野田秀樹新作舞台 NODA•MAP「正三角関係」世界配信決定
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悲嘆にくれる調査団

 1800年、ギリシャ美術の研究家で大英博物館の理事も務めるウィリアム・ハミルトンの勧めに従い、エルギンが集めた選り抜きの調査団がアテネに意気揚々と到達した。ところが、そこで彼らが目にしたのは、想像を遥かに上回る荒廃したパルテノン神殿の姿であった。
紀元前432年に完成したアテネの守護神「知恵と戦の女神アテナ」を祭ったパルテノン神殿は、アクロポリスの丘(高さ70メートルほどの岩山)にたたずむ神殿群の頂点にたち、古代ギリシャ建築を今に伝える最も重要な建築物である。しかし長い刻を生き抜く中で、数え切れないほどの損傷を負ってきていた。
6世紀にキリスト教(ギリシャ正教)が伝播した際には、神殿はビザンチン様式の教会に改装された。祭壇に据えられた12メートルにもおよぶアテナ像は解体され、自然光が差し込むドーム型天井に変えるため、祭壇後方部の天井は壊されてしまった。その後、カトリック系の聖母マリア教会となった時代を経て、15世紀のオスマン帝国の侵略時には、モスクに変身。この時点ですでに内装は原形を留めていなかったという。そして17世紀に最大の悲劇が訪れる。オスマン帝国軍の火薬庫として使われていた同地は、ヴェネツィア共和国軍からの攻撃により爆発炎上。屋根が吹き飛び、壁は一部を残してすべて倒壊、装飾彫刻の約6割が失われてしまった。帝国軍が降伏した後、ヴェネツィア兵らは神殿彫刻を持ち帰ろうとしたが、取り外し作業を行っている間にそれらが崩れ落ちて諦めたという。18世紀に入ってグランド・ツアーが盛んになると、旅行者が大理石のかけらを記念品としたり、影で売買されたりして国外へ持ち出されていった。
調査団が見たのは、こうしてすっかり荒れ果てたパルテノン神殿だったのである。神殿が消滅の危機に陥っているという報告は、トルコにいるエルギンのもとにも届き、のちに彼が大きな決断を下すきっかけとなる。

 



1687年のヴェネツィア軍によるパルテノン神殿への攻撃を描いた図。神殿は大きく損傷した。

 

皇帝からの返礼

 調査団は気を取り直し、パルテノン神殿で写生や石膏の型取りにとりかかるが、ここで思わぬ妨害が入る。重要な軍事要塞であることを理由に、トルコ兵から現場を追い出されてしまったのである。
15世紀以降、ギリシャはオスマン帝国の支配下にあり、イスラム教徒であるトルコ人にとって、異教徒の文明の遺産である神殿や彫刻は、それほど重要なものではなかった。そのため、トルコ政府の許可さえ得られれば、いくらでも大規模な調査や収集作業を行うことができた。しかし、調査団はその許可書を携えていたにもかかわらず、神殿に近づくことができずにいた。調査を続行するには、皇帝に勅令を発行してもらうしかない――。連絡を受けたエルギンは、オスマン帝国の皇帝セリム3世に直訴を試みる。長い交渉の末、セリム3世から調査を許可する勅令が下ったのは、翌年のことであった。
さて、ようやく手にした勅令は、エルギンの目を疑わせるものだった。そこに記されていたのは、神殿の写生・型取りや発掘の許可のほか、なんと石板や彫刻、碑文などを持ち去ることまで認めていたのである。
皇帝がこのように寛大な勅令を出したのは、おそらく英国のおかげでフランスからエジプトを奪還できたことに対する返礼だったのではないかと推測できる。実際に、オスマン帝国によるエジプト支配再開が宣言された日、エルギンのもとにトルコ政府から貢物が届けられており、この勅令が感謝の気持ちから下されたものだとしても不思議ではないだろう。

 



エルギンが英国大使を務めた当時のオスマン帝国皇帝セリム3世。

 

屈辱的な蛮行

 「慎重に、ゆっくりと下ろすんだ! 傷をつけるんじゃないぞ!」
作業員に指示を飛ばす大声が、雲ひとつない青空の下に響き渡る。流れ落ちる汗をそのままに、ロープで巻かれた彫刻を声を掛け合いながら、20人がかりで地上に下ろしていく。その横では、別の作業員たちが大理石にノミをあて、彫刻を剥ぎ取っている。彫刻を留めていた石板や石材は次々と地上に投げ捨てられ、粉々に砕け散っていった。
エルギンは勅令を受け、神殿から彫刻を取り外す指示を調査団に出していた。戦火や旅行者によって神殿が壊されつつあることを、彼らから聞き及んでいたからだ。「貴重な文化を守るためには、出来る限りこれらを持ち出すしかない」。だが、そうしたエルギンの思いは、結局のところ新たな破壊を招くことになったといえる。地元のギリシャ住民は強く反発し、許可を与えたトルコ政府に対する非難も噴出。要塞として使っていたトルコ兵ですら、その悲惨な光景に息をのんだという。ましてや事情を知らない旅行者は、目の前で彫刻群が『強奪』される瞬間を目撃し、無残な廃墟となっていく様子に言葉を失った。冒頭に登場した画家で文筆家のエドワード・ドッドウェルは、著書にその時の気持ちをこう書き残している。
「パルテノンから最良の彫刻が略奪される瞬間に立ち会い、そして建築物の一部が落下するのを見るという、何とも言えない屈辱感を味わった。これを英国人が行ったかと思うと恥辱に値する。まさに蛮行だ」
取り外し作業は1年以上にわたって続けられ、現存する彫刻群の約半分を入手したところで打ち切られた。

 

『略奪』行為の痕が残る、神殿のメトープ部分(左、© Thermos)。
メトープ彫刻(右)はトリグリフという石板で左右を固定されており、この石板は地上に投げ捨てられた。