民主主義の礎、マグナ・カルタ

 

   マグナ・カルタは内戦を避けるための手段としては失敗策に終わったが、ジョンの死により、皮肉なことに破棄を免れて後世に続くことになった。
   諸侯がジョンに書名を迫ったこのマグナ・カルタとは一体どのようなものであるのか。
   マグナ・カルタ(Magna Cartaまたは、Magna Carta Libertatum)は「大憲章」のラテン語名で、英語では「Great Charter of the Liberties of England」と呼ばれる。ジョンが署名したものはラテン語で、その後フランス語に翻訳された。初めての英訳版が登場したのは16世紀のことである。
   マグナ・カルタは63ヵ条の条文から成る。主な内容は、国王の徴税権の制限、教会の自由、都市の自由などで、イングランドの封建法を成文化し、王権の制限や諸侯の既得権と市民の自由を規定している。王といえども法の下にあり、その権限を制限されることが明文化されたという意味できわめて重要とされている。
   マグナ・カルタは、ジョンの死後、息子であるヘンリー3世の治世中の1216年と1217年に修正版が再公布され、  1225年に3度目の公布により初めて文書が確定されて法になった。
   その後も歴史のなかでしばしば復活している。17世紀のピューリタン革命では、絶対王政の専制に対し、人権を守る「武器」として用いられた。
   19世紀には近代民主主義の原点として再評価されるようにもなった。アメリカ独立の際には、独立の理論的支柱のひとつにもなっている。1776年の独立宣言には「われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る」という文書が起草されるなど、マグナ・カルタの精神は米国にも引き継がれている。

 


今も草が生い茂るだけのラニーミード。
約800年前に『大事件』の舞台となったとは信じがたいほどの、のどけさだ。

 

   このようにマグナ・カルタは、現代の「法の支配」の原型にもなっており、それゆえ、民主主義の礎として歴史の教科書にも登場するわけだ。
   写本された修正版は数多く存在しているものの、現存するマグナ・カルタの『原本』は4部のみで、大英図書館(2部)、ソールズベリー大聖堂、リンカン大聖堂に保存されている。
   大陸の領地を失い、度重なる失政続きで、イングランド史上最悪の王として、『欠地王』『失地王』というあだ名をつけられたジョン。エドワードやウィリアムという名前をもつ国王が何人もいるのに対し、ジョンという名前を名乗る王は、英王室史の中ではジョン王以降二度と現れなかったことからも、人気のなさがうかがわれる。
   しかし、ジョンは本当に無能な王だったのだろうか。
   父ヘンリー2世や兄リチャード1世との確執をふり返ると、あんなに愛されていた父親を裏切って兄に寝返ったり、そうかと思うとその兄を蹴落として王位を狙ったりと、したたかで変わり身の早い性分だったことが分かる。そのときの状況に応じて自分の立ち位置をするすると変えるなど、周囲の状況を判断する能力には長けていた模様である。一方で、実は内政の手腕はなかなかのものであり、イングランド国内の司法の改革に貢献したという歴史専門家の評価もある。
   ともあれ、ジョンが諸侯の反乱をかわし自分の王位を守るためにマグナ・カルタに署名したことにより、英王室はフランス王室のように断絶して王政廃止になる憂き目を見ずに済み、結果的にはその後の民主主義の発展に貢献することになった。暴君の圧制のなかから民主主義が生まれる――各国で見られた歴史の流れが、ここイングランドの歴史にも確かに見られるのだ。
   7月下旬の日曜日に取材班が訪れたラニーミードは、静かで穏やかな場所だった。
   草原の上では家族連れがピクニックを楽しみ、手をつないだカップルがゆっくりと散策する。800年近くも前、ここで王と諸侯が集まり、緊迫した空気が流れていたことなど嘘のように平和な光景だ。1215年6月15日、この地で歴史が動いた。ジョンがその日のことを、屈辱ととらえていたのか、あるいは危機回避に成功した日と見ていたのか。ラニーミードの草に問いかけても答えはない。
   夏の日の光の中、さわやかな風に吹かれて、草はさわさわという音を立てるばかりだった。

 

 


ラニーミードへの入り口を示す標識。『民主主義、誕生の地』と記してある。