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森深き地を統一した スコット族

 


トレッキングコースとしても人気の高い「ハドリアヌスの長壁」。荒涼とした風景の中に横たわる。

 

 スコットランドに人類が足を踏み入れたのは、紀元前5000年ごろとされている。しかし、今日のスコットランド人の祖先が、グレート・ブリテン島北部に定住を始めたのは存外遅く、紀元前800年ごろというのが有力な説だ。中部ヨーロッパを故郷とするケルト人の一派が、はるばるここまで到達したのである。
歴史書に登場するまでにはさらに長い時間を要し、ようやく言及されたのは西暦84年になってから。イングランドを制圧したローマ軍が北進、大規模な戦闘が行われて「1万人のカレドニア人が殺された」と、ローマの歴史家タキトゥスが書き記したのだった。
カレドニアは「森深き地」の意。ここで先住民としてローマ軍と戦ったのは、ピクト族だったとされている。体に入れ墨をほどこす習慣があったことから、この名で呼ばれた人々は勇敢で、その後もローマ人をおびやかし続けた。128年に完成した「ハドリアヌスの長壁」(本誌2013年9月19日号にて特集記事を掲載)は、ピクト族の南下を抑えるための防御壁で、グレート・ブリテン島を東西に横切るように幅約2・4メートル、長さ117キロにわたって築かれた。その規模の大きさに、ピクト族に対する恐れの強さが見て取れる。
ただ、このピクト族も、現在のスコットランド全域を統一したわけではなかった。東西分裂が招いたローマ帝国の弱体化により、ローマ人が410年にグレート・ブリテン島の統治を放棄して引き上げてから、カレドニアは4世紀にわたって、戦乱の時代が続く。
ピクト族は主として、ハイランドを含むスコットランド北部を支配。フォース川以南は、やはりケルト系のブリトン族と、現南ドイツから流れてきたアングル族が分け合い、スコットランド西部のアーガイル・キンタイア地域は、アイルランドから移住してきたスコット族が掌握、ダルリアーダ王国を築いた。これら4つの部族が領土拡張の争いを続ける一方、スカンジナビアから海路渡ってきたバイキングの襲撃を何度も受け、スコットランドはなかなか穏やかな日々を迎えることができなかった。
大きな変化が起こったのは9世紀半ば。843年に、ダルリアーダ王国の君主、ケネス・マカルピンが北部を制圧。統治エリアは「スコティア」と呼ばれるようになる。
この「スコット族の国」が、現スコットランド全土を勢力下におくことに成功したのは、約2世紀後の1058年、時の君主はマルコム3世である。別名、「マルコム・カンモー(Malcolm Canmore)」(canmore=頭の大きな、うぬぼれの強い)と呼ばれた同王は勢いづき、一度ならず、イングランドへの南下を試みるものの、イングランド王ウィリアム1世軍の反撃を受けて惨敗。ウィリアム1世は、1066年にヘイスティングズの戦いに勝ち、イングランド王として即位したノルマンディ公であることは言うまでもないだろう。成立したばかりの小国の王がたちうちできる相手ではなかった。しかし、マルコム3世もしたたかだったようだ。1072年、ウィリアム1世に忠誠を誓い、ノルマン貴族たちを迎え入れることに同意しながらも、独立国として、一応の体面は保った。
ちなみに、このマルコム3世時代に、スコットランドの新たな支配者層として定住することになったノルマン貴族の中に、ブルース家、スチュワート家の名が見られた。スコットランドの悲願となる独立について語るとき、欠かすことのできない大きな役割を果たすことになるのが、こうしたノルマン系貴族の子孫なのだから、歴史はわからないものである

 


【国旗】 セント・アンドリューズ・クロス(St Andrew's Cross)。師キリストと同じように十字にかかる価値は自分にはない、と斜め十字でのはりつけを選んだ、スコットランドの守護聖人、聖アンドリューの旗。紺地に白の斜め十字。
【国歌】 (ただし非公式)複数候補があり、『Flower of Scotland』『Scotland the Brave』『Scots Wha Hae』などの支持率が高い。
【国花】アザミ。奇襲を仕掛けようとした敵が、アザミを踏み、その痛みで声をあげたことからスコットランド軍が救われたという故事にちなむ。
【国獣】 「清廉潔白」を意味するユニコーン。ただし、王室の旗に登場するときは、ライオン。
【国宝】 (編集部の独断)パース郊外のスクーン宮殿にあった、『運命の石』(建物の前にある積み木のような石のうち、腰をかける部分)。現在、スクーン宮殿に置かれているのはレプリカ=写真。本物の『運命の石』がウェストミンスター寺院からスコットランドに公式に戻されたのは、1996年のこと。今はエディンバラ城の「クラウン・ルーム(王冠の間)」に展示されている。なお、この石がスコットランドを離れるのは、ウェストミンスター寺院で戴冠式が行われる時のみ。