相次ぐ家族の死

 エルギン家は11世紀にまでさかのぼる血筋を誇るスコットランドの名家で、1633年にチャールズ1世より伯爵位を授爵して以降、古都ダンファームリン南部に居を構えている。トーマスは「ブルームホール」と呼ばれる領内にあるエルギン家代々の邸宅で、1766年、第5代当主の次男として生まれた。ところが、1771年5月に父親が急逝。長男ウィリアムが爵位を継ぐが、その2ヵ月後には彼も死去してしまう。こうしてトーマスは第7代エルギン伯爵(以降、トーマスは「エルギン」と記す)を突如踏襲することになり、わずか5歳でその幼い両肩に重責を背負わなければならなくなった。
夫と長男をたて続けに亡くした母親は、思い出の詰まったブルームホールでの生活に耐えられなかったのだろう。息子を連れてロンドンの実家に身を寄せる。銀行家の一人娘であった母親は、夫を亡くしても経済面で苦労することはなかったようで、そんな祖父母や母親にエルギンが溺愛されたであろうことは想像に難くない。彼の人生の歯車が狂っていく要因のひとつとなる「経済観念の欠如」は、この頃に培われたと思われる。
政治家と外交官を多く輩出していた一族の例にもれず、語学面で才能を発揮したエルギンは、外交官を目指した。フランス語やドイツ語のほか、ラテン語、ギリシャ語に至るまで優秀な成績を修め、大学卒業後は英陸軍に籍を置きながらヨーロッパを転々とし、語学力に磨きをかけていった。そして1790年にはスコットランド上院議員に選出され、その翌年、いよいよ念願の外交官デビューを飾るチャンスがめぐってくる。

 

エルギン大使誕生

 1791年、20年にわたってオーストリアに駐在していた英国公使が病に倒れたとの連絡が、英政府のもとに飛び込んでくる。高齢の公使の代理として、早急にウィーンへ行ける人物を探さなければならなくなった政府が白羽の矢を立てたのが、語学が堪能と評判のエルギンだった。実力を認められたエルギンはその後、特命公使としてブリュッセルやベルリンへも赴き、着々とキャリアを築いていく。
ところで当時のヨーロッパでは、英仏両国の対立が年々激化していた。そうした中の1798年、英国とその植民地インドとの交易を絶ち、経済的打撃を英国に与えようと目論んだナポレオンが、フランス軍を率いて交易の中継地点であったエジプトに侵攻。エジプトはオスマン帝国の支配下に置かれていたため、オスマン帝国はフランスに宣戦布告する事態となった。また同時に、ナポレオンの企みを阻止しようとネルソン提督率いる英海軍もエジプトへ向かい、ナイル河口のアブキール湾でフランス軍を撃破。両国の連携により、ナポレオンは撤退を余儀なくされた。
これを機に、オスマン帝国と手を結んでフランスを弱体化させようと考えた英国は、オスマン帝国の首都コンスタンティノープル(現トルコ、イスタンブール)へと大使を派遣し、同帝国との友好関係を築こうとする。その特命全権大使に、これまでの経歴が評価されたエルギンが抜擢されたのである。己の前に華々しい未来が開けていることを、このときエルギンは疑いもしなかったに違いない。
人生の上昇気流に乗ったエルギンは、帝国との新たな関係を構築する役目を担うにあたり、公式な社交場に出る際にはパートナーの存在は必須と考え、花嫁を探し始める。そして4ヵ月の『捜索』の末にお眼鏡にかなった女性は、裕福な地主の娘メアリー・ニスベット。輝くばかりの美しさを放つ21歳のメアリーと、32歳という男ざかりの年齢を迎えたエルギンの結婚は、多くの招待客に祝福された。

 





ベルリン特命公使時代のエルギンと、のちに妻となるメアリー。右上図は再建された邸宅ブルームホール。