一大プロジェクトの始動

 エルギンには、もうひとつ仕上げ段階に入っている計画があった。それは、父と兄が亡くなって以降放置されていたエルギン家の邸宅ブルームホールの再建である。
改築を任された建築家トーマス・ハリソンはローマで古典建築を学んでおり、特にギリシャ建築や芸術への造詣が深いことで知られていた。ラテン語やギリシャ語を解し、古典文化に憧憬を抱いていたエルギンとハリソンはすぐに意気投合。そしてハリソンが呟いたある一言が、エルギンの進む道を大きく変えることになる。
「真の古典建築はアテネにあり、ローマの建築物はその複製でしかない。だが、芸術家やそれを学びたい学生が満足するような知識は、英国には伝わってこない」
この言葉はエルギンの心に火をつけた。本物のギリシャ建築や彫刻を、誰もが簡単に見られるようにしたい。その素晴らしさを知ってほしい。そのためにはどうすればいいのか…? エルギンのトルコ赴任が決まったのは、そんな時であった。
「腕のいい画家をアテネに連れて行って写生させ、建築装飾の型をとって実物に酷似したレプリカをつくり、それを組み合わせて英国で再現してみてはどうだい? トルコとギリシャは近いし、君なら出来るかもしれない」
ハリソンからの提案を受け、エルギンはすぐさま行動に移す。彼が向かったのは、英政府の上層部。英国の文化水準向上のためにこの計画がいかに重要であるかを説き、国家的なプロジェクトとして政府が着手するべきだと熱心に進言した。だが、政府の反応は冷たかった。
「そのような不明確な性格を持つ事柄に対する出費を、成功する可能性が低い点からみても、我々は認めることはできない」
しかし、エルギンの決意は揺らがなかった。「政府が同意しないのなら、私財を投げ打ってでも自分がやるしかない」。幸運なことに、資産家の娘と婚姻関係を結んだばかり。費用は多額になるだろうが、なんとか工面できそうに思えたのだろう。強い使命感とギリシャへの情熱に燃えたエルギンを止められる者はいなかった。

 

本当は極彩色だった!?
大英博物館の洗浄スキャンダル

 ことの起こりは、1930年代。当時の歴史学者らは、「大理石彫刻は白い」という先入観を持っていた。エルギン・マーブルは茶色がかっており、これを「長年の汚れで色がくすんでしまった」と考えた。そのため、大英博物館内に新ギャラリーをオープンするのに際し、彫刻をより魅力的に見せようと洗浄作業を行う。しかし、金属たわしと研磨剤でこすっていくうちに、実はもとから茶色だったらしいと気づく。時すでに遅く、彫刻群の約8割の表面が傷ついて剥がれ落ち、白くなってしまったが、同館はこの失態を隠蔽した――。
1939年にBBCの報道によって一大スキャンダルとなったこの事件は、これまで「白い文明」と呼ばれてきた古代ギリシャのイメージを大きく塗り替えた。
ギリシャで一気に文明が開化するのは、紀元前7世紀。それまでの先進国は、エジプトやメソポタミアだった。大勢のギリシャ人が仕事を求め、傭兵としてエジプトなどに向かったという。だが、アッシリアの勢力が拡大し、エジプトが衰退し始めたことで、ギリシャ人たちは一挙に帰国。やがて色彩豊かなエジプト文明に倣って築かれたのが、極彩色のギリシャ文明だったという。
近年、一部の遺物から発見された色素の痕跡などをもとに、CGなどで当時の姿を再現する試みが行われている 。



ヴィクトリア朝の画家ローレンス・アルマ=タデマが描いた
「フェイディアスとパルテノン神殿のフリーズ」(1868年)。
この絵が発表された当時、すでに「古代ギリシャ彫像は彩色されていたのでは?」との論争が起きていた。