2013年3月7日 No.769

●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

 

女性パイロットの草分け

華麗なる「空飛ぶ公爵夫人」


参考資料:Reproduced by kind permission of His Grace the Duke of Bedford
and the Trustees of the Bedford Estates 
© His Grace the Duke of Bedford and the Trustees of the Bedford Estates.

 

階級制度が厳然と存在するとともに
女性の社会進出などまだ遠い先のことだった
20世紀初頭。
病院を開設し負傷兵の看護にあたる一方、
女流パイロットとして空へと飛び立った
1人の貴婦人がいた。
今回は、その稀有な女性、
第9代ベッドフォード公夫人
メアリー・ラッセルをご紹介しよう。


 

 

公爵家からの捜索願い

 

 「洪水の程度が気になるので、ちょっと見てくるわね」
まるですぐ裏の農地を見にいくかのような気安さで、メアリー・ラッセルは執事にそう告げると屋敷を後にした。イングランド東部、ノーフォークの海岸沿いや沼地が受けた水害の被害状況を空から視察するのが目的だ。
厚手のフライト・ジャケットに身を包んだメアリーは、一見、社交界と縁があるように見えなかったかもしれないが、れっきとした貴婦人だった。しかも、名門、ベッドフォード公爵家の第11代当主の夫人で、「フライング・ダッチェス」の異名をとっていた。
遠くインドや、南アフリカのケープタウンへの飛行に成功したこともある、当時としては広く知られたパイロットだっただけに、ベッドフォードシャーの自邸近くにある空港からノーフォークまで飛ぶことを、メアリー本人はもちろん、家人や使用人の誰も大仕事とは思っていなかったであろう。だが、メアリーが屋敷を出た際には比較的安定していた天候が、1時間もたつと、季節外れの吹雪になった。
やがて夕闇があたりを包む時刻になったが、メアリーが戻る気配はなかった。あと5分、いや、あと10分もすれば…と、妻メアリーの帰りを辛抱強く待っていたベッドフォード公ハーブランド・ラッセルながら、たまりかねて、ベッドフォードシャーの警察に連絡を入れさせた。
1937年3月22日のことである。

 

立身出世のきめては語学

 



初代ベッドフォード伯爵となったジョン・ラッセル(John Russell, 1st Earl of Bedford、1485頃~1554または1555)。その風貌も、国王からの信頼を得るのに役立ったという。

 気になるメアリーの安否についてはひとまず置いて、メアリーが「フライング・ダッチェス」と呼ばれるようになるまでをたどってみたい。
近頃の英国では「ダッチェス」といえば、ケイトこと、キャサリン・ミドルトンさん、つまりダッチェス・オブ・ケンブリッジが人気だが、このキャサリン妃でお馴染みの「ダッチェス」が、公爵夫人を意味することは改めて説明するまでもないだろう。余談ながら、ケンブリッジ公爵位は、若年の王族に与えられる慣わし。結婚に伴いウィリアム王子に叙爵されたため、キャサリン妃も自動的にケンブリッジ公夫人となった。
さて、今号で取り上げるメアリーは、ダッチェス・オブ・ベッドフォード、ベッドフォード公夫人である。
「ベッドフォード」は爵位につけられる地名で、実際の苗字はラッセルという。このラッセル家が爵位を得たのは、ジョン・ラッセルの代、約460年も昔のことだ。
現在のところ、ラッセル家の歴史をさかのぼって確認できる最古の人物は、スティーブン・ラッセルという。1394年に、ドーセットのウェイマス(Weymouth)代表として英国議会に参加したことがわかっており、ジョンは、スティーブンから見ると、孫の子どものそのまた子ども、すなわち玄孫にあたる。ラッセル家が旧家のひとつであったことは間違いない。
そんなラッセル家から、ついに大出世をとげる人物が現れる。それがジョン・ラッセルであった。
ラッセル家はもともと商家で、フランス・ワインの輸入業などで財をなしたとされている。職業柄、外国語の習得が必要とされたのは当然で、ジョンも語学が得意だったようだ。1506年に、カスティーリャ=アラゴン王国(現スペインの一部)の国王夫妻が乗った船が悪天候のため、ウェイマス沖で難破。ウェイマスに避難するしかなかった同国王夫妻がイングランド王ヘンリー7世を表敬訪問することになり、取り急ぎ通訳として呼ばれたのがジョンだった。
これがきっかけで、ジョンはヘンリー7世に仕えるようになる。カスティーリャ=アラゴン国王夫妻には災難をもたらした嵐だったが、ジョンには夢のような幸運をもたらしたのである。強運に守られて宮廷にあがったジョンは、語学だけでなく、処世術にも大いに長けていたらしく、ヘンリー8世の代になると政治的な任務を遂行するまでにとりたてられ、順調に出世街道を歩む。
ヘンリー8世が亡くなったのと同じ1547年に、ヘンリー8世の嫡男、エドワード6世によってジョンにウォーバン・アビーが与えられた。
ウォーバン・アビーはベッドフォードにある大きな屋敷。アビーの名が示す通り、大修道院だった。
世継ぎを切望するあまり離婚と再婚を敢行、それを正当化するためにローマ・カトリック教会から決別し、英国国教会をひらいたヘンリー8世は、英国内の修道院(すべてカトリック系)を解体。ウォーバン・アビーの院長ロバート・ホブスも、ヘンリー8世により反逆罪に問われるとともに、土地ごと没収されるに至っていた。その際、ホブスが吊るされたオークの木が、まだアビーの庭にそのまま残るという言い伝えもある。
ジョンを寵愛したヘンリー8世の遺言に基づき、1550年、エドワード6世はジョンをベッドフォード伯爵に叙した。
それが現在の公爵位に格上げされたのは1694年、第5代伯爵ウィリアム・ラッセルの代の時である。
ライハウス陰謀事件と呼ばれる事件に巻き込まれ、反逆罪の汚名のもとに処刑されたウィリアムの息子について、冤罪によるものだったことが判明、いわば罪滅ぼしのための措置だった。
父親と同じウィリアムという名前だったこの息子は、当時ホイッグ党の党首だった。そのウィリアムが、1683年、国王暗殺計画に加担したとして処刑されていた。それが、濡れ衣であったことが立証されたのである。
このウィリアムの命と引き換えに、その後、ラッセル家はウォーバン・アビーで公爵として暮らすこととなった。冒頭でメアリーが出立した屋敷というのも、そのウォーバン・アビーである。

 

アフタヌーン・ティーが『発明』されたのも、
ウォーバン・アビー

第7代ベッドフォード公夫人アナ・マリア(Anna Maria Russell, Duchess of Bedford、1788~1861) Reproduced by kind permission of His Grace the Duke of Bedford and the Trustees of the Bedford Estates ゥ His Grace the Duke of Bedford and the Trustees of the Bedford Estates.

ラッセル家の名を高めた公爵夫人は、メアリーだけではなかった。メアリーからさかのぼること4代、第7代ベッドフォード公爵夫人アナ・マリアは、あのアフタヌーン・ティーの『発明者』として知られる。
当時の食事は日に2食。晩餐が午後8時、9時になることもあり、朝食と晩餐の間が大きく開いてしまうのは珍しいことではなかった。空腹に耐えかねたアナ・マリアは、その間に軽食をとることを思いついた。1800年代中頃のことである。
社交的だったアナ・マリアは、お茶と軽めのサンドイッチや菓子を用意して、貴族のご婦人方を招き、社交の場とするという一石二鳥というべき手を考えた。それがアフタヌーン・ティーの始まりだ。
アフタヌーン・ティーは上流社会で大流行、そしてホテルやカフェ、レストランでも取り入れられるまでになった。ウォーバン・アビー生まれの習慣が、その時々のテイストを反映しつつ、現代に続いているというわけだ。ウォーバン・アビーのティー・ルームを訪れるなら、ぜひ、アフタヌーン・ティー=写真下=を楽しんでいただきたい。