ロンドンを堕落させた液体

 庶民に支持された蒸留酒産業は巨大なマーケットを築いていた。なかでも人気が高かったのは、ジェニーヴァを模してできた蒸留酒で、いつしかジェニーヴァを短くした「ジンGin」として広まっていった。1714年に発売された書物の中で、初めてジンの名が登場したとされ、その頃には広く親しまれていたと考えられる。
蒸留酒の製造販売が解禁となり、初めはお祭り気分だった一般大衆の間で、ジンは『生活必需品』の名目で人々の生活にくい込んでいた。18世紀前半、現在のトテナム・コートロード駅がある周辺のセント・ジャイルズ地区では4世帯につき1軒の割合で、ウェストミンスター地区では8世帯につき1軒でジンを販売。老若男女を問わず人々は酔いしれ、街角で飲酒するにとどまらず、販売にも手を広げる女性のなかには、服がはだけ、肌をあらわにした姿も目立ち、ジンは、「マダム・ジェニーヴァMadam Geneva」のあだ名でもてはやされた。
このジンへの狂乱が、のちに「ジン・クレイズ」と呼称される、アルコール中毒の社会問題である。ホガースの絵が語るのは、そんなロンドンの惨状だ。人々は勤勉に働くことをやめ、怠惰な生活を送るようになっていく。賃金がジンで払われることもあれば、酒場が早朝まで賑わうのも日常茶飯事。ビールよりも安く、アルコール度数の高いジンで、安く手軽に酔い、酔えば貧乏であることを忘れることもできた。さらに、屋根裏部屋や地下といった薄暗いところでジン販売が行われるのもしばしば。治安が良いとは決して言えない、いかがわしい環境も多く、犯罪がはびこっていった。マダム・ジェニーヴァが人々の健康を損なわせ、健全な精神を蝕んでいくのは難しいことではなかった。
泣き止まない赤ん坊に良かれと思ってジンを飲ませて死亡させる事件や、中毒になって判断力の鈍った看護師が、子供を『薪』だと勘違いして暖炉に置き、焼死させたケースなど、聞くに堪えないレポートも残されている。当然、死者の数はふくれ上がった。ジンに、退廃のシンボル「Mothers Ruin」との烙印が押されるのも無理はなかった。

 

幸か不幸か、穀物不作の4年間

 1729年以降、政府は本格的な規制に乗り出していたが、日常生活を支配するまでに強大となったジンの勢いをそぐのは容易なことではなかったようだ。税金を高くしたり、販売免許制度を設けたりするなどの取り組みは大した効果を生まなかった。規制が設けられると、街の酒造家らは蒸留器を隠し密造したり、密輸したりするなど、抜け道を見つけては営業を続行。また、蒸留で生計を立てる者が増えていたことや、税収が国庫の財源確保に貢献していたことから、規制に対し慎重な声もあがるなど、一筋縄ではいかない状態が続いた。
ようやく規制が機能し、消費量が減退しはじめたとき、追い討ちをかけるようにジンを襲ったのは、1757年から続く穀物の凶作だ。食料維持が最優先となり、国産穀物を使った蒸留酒の製造が禁止されたのである。一時的な措置とみられたが、以降も穀物収穫量の回復は見られず4年が経過。禁止が解かれたときには、ジンはかつての勢いを失っていた。規制がますます強化されたことや、凶作の影響で値は上がり、消費が減少、販売所数も激減した。最盛期の1740年代後半に比べると、3分の1の量がかろうじて作られる程度にとどまった。
庶民からの根強い支持があったものの、彼らにとってマダム・ジェニーヴァは高嶺の花となり、「ジン・クレイズ」は終焉を迎えたのである。

 

ロンドンでジン蒸留所見学 Sipsmith
近年、小規模生産の新興ジン・メーカーがロンドン内に蒸留所を構える例が増えている。2009年に創業し、ロンドン西部ハマースミスの住宅地に蒸留所を持つ「シップスミス」はそのひとつ。3人の若者が「理想のジン」を作ろうと始めた同ブランドの一番の特徴は、雑味を取り除く効果があるとされる伝統的な銅製の蒸留器を用い、少量生産を心がけていることにある(銅製の蒸留器が稼働したのは、なんと1820年以来初で、実に189年ぶり!)。今年で創業5年目ながら、既に多くのファンを獲得しているシップスミスでは、蒸留所見学ツアーが毎週火曜と水曜の夜に行われている(参加費1人12ポンド、所要時間90分)。ジン&トニックや同社製品を試飲しながら、シップスミスのこだわりや、ジンの歴史などについて知ることができる。
Sipsmith
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© Alastair Wiper