強まるカトリック・ アレルギー

 ジェームズ6世は、熱心なカトリック信者だった母メアリーから幼少期に引き離されたあと、厳しくプロテスタント信者として育てられた。しかし、孫のチャールズ2世は、表向きはプロテスタント信者ながら、王妃がカトリック信者であったことなどから『隠れカトリック』と見なされている。さらにジェームズ7世は、公私ともに認めるカトリック信者で、プロテスタントに分類される英国国教会の国、イングランドはカトリックの君主を戴く事態に陥っていた。
そのころ、イングランドの難敵フランスは、カトリックを信奉する「太陽王」ルイ14世のもと、全ヨーロッパ征服を画策するまでに強大化していた。1688年の「名誉革命」により、ジェームズ7世の娘でプロテスタント信者のメアリー(メアリー2世として即位)、その夫で、プロテスタントの国として奮闘するオランダから迎えたオレンジ公ウィリアムことウィリアム3世が、イングランドを共同統治することになった背景には、フランスへの強い警戒心があったのは明白だ。
イングランド議会は、この時期、自国イングランドの独立と繁栄を守るために、カトリック君主を排除するという決意を固めたと考えられるが、ちょうど、スペインの無敵艦隊と戦った時代を思い起こさせる。バチカンが演じていた役割をフランスが担うようになったと言えばわかりやすいだろうか。当時の欧州は露骨な弱肉強食の世界。イングランドはまだ、十分な力を備えた大国とは言えない存在だったのだ。
メアリー2世とウィリアム3世には子供がなかった。1694年、メアリーが天然痘で病死。1702年には、乗っていた馬がモグラの掘った穴に足を取られたはずみに落馬、重体となったウィリアム3世が逝去したため、メアリーの妹、アンがイングランド君主として即位した。
アンはプロテスタント信者だったが、死産6回、流産6回を経験。誕生した子供もことごとく幼くして天に召され、世継ぎが望めない確率が日増しに高くなっていた。
イングランド議会はあせった。
折しも、アンが即位した1702年から、オランダ、オーストリアとともに、フランスとスペイン相手の「スペイン継承戦争」が本格化する。
伝統的に、「敵の敵は友」の理論から、スコットランドはイングランドのライバルであるフランスと手を結ぶことが多かった。スコットランドのスチュワート朝の君主にカトリック信者が少なくないのも、この事情と無縁ではなかろう。アン王女が世継ぎなく他界した場合、フランスに亡命したジェームズ7世の息子、つまり、アンにとっては異母弟であるジェームズ・フランシス・エドワード・スチュワートが王位を継承してしまう。
これを阻むにはどうするか。
先を見越したイングランド議会の対応は早かった。
まず、まだウィリアム3世が存命していた1701年、王位継承法(Act of Settlement)を制定。王位継承者は、スチュワート家の血を引く者に限ることと、イングランド国教会信者のみであることなどが定められた。カトリック信者は君主になれず、また、その配偶者も国教会信者あることが義務付けられたのである。
次に、1707年5月1日、イングランド・スコットランド両国の合同法が成立。ジェームズ6世(イングランド王ジェームズ1世)以降、100年余りにわたって組まれてきた同君連合体制を、さらにふみこんで、政府・議会も統一する内容で、両国は正式に統合されることになった。経済的に疲弊していたスコットランドは、これに反対する財力も武力も持たず、ここに、グレート・ブリテン王国が誕生したのである。アンは同王国の最初の君主となったが、その死後、ジェームズ・フランシス・エドワード・スチュワートは英国国教会への改宗を拒否したため、グレート・ブリテン王国の君主への道を絶たれ、アンがスチュワート朝最後の君主ともなったのだった。
1714年、ブランデーの過剰飲酒で極度の肥満に苦しんでいたアンが亡くなったあと、曾祖父ジェームズ1世の外孫で、ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグスト妃となっていたソフィアの子孫が継承者に定められた。グレート・ブリテン王国の新君主となったのは、ソフィアの長男で、アンのまた従兄に当たるハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒだった。ゲオルク・ルートヴィヒはジョージ1世を名乗ることになり、現ウィンザー朝の前身といえるハノーファー(ハノーバー)朝が誕生したのである。

 


エディンバラのロイヤル・マイルの西端にある、スコットランド議会場。
ホリルードパレス宮殿と向かい合う位置にあり、近代的なデザインが特徴。
曜日・時間ともに制限はあるが、無料で見学できる。