強まる返還要請― 彫刻は誰のもの?
1816年に大英博物館へ移されたエルギン・コレクションは、以降「エルギン・マーブル」(またはパルテノン・マーブル)と呼ばれ、同館のパルテノン・ギャラリーに展示されている。ロゼッタストーンやミイラと並ぶ花形のひとつであり、多数の来館者の目をひきつけている。
1892年にギリシャがオスマン帝国から独立して以降、英国にこの彫刻群の返還を要請し続けていることは、ご存知の方も多いだろう。大英博物館は「当時の政権の許可を得て、合法的に持ち帰った」「あのまま放置されていれば、パルテノン神殿はさらなる崩壊に直面していた」と話して返還を拒否しているが、皮肉なことに、これはエルギンが略奪者と謗られていた時に主張した言葉とまったく同じである。
略奪美術品と呼ばれるものは、英国に限らずいくつもの国に現存している。「人類共通の財産」「返還しても適切に管理されるか不安」「戦乱などで失われたかもしれない文化財を守ってきた」というのが「所持する側」の論理だが、これらにも一理あることは否めない。
エルギンは狡猾な略奪者ではなかったが、かといってパルテノン神殿を救った文化的英雄でもなかった。むしろ世間の目を気にせず、己の信念だけにしたがって貴重な文化財を持ち出した功利的な『理想主義者』だったといえるのではなかろうか。
ちなみに、彫刻を売却した後のエルギンはというと、支払われた代金はすべて債権者たちの間で分配され、当人のもとには一銭も残らなかったと伝えら れている。23歳も年下であったブルームホールの管理人の娘と再婚し、8人もの子供に恵まれたことは、不幸続きであったエルギンの人生の中では幸せと いえる出来事だったに違いない。しかし、負債に追われ続けた一家は、やがて債権者から逃れるためにフランスへ移住。1841年、エルギンはパリにて 75年の生涯を閉じる。負債は残された家族につきまとい、完済の報がもたらされたのは、エルギンの死からおよそ30年後のことであったという。
エルギン・マーブルが並べられている、現在のパルテノン・ギャラリー。
多くの来館者で常に展示室は賑わっており、人気の高さがうかがえる。
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