イングランド王になった スコットランド人

 

 さて、この700年で、スコットランドはイングランドに対して大きな勝利をおさめたことがないと書いたが、『無血』でイングランド王の座を手に入れ、君臨したことがあった。
1603年、「よき女王ベス」と呼ばれ、44年の長きにわたってイングランドを治めたエリザベス1世が、未婚のまま逝去したのをうけ、スコットランドのスチュワート王家のジェームズ6世が、イングランド王ジェームズ1世を兼ねることになったのである。

 


左/スチュワート王家、ならびに現英王室ともゆかりの深いホリルードパレス宮殿。
エディンバラでは、見逃せない観光スポットのひとつ。
右/ングランド王を兼ねたジェームズ6世。


ジェームズ6世は、エリザベス1世への謀反の疑いで処刑されたメアリー・スチュワート(スコットランド女王メアリー)のひとり息子。父親はメアリーの2番目の夫で、ヘンリー7世のひ孫、ダーンリー卿であった。
母メアリーは、兄である王子2人が夭逝していたため、ジェームズ5世の急逝を受けてわずか生後6日でスコットランド女王に即位した女性。16歳でフランスのアンリ2世の皇太子フランソワと結婚。フランソワは翌年、アンリ2世の事故死にともないフランソワ2世となるも、病弱であったことから、1560年、即位後、1年余りでこの世を去る。
18歳で未亡人の身になり、スコットランドに戻ったメアリーも、イングランド王ヘンリー7世のひ孫であった。母親のアン・ブリンがヘンリー8世に処刑されて、一時は「庶子」扱いされたエリザベス1世より、イングランド君主にふさわしいと、最後まで主張。しかも、筋金入りのカトリック信者であったため、イングランド征服を目論むバチカン(カトリック教会)やカトリック大国スペインは、エリザベスを暗殺し、メアリーをイングランド君主の座に据えようと躍起になった。
ところが、メアリーは反カトリック派貴族たちにより廃位させられてしまう。翌年の1568年、イングランドに亡命したメアリーは、エリザベス1世の温情のもと、19年間の幽閉生活を送ったが、1587年、ついにエリザベス暗殺計画に加担した動かぬ証拠を突きつけられて裁判にかけられ、処刑されたのだった。
一度も結婚することなく生涯を終えたエリザベス1世と、3度結婚したメアリーは、対照的な生き方を選んだ2人の女性として、多くの書や映画で比較されてきた。世継ぎがいなかったため、後継者を指名するよう議会や側近から執拗に迫られながらも拒否し続け、ついに指名せずに他界したエリザベスの跡を、メアリーの息子が引き継いだというのは運命の皮肉としか言いようがない。
ジェームズ6世、すなわちジェームズ1世以降、スチュワート朝の王は、イングランド王を5代にわたって兼ねる。この形態は、共通の王を頂きながらも独自の政府・議会を持つ同君連合体制で、英国史上、王冠連合 (Union of the Crowns)と呼ばれている。しかし、いずれもあまり輝かしい治世とはいえず、ジェームズ1世の息子、チャールズ1世は「ピューリタン(清教徒)革命」で議会派により処刑され、孫のチャールズ2世の代で王政復古が成ったものの、その弟でカトリック信者だったジェームズ7世(イングランド王ジェームズ2世)は「名誉革命」でフランスに追放されたのだった。

 


カトリックの強国で、専制君主ルイ14世率いるフランスと戦うオランダのオレンジ公ウィリアムは、プロテスタントの英雄とも言われていたが、同じプロテスタントの国々の支援を欲していた。その頃、イングランド議会は、フランスに肩入れしようとするカトリック王ジェームズ2世(スコットランド王としてはジェームズ7世)に、大きな恐れを抱くようになっていた。イングランド議会は、密かに、ジェームズ2世の娘であるメアリー(メアリー2世)の夫であるオレンジ公ウィリアム(ウィリアム3世)に連絡をとり、ジェームズ2世廃位を計画した。
1688年、無血で、君主交代を成し遂げたことから『名誉革命』と呼ばれる一大事件が発生。ウィリアムが攻めてくることを知ったジェームズ2世は、対抗しようとするが、従おうとする貴族も兵士もいなかったという。君主の座を奪われたジェームズ2世は、やっとの思いでフランスに亡命したのだった。
イングランドでは嫌われたジェームズ2世だったが、もともとスチュワート朝はスコットランドの王家。スコットランドでは、ジェームズ支持を表明する者が少なくなかった。このジェームズ支持派は、ジェームズのラテン名「Jacobus」から、「ジャコバイト」と呼ばれた。
ジャコバイトの反乱は2度起こった。1度目は1715年。ジェームズ2世の息子、ジェームズ・フランシス・エドワード(自ら、イングランド王ジェームズ3世、スコットランド王ジェームズ8世を名乗った)は、スコットランドのフォース湾に上陸したものの、その頃には英政府軍により、ジャコバイト派は撃破されており、ジェームズはフランスに逃げ帰った。
2度目は1745年。ジェームズ2世の孫で美形だったことから「ボニー・プリンス・チャーリー」と呼ばれたチャールズ・エドワード=右の肖像画=が支持派とともに決起。ダービーまで進撃したが、最終的にはインヴァネス近郊のカローデンで英政府軍に壊滅させられた。チャールズは命からがら大陸に逃れた。この蜂起を最後に、ジャコバイトのスチュワート朝再興の夢は永遠に絶たれたのだった。