない勇敢な救助活動を行い、乗員の大部分を敵潜水艦の目前で救助、英国王より勲章が授与された(詳細は『後編』へ)。
英国はもちろん、各国から大きな信頼を得た特務艦隊の稼働率は連合国軍の中でも抜きんでており、1年半に及ぶ派遣中における交戦回数34回のうち、潜水艦を撃沈するなど、少なくとも13回は確実な打撃を加えたとされ、護衛作戦において大きな成果を残した。
派遣中の大きな損害は、同年6月11日に魚雷攻撃を受け、大破した駆逐艦「榊」で、59名が戦死し、その後、戦病死者計78名のうち73名がマルタ島の英海軍墓地に葬られた(詳細は『後編』へ)。
事実のみを要約しただけでもその偉業に驚かされるが、そこには壮絶な戦い、連合国諸国への友情、英海軍との強い結束、祖国を遠く離れ戦いに挑んだ大和魂など、さまざまな物語が秘められている。これらの輝かしい事実がこれまで特筆されたことは決して多くはなかった。世界中で大激戦が繰り広げられた中、歴史に残る海戦でもなく、きわめて顕著な戦果を挙げたというわけでもない、日本海軍による「地中海遠征」は、人々の記憶から葬り去られ、埋もれた事実となっていたのだ。
前編と後編にわたり、特務艦隊が派遣された時代背景、戦闘および救助活動など彼らが残した功績を紹介する。誰もが心揺さぶられるに違いない事実を明るみにし、末永く日本人の記憶にとどめて欲しいと願うばかりだ。
参戦の状況 日本の思惑・英国の思惑
第一次世界大戦に日本が参戦した理由は「日英同盟に基づいた結果」と一般にいわれるが、1914年8月4日に英国が対独宣戦布告した時点では、英国政府は日本の参戦は不要と明言していた。しかし、まもなく、英国は「中国近海におけるドイツ仮装巡洋艦撃退」という限定的な範囲で日本の援助を求めるようになる。当時ドイツが租借していた膠州湾には、ドイツ東洋艦隊が存在し、これが英国通商の脅威となっていた。英国は、日本が本格参戦をして中国の既得権益を奪うのを恐れており、通商の保護のみを日本に望んでいたのである。
一方、日本はこれを、ドイツの極東権益を奪い、中国権益をさらに拡大する絶好の機会とし、地域を限定した援助要請に反対、英国に交渉し、「日英同盟に基づく情誼」を大義名分に全面参戦を申し出る。これに対し、英国は日本の参戦の一時見送りを要請、その後さらなる日本の強硬な主張、英国の譲歩などの紆余曲折を経て、ついに同23日、日本はドイツに宣戦布告する。
そして、わずか数ヵ月の間に、ドイツの占領していた膠州湾を占領し、翌年には、後に諸外国からの非難を受けることになる「対華二十一ヵ条の要求」を清国につきつけ、膠州湾の租借権や山東半島での利権をドイツから引き継ぐことを認めさせたのである。
【第一次世界大戦時に日本から派遣された特務艦隊】
第一特務艦隊 | 巡洋艦「矢矧」「須磨」「新高」「対馬」 第2駆逐隊2隻 ケープタウン、インド洋、南シナ海方面 |
第二特務艦隊 | 巡洋艦「明石」 第10駆逐隊(桂、楓、楠、梅)、第11駆逐隊(松、榊、杉、柏)のちに 巡洋艦「出雲」、第15駆逐隊(檜、桃、柳、樫)を増加派遣 地中海での対潜作戦 |
第三特務艦隊 | 巡洋艦「筑摩」「平戸」 南太平洋、オーストラリア・ニュージーランド方面 |
欧州派兵決定
勃発時は短期戦に終わると見られていた第一次世界大戦は予想に反して長引き、物的、人的被害も膨れ上がっていた。大戦も後半に入り、連合国側が苦戦を強いられるようになると、英国をはじめとする連合国は日本へ欧州派兵を要請してくる。これに対し、日本は「あれほど参戦区域を極東に制限しようとしていたのに、なにを今さら」と要請をはねつけている。中国における権益拡大という目的をある程度果たした日本にとって、欧州派兵は直接的には何の利益も生まないと思われたからだ。
1916年2月4日、英グレー外相が井上勝之助駐英大使に地中海への駆逐艦派遣を打診した際も日本は消極的で、英国は5日後にその要請を「シンガポール方面」へと変更して、日本の承諾を得ている。
しかし、戦況が混乱を極めると、派兵を渋る日本に対して連合国諸国の反感が強まり、日本海軍はもとより日本陸軍に対する派兵要請も強硬化し、日本は決断を迫られた。しかし当時の日本陸軍は親独派が主流だったため、欧州派兵については極めて冷ややかで、国内世論をまとめ難いこと、適切な編制装備がないことなどを理由にこれを拒否している。
一方、日本海軍は、翌年1月11日、地中海およびケープタウン方面への派兵要請を受けた。海軍内部に賛否両論あったものの、その時点で確保していた中国権益を戦争終結時に支持してもらうためには連合国への援助は免れないという賛成派も少なくなかった。とくに、日露戦争で連合艦隊参謀として作戦の立案にあたり、『坂の上の雲』(司馬遼太郎著)の主人公としても知られる秋山真之海軍少将は、その当時、欧州視察から帰国したばかりで「この機会を生かせば、戦後の日本が有利になるだけでなく、実戦経験は戦術の向上や兵器改良にも有効」とし、優秀な若手士官を派遣することを強く主唱していた。そして2月、ついに日本は地中海への駆逐艦派遣を決定、巡洋艦「明石」と第10駆逐隊、第11駆逐隊で構成される第二特務艦隊を編成し出航することになった。
マルタまでの道のり
第11駆逐隊が地中海へ向けて佐世保を出発したのは2月18日、3月1日には既にシンガポールを拠点に警備にあたっていた巡洋艦「明石」および第10駆逐隊と合流、同11日にシンガポールを出発、4月13日に地中海任務の根拠地となるマルタに到着している。第11駆逐隊にとっては、2ヵ月を要した大航海だった。秋山少将が、若く優秀な士官を起用するよう推したように、第二特務艦隊には激務と予想される特別任務に耐えうる人材が厳選され、編制が行われた。とはいえ、巡洋艦よりも小さく、所狭しと様々な装備が施された駆逐艦は揺れが激しく窮屈で、任務に携わる以前のマルタまでの航海でさえ、暴風雨や猛暑なども手伝い、耐え難い重労働となった。
そうしてようやく辿り着いた地中海は「魔の海」と化していた。1917年2月1日、ドイツがUボートによる無制限潜水艦作戦(指定した戦闘区域内の船を無制限に攻撃すること)を宣言し、それ以来連合国側の輸送船被害が激増していたからである。かくして、連合国が心待ちにしていた第二特務艦隊は、マルタ到着の翌々日から対潜水艦作戦の任務につくのである。
第一次世界大戦 主な参戦国一覧
同盟国 | ドイツ、オーストリア・ハンガリー、トルコ、ブルガリア他 |
連合国 | 英国、フランス、ロシア、日本、イタリア、アメリカ他 |
マルタと日本海軍
私の父、ジェームス・ネルソン・ニコルは第二次世界大戦時に日本帝国海軍と戦った。それに対し、私の祖父と大叔父たちは第一次世界大戦時に日本とは同盟国として共に戦っている。私は1940年生まれで、第二次大戦後の英国に育ち、私の周りの多くの大人たちは反日感情を抱いているのが普通だった。しかし、私は父からそういう類のことは全く聞いたことがなく、私の空手の師である、金澤弘和氏が初めて英国を訪れ、私の家に滞在した時も、父はわが師を手厚くもてなした。父は、第二次大戦を経験しているにもかかわらず、日本に対して多大な敬意を払っていたのだと思う。
日本に帰化することを決心した時、私は1984年に他界した父のために、父が喜ぶことを何かしたいと考えていた。そして、父が大好きだった、日英両国がすばらしい友好関係にあった時代のことを、とくに海軍に焦点をあてて書いてみようと思った。ちょうど日英同盟が結ばれていた1902年から1921年までのことについてだ。
日露戦争については両海軍の資料が豊富に残され、スムーズに調査できたのに対し、第一次大戦時の日本海軍のことを調べようとした途端、私は大きな壁に直面した。いわゆる専門家たちは皆、日本は欧州での戦争には関与しておらず、単に中国における権益を拡大するためのチャンスとして戦争を利用しただけだと言うが、私はそんなはずはないと思っていた。
そんな頃、ある日本人読者から「第一次大戦時、私の祖父がマルタに派遣され、榊という駆逐艦に乗って戦った」という手紙をもらった。その時、厚い壁が一挙に取り払われたのである。
私はマネージャーである森田いづみとさらに調査をすすめ、日本海軍士官が書き残したという貴重な航海誌を手に入れた。その航海誌を読んだ後、1997年に私はついにマルタに飛んだ。そして、カルカーラ英連邦墓地にある「大日本帝国第二特務艦隊戦死者の碑」を初めて参拝したのだ。その墓碑の前には、1904年に18歳で亡くなった英海軍少尉候補生の小さなお墓があった。どの墓石も同じように敬意が払われており、ちょうど2年前に日本の国籍を得た私はその事実にこの上ない感動を覚えた。
マルタにいる間、航海誌の中に登場した場所をことごとく訪れてみた。古い図書館では過去の新聞、雑誌に目を通し、現地の人々にも協力してもらい調査を続けた。日本海軍の勇敢さや非凡な活躍ぶりは誰も知らないらしく、私は自分がこの素晴らしい歴史を小説にする最初の作家になるであろうことを確信し、誇りに思わずにいられなかった。
また、当時の趣きをそのままにしたバーやレストランに行き、まるで勇敢な日本海軍兵の幽霊たちがそこにいるかのような錯覚をおぼえながら、「彼らも僕と同じものが好きなんだな」などと考えつつ、ワインや食事を楽しんだ。
1874年にラ・ステラLa Stellaの名で建てられ、1901年にキングズ・オウン・バンド・クラブThe King's Own Band Clubと改名されたレストランは、かつて日本海軍将校の馴染みの場所だったという。私は、ここでマルタ産の白ワインと、エスカルゴよりもやや小さいが美味な、その朝採りたてというマルタの巻貝を一皿食べ、それから、大きなツナステーキを平らげた。ツナはトマトと玉ねぎとで調理されており、それにマルタ自慢のポテトとサラダが付いていた。パンも今まで出会ったことのないような格別の味だった。
別のきわめて庶民的なレストランでは、うさぎ肉のフライ、安くて素朴な赤ワイン、ハーブとガーリックで風味づけしたヤギのひき肉とインゲンのパスタを食べたが、これがまた美味しかった。また個人宅では、見た目が英国のブラックベリーにとても似ている、「タットtut」という甘い果実を供された。そして、今まで見たことのないずんぐりと太い、「シグラタタットsigra tat tut」と呼ばれる、その実のなる古木を見に行ったりもした。
アフリカ北部とヨーロッパの料理を融合させたようなマルタの食べ物を私はいたく気に入ったのだった。
疲弊やストレス、海上の戦いに対する恐怖をよそに、明治の日本男児たちがこういった文化の融合やマルタの歴史的な側面を楽しんだであろうことは想像に難くない。もう、その頃のように、家々の戸口で新鮮なミルクをしぼるためにヤギを引き連れて通りを行き来するというような光景は見られなくなってしまったが…。
日本の海軍将校たちはかつてマルタを「Bells, yells and smells(鐘が鳴り響いて、人はうるさくて、臭い所)」と言って冗談にした。今でも教会の鐘は鳴り響いているし、マルタ人はイタリア人並みに賑やかだが、幸い私の嗅いだのは良い匂いだけだった。海軍兵たちを不快にさせ、かつ笑わせたという、石畳に張りついたヤギの糞の強烈な臭いは嗅がずにすんだのである(笑)。
2006年7月30日 長野県黒姫にてC・W・ニコル
BOOKS C.W.ニコル海軍3部作
『盟約』 村上博基訳 1999年 文藝春秋 上・下 各2,000円(税込) 時は明治。カナダ育ちの少年・銛一三郎(もりいち・さぶろう)は日本へ渡り、海軍に身を投じる。その成長を軸に日本と英国の誇り高き絆を描く熱血冒険大活劇。
|
|
『遭敵海域』 村上博基訳 2002年 文藝春秋 2,100円(税込) 「銛一三郎」シリーズ第2弾。第一次世界大戦が勃発、密命を帯びて世界を駆ける海軍士官・銛一三郎。だが彼の心は、卑劣な戦争がもたらす悲劇に曇ってゆく…。日英同盟下の日英両国の絆を海軍を軸に描く。
|
|
『特務艦隊』 村上博基訳 2005年 文藝春秋 2,520円(税込) 第一次世界大戦終盤。膨大な英文資料を基に日本海軍の知られざる海戦とその誇り高き姿を勇壮に描いた作品。「銛一三郎」シリーズ3部作の完結編。 |
参考資料:『日本海軍地中海遠征記』、『特務艦隊』、各種関連ウェブサイト
週刊ジャーニー No.854(2014年10月30日)掲載