ライバルは、できのいい兄

 

   1189年にヘンリー2世が失意のうちに病死すると、三男リチャードがイングランド王に即位する。リチャードは、母親のアリエノールから最もかわいがられており、一気に広大な所領に君臨する統治者となる。対照的に、ジョンとアリエノールは疎遠だったといわれ、これがジョンとリチャードの間の微妙な空気を、徐々に修復しがたい対立へと変えていくことになる。
   父親に溺愛されたジョンと母親に愛されたリチャード。二人の関係をさらに踏み込んで見てみよう。
   リチャード1世として即位した兄リチャードは、勇敢で好戦的な国王だった。即位するや否や、第3回十字軍遠征に参加。遠征にはフィリップ2世も共に参加していたが、リチャードがフィリップ2世の異母姉との婚約を取り消し、ナバラ王サンチョ6世の娘と結婚したことで、リチャードとフィリップ2世は対立するようになり、十字軍遠征中も別行動を取る。
   その間、ジョンはといえば、リチャードが遠征で不在であるのをいいことに、イングランドの内政に関与。イングランド王の座を虎視眈々と狙っていた。ジョンはリチャードから、ノッティンガムを含むイングランド内の領地をもらっており、領地内で圧制を敷いたことは「ロビン・フッド」の中で書かれている通りだ。
   リチャードがエルサレムから戻る途中で、対立していたオーストリア公レオポルド5世に捕らえられ幽閉されると、ジョンはすかさず、遠征からフランスに帰国したフィリップ2世と組んで、リチャードが死亡したとして、王位を奪おうと画策する。諸侯からの同意が得られず、この企みは失敗に終わり、リチャードのほうも身代金の支払いにより解放され、無事イングランドに帰還。結果的に、ジョンの野望は打ち砕かれたが、彼がただの愚か者ではなく、「こざかしい」程度であったかもしれないが、自身の策を持ち、好機と見込めば実行力を発揮する男であることを示した。
   リチャードはその後、イングランドの統治をカンタベリー大司教のヒューバート・ウォルターに任せ、今度はフランスでフィリップ2世との戦いを始めた。
   しかし1199年に戦争中の負傷がもとで、わずか41歳にして没する。
   リチャード1世は在位期間の10年あまりで、イングランドに滞在したのはわずか半年と、政治的な業績は皆無に近い。また、英語も満足に話せなかったといわれる。しかし、十字軍に遠征した最初のイングランド王として英雄扱いされ、「中世騎士道の華」「勇敢な獅子王」として今も讃えられている。歴史に「もしも」はないが、もしリチャード1世がもう少し長く存命し、イングランド内の政治に積極的に関わっていたら、イングランドとジョンの運命も大きく変わっていたかもしれない。

 


ウェストミンスター寺院で行われた、リチャード『獅子心王(Richard  the
Lionheart)』の戴冠式の模様(13世紀の絵画)。

 

 

遂に玉座に座った強運の男

 

   こうして、ジョンにイングランド王になるチャンスがまわってきた。リチャードには子供がおらず、後継者としてはジョンと、ジョンの兄であるジェフリーの遺児アルテュールがいた。フランスで育っていたアルテュールがフィリップ2世に臣従したこと、アルテュールがまだ12歳だったことから、リチャード自身、晩年にはジョンを後継者として考えていたとされる。リチャードとジョンのあいだに確執はあったが、他の選択肢より、問題は少ないと考えたようだ。王座につくには、血筋に加え、何より「運」が必要。ジョンは、この意味では強運(悪運というべきかもしれない)の持ち主だったと見なせるだろう。
   リチャードが亡くなると、甥のアルテュールは王位を主張したものの、イングランドとノルマンディの諸侯たち、そして母アリエノールもジョンの即位を認めたため、1199年、ジョンは ノルマンディからイングランドに入り、晴れて戴冠式を行った。
   こうして「棚から牡丹餅」式にイングランド王になったジョン(在位1199~1216年)だが、国王になってからがジョンの試練の始まりだった。イングランドとフランス間の争い、諸侯の反乱と、さまざまな問題がジョンを待ち受けていたのである。
   アルテュールが争いで幽閉された後に行方不明になり(ジョン支持派に暗殺されたという説が有力)、一旦は敵無しになったのも束の間、ジョンはアルテュールの後見人を自認するフィリップ2世との全面戦争に突入。その結果、1214年までにアキテーヌのみを残し、ノルマンディ、アンジュー、メーヌ、トゥレーヌ、ポワチエの領地を失なうことになる。これらのアンジュー家の領地はすべてフランス王領となり、「John Lackland」は、『欠地王』から『失地王』へとなってしまったのである。
   同時に、カンタベリー大司教の選任をめぐり、ローマ教皇インノケンティウス3世と対立。1205年にカンタベリー大司教ヒューバート・ウォルターが亡くなると、教皇はジョンが選んだ候補を拒否し、枢機卿のスティーヴ・ラングトンをカンタベリー大司教に任命。この決断に怒ったジョンは、ローマ教皇を支持する司教たちを追放し教会領を没収した。それに対してローマ教皇は1209年にジョンの破門を宣告した。
   インノケンティウス3世との報復合戦は、ジョンの不人気を決定づけた。
   ジョンに不満を抱くイングランド諸侯が反乱を計画していることが発覚。内乱で勝利する自信がなかったと見られるジョンは、1213年、全面的に譲歩して、イングランドをローマ教皇に『寄進』することで破門を免れた。
没収した教会領で収入増加をはかる計画が頓挫したことから、大陸領土の喪失による収入減を別の方法でカバーせざるを得なくなったジョンは、さらなるピンチを自分で招く。
   厳しい増税を諸侯に申し渡すしかなく、イングランド国民は重税に苦しむことになった。しかも、大陸領土奪還を目指し軍事力を強化するため、国民すべてに軍役を課すことになり、全諸侯、民衆を敵にまわす事態となった。ただし、この重税の一部には、先代王のリチャード1世による十字軍遠征の資金や身代金支払いのための借金に対する返済分も含まれていたため、身内のツケをジョンが払うはめになったという裏事情もあり、情状酌量の余地もなくはない。とはいえ、そのような事情を諸侯や民衆が考慮してくれるはずもなかった。

 

 

マグナ・カルタの原本のひとつ。記録紙として用いられた羊皮紙は当時きわめて高価だったため、

『清書』の際は、細かい字でぎっしりと書かれた。また、略語も多いという。