クリスマスイブに生まれた末っ子

 

   1166年12月24日、ジョンはイングランド王ヘンリー2世(在位1154~89年)とアリエノール・ダキテールの8番目の子供として生まれた。上にはウィリアム、ヘンリー、リチャード、ジェフリー、という4人の兄と、マチルダ、エレノア、ジョーンの3人の姉がおり、ジョンは五男にして末子だった。ジョンが王位を継ぐ可能性が低かったことはいうまでもなく、まともに土地を分け与えてもらおうと期待してもムダだった。 
   アンジュー朝(またはプランタジネット朝)の初代イングランド王でもあったヘンリー2世は、英王位につく前に、すでに父親のアンジュー伯ジョフロワ4世からノルマンディとメーヌを継承しており、そのうえ、アキテーヌ公の女相続人、アリエノールと結婚したことで、アキテーヌ公領も手に入れた。
1154年にイングランド王として即位し、イングランドの領土も継承。こうして、ピレネー、南フランス、イングランドにまたがる広大な領地を有するようになったアンジュー家によるプランタジネット朝が始まった。一方で、ヘンリー2世はイングランド王でありながら、同時にフランス国内ではフランス王の家臣という複雑な関係にあり、このことがイングランドとフランスの間で起こる度重なる紛争の原因にもなっていた。
   1169年、ヘンリー2世は大陸にあった所領を3人の息子に分割した。
   長男のウィリアムは早世したため、14歳になる次男の若ヘンリーには後継者としてアンジューとメーヌ、12歳のリチャードにはアキテーヌ、そして11歳のジェフリーにブルターニュを分配。しかし、このときまだ2歳だったジョンには与えられる土地がなかった。このため、ヘンリー2世はジョンを冗談交じりに「領地のないジョン(John Lackland)」と呼んだと伝えられる。後にジョン王が『欠地王』と呼ばれるようになった所以はここにある。
   当時の王家では、生まれてすぐ母親から離され乳母に育てられるのが慣習。ジョンも幼少時には母親との接触は少なかった。そのかわり、ヘンリーは末子のジョンをかわいがり、溺愛したという。王妃アリエノールと不仲になったため、ジョンが母親の愛情を受ける機会がことさら少なかったことをヘンリーが不憫に思ったのが理由とも、ジョンに土地を与えることができなかったことから、ジョンを憐れんだためともいわれる。
   しかし、その溺愛が、父子兄弟間で繰り広げられることになる骨肉の争いの火種になろうとは、ヘンリー2世も、ましてや幼いジョンも夢想だにしていなかった。
   1170年に若ヘンリーは、共同王として父と共に統治するようになるが、実権はなかったため父親に対して不満をつのらせる。一方、1173年、ヘンリー2世はアイルランド征服後、10歳になったジョンをアイルランド卿に任命、アイルランドと大陸のシノン、ルーダン、ミルボーの城3つを最愛のジョンに与えようとしたため、若ヘンリーの不満が爆発。母親のアリエノールや弟リチャード、ジェフリーと組んで父ヘンリーへの反乱を起こす。日本の戦国時代を例に挙げるまでもなく、親や兄弟の間で、領地をめぐって武力衝突が起こることはめずらしくなかったのだ。
   また、アリエノールは、夫に対して反旗を翻したことになるが、アキテーヌ公の女相続人として、その頃のヨーロッパでは屈指の『土地持ち』であり、財力に裏打ちされた、高いプライドの持ち主でもあった。不仲の夫、ヘンリー相手に戦うことなど恐くもなかったのもうなずける。
   後に双方は和解、さらには1183年、若ヘンリーが病死。お家騒動は収まったかに見えたが、1184年になると今度は三男リチャードに対し、自分の後継者にするかわりにアキテーヌ領をジョンに譲るようヘンリーが要求したため、リチャードも父に激怒。再び、一家の中には不穏な空気が流れる。
   1188年、ヘンリー2世と、ルイ7世の後を継いだフランス王フィリップ2世の争いの最中、リチャードはフィリップ2世の側につくことを選び、父親と対立。このとき、ジョンは22歳。身のほどこし方について、すでに自分で判断すべき年齢に達していた。ここで、ジョンは、「どちらが得か」、彼なりに考えたのだろう。当初は当然のことながら、自分をかわいがっていた父ヘンリー側についていたものの、形勢が不利になったのをみると即座に父を裏切り、兄のリチャードの側についた。
健康を損ねていたヘンリー2世は、最愛の息子ジョンが寝返ったことを知って、ショックを受けたまま、病気で亡くなった。

 

欧州きっての『肉食系』女性大領主

アリエノール・ダキテーヌ

 ■ジョンの母親であるアリエノール・ダキテーヌ(Alienor d’Aquitaine、英語ではEleanor of Aquitaine 1122~1204)は、中世ヨーロッパにおいて最も裕福な女性のひとりであり、その財力を背景として大きな権力を有していた。フランス王妃、イングランド王妃として情熱的で波乱万丈の生涯を歩み、歴史にその名前を刻んでいる。



■アリエノールは、アキテーヌ公ギヨーム10世の娘。1137年に父ギヨーム10世が急死、弟が早世したため、アキテーヌ公領をはじめガスコーニュ、ポワチエなど広大な領地を相続した。父の死の4ヵ月後、15歳でフランス王ルイ7世の王妃になる。ルイ7世と共に自分の軍勢を引き連れて第2回十字軍遠征に参加したこともある女傑であるが、2女をもうけた後の1152年に離婚。

■修道院育ちの夫ルイ7世とは性格が合わなかったようで、離婚した際にルイのことを「王と結婚したと思ったら僧侶だった」とコメントしたというエピソードが残っている。離婚からわずか2ヵ月後に11歳年下のアンジュー伯ノルマンディ公アンリ(後のヘンリー2世)と結婚。アリエノールはたくましいヘンリーに惹かれ、結婚を狙っていたという。ヘンリーとアリエノールが結婚したことで、フランス国土の半分以上がイングランド領になる。ルイ7世に対するアリエノールの密かな復讐かもしれない。

■ヘンリー2世との間には息子5人と娘3人をもうけるものの、ヘンリーに妾ができると別居して、1168年にアキテーヌに戻り、ポワチエの城に騎士や吟遊詩人を呼んで華やかな宮廷文化を築く。

■男勝りで野心的な面もあった。1173年、次男の若ヘンリーが父ヘンリー2世に対する反乱を起こすと、三男リチャードと四男ジェフリーを煽って、自分も反乱に加わろうとするが、逆にヘンリー2世に捕らえられ、反逆罪でソールズベリーに15年間監禁される。ヘンリーの死去によりようやく解放された後は、摂政としてアンジュー帝国を統治。ジョンがイングランド王位にあった、1204年、フランスのフォントヴロー修道院で逝去した(写真は、同修道院内にあるアリエノールの墓)。82歳とその頃にしては非常に長寿だった。

■ルイ7世、ヘンリー2世との結婚で、合計10人の子供を生み、子供たちを次々と政略結婚させたことで、アリエノールの子孫は欧州全土の上層階級に広まり、「ヨーロッパの祖母」とも呼ばれている。

■中世のフランス、イングランドを力強く生き抜いた生涯は、ブロードウェイ劇『冬のライオン』(映画化もされた)に描かれている。なお、英語では、「エレノア(エリナー)・オブ・アクイテイン」と呼ばれる。