自業自得で招いた廃位の危機

 

   フランス北西部で失った領地を回復するため、ジョンは再びフランスへの遠征計画をたてるが、イングランド内の諸侯のあいだには強い不満がみなぎっており、多大な犠牲を要求するジョンに非協力的な態度を示した。
   これまでのイングランドの封建社会といえば、諸侯は王に対して軍務と奉仕活動を提供、王はその代わりに諸侯の保護を約束し世襲の領地を与える仕組みになっており、王は増税を行う際や、大規模な軍務が必要な場合には諸侯と話し合うことが通例だった。しかし、ジョンは強行手段をとり、これまでの慣習を破ったのである。
   ジョンとイングランド諸侯の対立は、一触即発の状態へと日々近づいていた。
   ローマ教皇の後ろ盾を得て、諸侯の反対を抑えたジョンは、1214年にフランスと対立する神聖ローマ皇帝オットー4世らと共にフランスの北と南から攻撃を行い、一時はポワチエ、アンジューを奪回したものの、フランドルのブーヴィーヌの戦いで惨敗。結局、ジョンは占領地すべてを捨てて撤退するはめになった。
   敗戦の末フランスからイングランドに逃げ帰ったジョンは、不満で爆発寸前の諸侯や民衆に迎えられた。ここでジョンは致命的な判断ミスをおかす。
   力で抑えこもうとしたのである。
   ジョンに対し、王の失政を批判する諸侯はジョン王の廃位を求めて結託。諸侯たちは同年1月から6月の間に行われた交渉で、王の権限を制限する文書の同意を王に迫った。もちろん、歴代のイングランド王に対しても貴族たちの反乱は度々起こった。しかし、これまでのケースでは、諸侯たちが王位継承権のある対立候補を打ち立て、現王を打ち倒すというパターンだった。ジョンの場合、そのような明らかな対立候補がいなかったため、諸侯たちは対立候補を立てることができず、王に対して武力で『猛省』を促すしかなかったようだ。
   諸侯はフランス王太子ルイとスコットランドのアレキサンダー2世の支援を得て、団結して挙兵、1215年6月10日に首都ロンドンを制圧した。
   崖っぷちに立たされたジョンは、打開策として諸侯が提案した文書に承諾を与えるという要求を呑むことを決意。カンタベリー大司教のラングトンに、諸侯との平和交渉の段取りを行うよう命じた。こうして、1215年6月15日、ロンドン西部にあるテムズ河畔のラニーミードにジョン王と諸侯が集まったわけである。

 

 


ウスター大聖堂に設えられた、ジョン王の墓碑。

 

 

 

王と25諸侯の綱引き

 

   舞台は冒頭のシーンに戻る。気がめいるような灰色の雲の下、集まったのはイングランド国王ジョンと25の諸侯。果てしなく広がる草原のほかは何もないだだっ広い空間のなか、双方の話し合いは行われた。
   伝えられるところによると、ジョン王はウィンザー城に滞在、諸侯はステインズで野営しており、ジョンがステインズまで行くのを拒んだため、ウィンザーとステインズの中間地点にあるラニーミードが、直接交渉の場に選ばれたという。また、建物のなかや、障害物が多い町のなかでは、刺客や罠が仕掛けられる恐れがある。お互いのため、見渡しがよい屋外が選ばれた。王や諸侯が使う馬のエサになる草が豊富にあったことも決め手だったとされている。
   話し合いはテムズ河に隣接する草原で3日にわたって続いた。接見の正確な場所がどこであったのかはわかっていない。
   おそらく、ジョンはこれまでのこと、現在の自分の立ち位置、そして将来の展望など、さまざまなことを熟考したであろう。そしてその結果、内戦にもつれこむより、ここはひとつ、諸侯の要求を呑み、マグナ・カルタに署名をした方が得策という結論に達したのだ。その場凌ぎの一時的な対策として考えていたのかもしれないが、とにもかくにも、ジョンは諸侯の言い分を受け入れることを約束させられ、マグナ・カルタに国璽が押された。
   ラニーミードの会合は6月23日に終了、翌日もしくはその数日後に7通のマグナ・カルタ原本が作成され、7月22日にオックスフォードでさらに6通が作成された。
   しかし、ここで大人しく引き下がらないのがジョンだ。マグナ・カルタの署名後、即座にローマ教皇にはたらきかけ、マグナ・カルタの無効化を目論む。悪知恵が働く、往生際が悪い、と批判的な見方が大勢を占めるが、ジョンには、人間としてのしたたかさ、たくましいふてぶてしさが感じられる。
   暴力で脅されて無理やり署名させられたというジョンの言い分を認め、ローマ教皇がマグナ・カルタ破棄を宣言したことを受け、諸侯は再び反乱を試み、ジョンもそれを迎えうち、ついにイングランドは内乱に突入した。これが第1次バロン戦争である。フランス王家を介入させると、イングランドにつけいる隙を与えることになってしまうが、諸侯はやむなく、王の対立候補としてフランス王太子のルイを担ぎ上げる。ルイと反乱軍はロンドンを占拠、ジョンはじりじりとイングランド北部に撤退を余儀なくされる。
   しかしその争いの最中、ジョンがノッティンガムシャーのニューワーク城であっけなく病没してしまう。ジョンの死により、諸侯がジョンの息子ヘンリーを支持したため、結局ルイは撤退。王位は9歳のヘンリー3世(在位1216~1272年)が継承することになった。
   ジョンが息を引き取ったのは、マグナ・カルタの署名からわずか1年後の1216年10月18日のことだった。