イングランドとスコットランドの国境よりやや南、グレート・ブリテン島を横断するかのように築かれたハドリアヌスの長壁については9月19日号でお届けしたばかり。
今号では、ハドリアヌスの長壁をはじめとし、400年近くにわたり、英国を支配したローマ人がグレート・ブリテン島に遺していったものを振り返ってみることにしたい。

●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部
【参考文献】『ローマはなぜ滅んだか』(弓削達著、講談社現代新書)/ 『Milestones』(Mervyn Benford著、Shire Library刊)/ 『概説イギリス史』(青山吉信・今井宏編、有斐閣選書)

大帝国を脅かした先住民

2世紀頃のローマ・ガレー船(モザイク画)=バルドー博物館(チュニジア)蔵。 © Giorces

西暦122年。

その日、グレート・ブリテン島南東部の沖合いには異様な光景が広がっていた。おびただしい数のガレー船が、同島への上陸をめざして一路、突き進んでいたのである。現在のように船舶の往来が一般的ではない遠い昔のこと、ただならぬ喧騒は周辺一帯の空気を恐ろしいほどに打ち震わせていた。

このガレー船団の中に、ひときわ目を引く一隻があった。多くの従者にかしずかれて中央に座していたのは、時のローマ皇帝、ハドリアヌス。強気の姿勢を貫き、ローマの版図を最大とした先代の皇帝トラヤヌスには子供がなく、その甥であるハドリアヌスが皇帝に抜擢されたのは117年のこと。若さゆえの未熟さもなく、かといって、老いによる弊害も見られぬ、41歳という年齢での即位だった。

堅実な性格だったとされるハドリアヌスは、トラヤヌスから引き継いだものをいかに維持するかに心を砕いた。こう記すと、「受身」であるような印象を与えがちだが、ハドリアヌスは気弱な君主ではなかった。守りの姿勢に対して、内部から強い抗議の声が起こった際、一部の反対派を処刑。必要であれば非情な強硬策も取るトップであることを示した。

トラヤヌス帝の時代に、ローマの領土は史上最大に達した。© Tataryn77

このハドリアヌスが、領土内の視察巡回先として上陸したグレート・ブリテン島は、紀元43年にローマの属州ブリタニアとなっていた。4万からなるローマ軍を率いて侵攻し、先住のブリトン人の複数部族で構成された連合軍を撃破した皇帝、クラウディウスの功績による。

しかし、ハドリアヌスが上陸を果たした122年になっても、グレート・ブリテン島が完全にローマの統治下に入った訳ではなかった。三十余りともいわれたケルト系の部族は反目しあうばかりで、力をあわせてローマ軍にあたるというような賢明な行動は取らず、属州の地位に甘んじていたものの、まだ北方の一部の部族は抵抗を続けていた。

上の写真:ともに、チェスターズ・ローマン・フォート博物館(ノーサンバランド)所蔵の品々。ラテン語が刻まれた墓石などもある。

ハドリアヌスが、北方部族の南下を防ぐべく、構築を命じたのが、今日「ハドリアヌスの長壁」と呼ばれる塁壁であることは、9月19日号でご紹介した通りだ。現在のカーライル近郊からニューカッスル近郊まで、約120キロの長さにわたって築かれた長壁は、幅およそ2・5メートル、場所によっては高さ6メートルに達した。

主要な部分には、1ローマン・マイル(現在の約0・9マイル)ごとに要塞(milecastle)を築き、ローマ軍兵士、あるいは欧州内の他地域から連れてこられ、グレート・ブリテン島に定住した傭兵たちが駐屯した。

ハドリアヌスの長壁の取材中、まず浮かんだ言葉は「整然」。ローマ人の合理的、組織的な防衛システムに感心せずにはいられなかった。さすが、一時は米国の約4分の3にあたる規模の面積の領土を有した超大国だけのことはある。しかし、それと同時に、ローマ人が「蛮族」と呼んだ先住民、つまりケルト系の人々のことを思った。ローマ人にそこまで恐れられたケルト系部族とは、いったいどのような人々だったのか。

こんなにある!ローマ人の大いなる遺産 A - Z

ローマ人が属州ブリタニアにもたらした技術や物品については枚挙にいとまがない。ローマ固有のもの、あるいはローマ人が発明したものばかりではないが、例えば新しい征服先に進んだ技術があれば、自分たちにあうよう調整したり、 さらに進化させたりするなどして貪欲に吸収。 それを属州などの占領先に伝えた。ローマの文化が広い地域に行き渡ることになったのは、世界制覇の野望のおかげといえるだろう。ここでは、ローマ人が当時の属州ブリタニアにもたらしたものを中心に取り上げてみることにする。※英国に遺跡が残っていない例もあり、その場合は国外の遺跡の写真を掲載しています。また、写真については一部イメージ画像も含みます。 ご了承ください。

A
  • aqueduct 水道橋

    都市の繁栄に水は欠かせない。上水道と下水道を分けたことは、衛生面で大きな意味があった。 写真は、スペインのタホ川にかかる水道橋。

  • arcades アーケード

    柱などで支えられた連続したアーチ

  • amphitheatre 円形劇場[闘技場]

    ローマのシンボル的象徴、コロッセオ。

  • abacus そろばん
B
  • bath 風呂

    イングランド南西にある、その名も「Bath」という町を例にとるまでもなく、ローマ人の風呂好きは有名。ハドリアヌスの長壁沿いにある要塞にも、浴場跡がしばしば見られる。グレート・ブリテン島の寒冷な気候の中、風呂がローマ人に与えた安息の時間はきわめて貴重だったと想像できる。

  • bridges
  • benefits for the poor 福祉手当
  • bricks れんが
  • board games ボードゲーム
C
  • calendar カレンダー

    現在、用いられているグレゴリオ暦は、ユリウス暦を改暦したもの。地球が太陽の周りを回る周期を基にして作られた、太陽暦の一種であるこのユリウス暦を制定したのがガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)。紀元前45年1月1日から実施された。

  • census 国勢調査
  • cat ネコ
D
  • diseases like Cholera,typhoid コレラや腸チフスなどの伝染病
E
  • emperor 皇帝

    広く名の知れた皇帝の代表格といえる、ガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)。

F
  • fort 要塞

    ハドリアヌスの長壁沿いにある、チェスターズ・ローマン・フォート遺跡

  • firemen 消防士
  • fruit リンゴ、ブドウ、ナシなどの果物
G
  • glass making ガラスの製造技術
H
  • hypocaust (古代ローマの)床下暖房

    ハドリアヌスの長壁沿いにある、チェスターズ・ローマン・フォート遺跡で見つかった、床下暖房の跡。

  • herbal teas, treatment ハーブ・ティー、トリートメント

カエサルをもうならせた勇猛果敢な人々

中央ヨーロッパ出身とされるケルト系の部族は、紀元前7~8世紀頃からグレート・ブリテン島に移り住むようになったと考えられている。古くは、「白い崖」が起源とされる、「アルビオン=白い国」と呼ばれていたこの島には、ケルト系ブリトン人が広く流入、紀元前4世紀ごろより「ブリタニア=ブリトン人の地」の名で言及されるようになっていた。

イングランドの語源は「アングル人の国」。アングロ・サクソン人がヨーロッパ中部からグレート・ブリテン島に押し寄せてきたのは、ローマ帝国が撤収してから100年以上を経た、5~6世紀のこと。つまり、ハドリアヌスの長壁が完成した頃には、イングランドの影も形もなかったことになる。ハドリアヌスの長壁が、イングランドとスコットランドの国境沿いにあると思っている人は誤り。

文字を持たなかったケルト系部族に関する史料として用いられる文献のひとつは、後に皇帝となったガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)がみずから著した『ガリア戦記』だ。ガリア地方(現フランス)に攻め込んだカエサルだったが、予想以上に苦戦。ガリアの抵抗勢力をケルト系部族が海の向こうから支援しているのではないかと疑ったカエサルは紀元前55年と54年の2度、ブリタニアへの遠征も敢行した。この遠征も含む、一連のガリア征伐について記されたのが『ガリア戦記』である。

この戦記をはじめ、その他の当時の著述家が書き残した史料では、共通してケルト系民族の勇敢さがつづられている。2頭立ての馬に引かせた戦車を巧みに操り、また、戦場で戦列が整うと、腕に自信のある者は前に進み出て、敵陣の中で最も勇敢な者に一騎打ちを挑んだ。この際、一戦を交える前に先祖の武勲や自分の強さを大声で唱え、討ち取った相手の首は切り取って自分の馬の首につりさげるなどしたという。

さて、前述のように、北部を除くグレート・ブリテン島は43年にローマの属州となったが、何度か反乱が勃発した。ケルト系部族の勇猛ぶりを示す戦いとして名高いのは、現在のノーフォーク一帯を拠点としていたイケニ族の王、プラスタグスの死後にその未亡人、ブーディカが起こした反乱である。

ハドリアヌスの長壁沿いにある要塞跡のひとつ、Housesteads(ハウステッズ)の航空写真。© English Heritage

優れた指揮官であり指導者であったプラスタグスの存命中は、ローマと同盟を結び独立を保っていたものの、同王が死去すると、領土や財産は没収され、住民には重税が課せられるようになり、貴族は奴隷のような扱いを受けた。さらにブーディカはむちで打たれ、2人の娘には性的暴行が加えられたと伝えられている。

復讐に燃えるブーディカは、属州ブリタニアの総督が現在の北ウェールズに遠征しているすきをつき、60年頃、イケニ族、近隣の部族を率いて決起。ロンディニウム(現ロンドン)などの都市を焼き尽くし、7~8万人を惨殺したともいわれる。やがて、北ウェールズから引き返してきたローマの主力軍と激突、反乱軍は敗れ、ブーディカは毒をあおって自決(別の説では病死)、この蜂起は鎮圧されたのだった。

410年に西ローマ帝国の皇帝ホノリウスがついにブリタニアの放棄を宣言するまでローマによる支配は続いたが、この反乱の後、属州ブリタニアへの締め付けはやや緩められたとされている。

I
  • ironmongery for weapons + tools鉄製の武器や工具を作る技術
J
  • jars for storage (pottery) 陶製ジャー
K
  • kilns for pottery 焼物用かま、炉

    一時はローマの支配下にあった、リビアで発掘されたかまの跡。

L
  • latin ラテン語

    ローマのコロッセオで見つかった、ラテン語の刻まれた石板。

  • laws 法律
  • lyre リラ、たて琴
M
  • milestone マイル標石、千里塚

    ローマから文字通り四方八方へと建設された道路には、ローマン・マイル(約0.9マイル)を用いたマイルストーンが道路標識がわりに置かれた。ちなみに、マイルは「mil(千)」からきており、兵士の2歩ワンセットを「ステップ」として、1000ステップ=1ローマン・マイルと定められた。

  • mosaic モザイク、寄せ木細工

    各地のローマ遺跡で見つかるモザイク画。写真は、バースで発見されたもの。

  • mortar モルタル、しっくい
  • make-up 化粧
N
  • nettles イラクサ

    イラクサ属の総称、全体にとげがある

O
  • olive oil オリーブ・オイル
P
  • Plebs 平民

    保守党議員でキャメロン首相の側近のひとりであるアンドリュー・ミッチェル氏が、ダウニング街から自転車で帰ろうとした際、車両用の門を開けるよう要求したものの警護の警察官に拒否されて立腹。「この平民め(Pleb!)」と悪態をついたとして大問題になり、ミッチェル氏は、下院院内幹事長という役職からの辞任に追い込まれた。この騒動は「Plebgate」と呼ばれるに至るが、「平民」という言葉を初めて耳にした庶民も少なくなかったのでは!?

  • pavements 舗装道路
  • public libraries 図書館
  • policemen 警察官

400年にわたる搾取と恩恵の日々

強大な軍事力にものをいわせて勢力を拡大していったローマ帝国の支配下に入るにあたって、被征服者には、次のような選択肢が与えられた。

●ローマ軍が駐屯し属州となる。この際、重税が課せられるのが常だった。
●ローマに一定の金額を支払うかわりに、ローマ軍の駐屯は断り、ある程度の自治を認めてもらう。

いずれにせよ、被征服者たちは、『平和』を金で買うことになり、ローマに莫大な金が流れ込む仕組みになっていた。ここでもローマ人の並みはずれた組織力が発揮されたといえる。ローマの国家としての財源は、賠償金、戦利金、捕虜売却金、鉱山収入、属州からの納税金などであり、このうち、属州への搾取は厳しいことで知られ、ローマ人は「世界の強盗」と揶揄されることさえあった。

23万を数えたという反乱軍を率い、情け容赦のない戦いを繰り広げたブーディカ(BoudicaまたはBoadicea=ボーディカ、ボアディシアなどの呼び方もあり)。ウェストミンスター橋のそばには、娘2人を後ろに乗せ、2頭立ての戦車をみずから駆るブーディカの像が建てられている。長身で、赤毛の髪は腰まであったという。

また、横領、わいろ、大土地所有といった収入源により、ローマ本国の一部の政治家たちに巨額の富が集中。中でも、皇帝の財産は天文学的であったにもかかわらず、欲は尽きることがなく、例えば処刑された者の財産は没収されて皇帝のものになったことから、故意に処刑を行う悪徳皇帝も出現したほどだった。

一方、ひとくちにローマ人といっても、貧しいものは貧しく、貧富の差は開くばかり。さらに、ひとまとめに「蛮族」とくくられた非ローマ人は重税や不条理な要求に苦しめられ、ローマへの不満を募らせていく。

このような いびつ な状態が永遠に続くはずはなかった。

上の写真(ともにイタリアのポンペイの遺跡にて撮影): 「すべての道はローマに通ず」の言葉どおり、ローマ人は道路建設になみなみならぬ情熱を注いだ。町の中も、碁盤の目のように美しく道路が走るよう設計されるケースが少なくなかった。

ローマ失速の最大の原因となったのは、ゲルマン系民族の台頭とされている。あまりに領土が拡大した結果、傭兵としてだけでなく、占領先の事務的な運営面でも、有能なゲルマン系の力を借りざるを得なくなり、「軒を貸して母屋をとられる」状態に陥ったのだった。

弓削達氏の著書『ローマはなぜ滅んだか』によると、『中心』であったはずのローマが中心でなくなり、『周辺』だったはずの、ローマ以外の地域が栄え始め、それらはやがて新たな時代の『中心』へと発展するに至ったのだという。

本稿で、「ローマ」と呼んできた大国が、歴史の表舞台で、主役の座をおりることになるのは4世紀のことである。395年に東西に分裂。西ローマ帝国は476年に、東ローマ帝国は1453年にそれぞれ滅亡した。これ以降、ローマはイタリアの首都におさまるのが関の山、かつてのような影響力をもって歴史にかかわることはなくなったのだが、簡単に「影響力はなくなった」と言い切ってよいのだろうか。

ここで、ブリタニアに話を戻したい。

ローマ本国の弱体化により、属州でなくなったのは既述の通り410年。属州として搾取され続けた400年は、グレート・ブリテン島に住む人々にとって幸せな日々だったとは、間違っても言えないだろう。

しかし振り返ってみると、その400年のあいだに、ローマからもたらされたものの多さには目をみはるものがある。

主な例については、本誌12・13ページをご覧いただくことにしたいが、建築・土木技術、果物や野菜といった農作物から、公衆浴場や公衆トイレなどの生活習慣にかかわる施設、給与や税金をはじめとする社会の基盤となる仕組みまで、驚くほど多岐にわたる。

ローマが搾取と引き換えに与えた『平和』には、こうした進んだ文化が付随していたのだ。被征服者となることを望んだグレート・ブリトン島ではなかったが、得たものも大きかったのは、征服者がローマだったからと考えて良いのではなかろうか。もっとも、12・13ページでご紹介したものは、今日でも用いられ続けているものばかりではなく、また、たとえ用いられ続けていても、ローマからもたらされたものだと意識することは皆無に近いかもしれない。

「一日にしてならず」といわれたローマの力は、一日にして消え去らず、大いなる遺産としてこれからも引き継がれていくのだろう。

プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス・アウグウストゥス

Publius Aelius Trajanus Hadrianus Augustus
第14代ローマ皇帝(在117~ 138年)
76年1月24日~138年7月10日

© AF 70

25歳の時にトラヤヌスの秘書となったほか、114年に始まったパルティア戦争(パルティアはイラン高原東北部を拠点に栄えた王国)では参謀司令官として活躍するなど、事務的にも軍事的にも優れていることが認められ、トラヤヌスの養子となり、後継者として皇帝の座についた。

現実的な考え方の持ち主で、維持費が膨大である属州メソポタミア、アルメニアは放棄。また、官僚制度を確立し、行政・法制度を整え、領土内の統治の安定化に大きく貢献した。その一方、同性愛志向であることを隠そうとしなかったり、ローマ 帝国史上、初めてひげをのばした皇帝といわれたりするなど、ただの地味な実務家ではなかったことを示すエピソードを複 数残している。

Q
  • (stone)Quarrying 採石、石切り

    エジプト東部に残る、ローマ時代の石切り場跡。

R
  • roads
  • religion+festivals 宗教祭
  • races 競走
  • salary 給料

    古代ローマで兵士に塩を買うための金を与えたことから、ラテン語で「salt」(塩)を意味する言葉が「給料」の語源となった。

  • sewage system 下水道
  • sculptures 彫像
T
  • toilets トイレ

    ローマ時代、兵士たちのトイレは個室式ではなく、部屋にずらりと「簡易便座」が並んでいた。その下には下水道が通してあり、汚物はまとめて定められた場所へと流れていくようになっていた。写真は、ハドリアヌスの長壁沿いのバードズウォルドのビジター・センターに展示されている模型。

  • tax 税金

    これもローマ人か!余計なことを、と言いたくもなる。

  • turnips ターニップ
  • towns
V
  • vino ワイン
  • vegetables ニンジン、キャベツ、ネギなどの野菜。
W
  • wall

    石を積み上げて造ったハドリアヌスの長壁=写真上=に対し、アントニヌスの長壁=写真下=は土塁だった。

  • weights and measures 重りと秤
  • woollen cloth 毛織物
  • wall paintings 壁画
おまけ
  • Caesar salad シーザー・サラダ

    1924年、米国との国境に近いメキシコの町・ティフアナ (Tijuana) のレストラン、「シーザーズ・プレイス」(Caesar's Place)のオーナーが作ったのが始まり。このオーナーはイタリア系移民で、名をシーザー(チェザーレ)・カルディーニ(Caesar Cardini)といった。ロメインレタスの上にガーリック、塩・コショウ、レモン汁、オリーブオイルからなるシーザードレッシングをかけたものがオリジナルとされる。ローマ帝国のガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)とは関係ナシ!

  • Caesarian 帝王切開

    ガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)が、この開腹手術によって生まれたと言い伝えられる。 しかし、もともとの語源となったラテン語の「sectio caesarea」という言葉に含まれる「caesarea」は 本来「切る」と言う意味の単語。ただ、「sectio」にも「切る」という意味があることから、同じ意味を持つ単語が重複することになり、 翻訳時に「caesarea」を「カエサルの」と『誤解』したという説もある。

週刊ジャーニー No.799(2013年10月3日)掲載