処刑直前の和解

 

 1623年3月9日。
大広間で対面したイングランド人と日本人傭兵は、お互いが自分たちを売ったものと信じ、憎悪の塊となっていた。そのために、本稿の文頭にあるような闘犬同士が牙を剥いて吼えあうかのごとく激しい罵倒合戦が繰り広げられたのである。
とその時、1人の日本人がポルトガル語で静かに語りかけた。
「旦那方、我々が共に食事をし、語り合ったのは一体いつ、どこでのことだったのでしょう…。こんな形で裏切られるとは…」
それを聞いたイングランド人が逆に聞き返した。
「貴様たちこそ、いったいどうして我々が陰謀をたくらんでいるなど、でたらめな証言をしたんだ」
罵声が止み、大広間を静寂が包んだ。
次の瞬間、イングランド人も日本人も、オランダ人たちが作り上げた謀略に、ものの見事にはめられたのだと気づかされた。そしてお互いに歩み寄り、拷問の痕を見せ合い「これほどまでに焼かれれば、例え石でもその性質が変わってしまうだろうよ」と互いを慰めあった。
そして彼らは互いに抱擁を交わし、法廷へと望んだ。
この法廷に微塵の正義などなかった。東インド諸島では力だけが正義であり、強い者が常に正しかった。オランダ東インド会社の社員たちによる一方的な裁判であり、もちろん弁護人もいない。彼らが有罪だと言えば有罪であり、死刑だと言えば死ななければならなかった。そして予定通り20名全員に死刑が言い渡され、さらに謀反の首謀者とされたイングランド人のリーダー、ゲイブリエル・タワーソンは斬首の上、さらし首とされた。
20人の死刑囚たちは直ちに町の広場へと引きずり出され、興奮する大観衆の面前で刑の執行が始まった。彼らは一人ずつ処刑台の前に立つと、毅然とした態度で声高らかに最期まで無罪を主張し、それぞれが信じるものに祈りを捧げると一人ひとり気高く、そして陽気に斬首されていったという。
かくして悪名高き「アンボン事件」は終わった。しかしこの事件のあらましがイングランドに伝えられると、たちまちイングランド国民の間にオランダ憎しの感情が高まっていき、英蘭の間で密かに進められていた2つの東インド会社の合併話も頓挫した。そしてこの事件が、のちに勃発する3度にわたる英蘭戦争の遠因となり、オランダを没落へと導いていくことになる。

 



拷問の方法を考えさせると、人は天才的な才能を発揮するものらしい。
オランダ人たちによって繰り返された水責めに、
イングランド人もサムライも、耐えることができなかった。

 

日は沈み、日は昇る

 

 国力、すなわち軍事力が脆弱である、というのは実に不便である。今の英国であれば王立海軍が現地に急行し、オランダと一戦交えるところであろう。イングランドは海軍を整備して徐々に力を蓄えつつあったが、この時点ではまだ、資金と造船技術に勝るオランダに分があった。
イングランドの東インド会社はこの「アンボン事件」をきっかけに、日本の平戸を含む東インド諸島や東アジアにあった商館を全館閉鎖、この地域からの撤退を余儀なくされた。そして活動の軸足をインドへと移していく。
こうしてオランダは東インド諸島や東アジアからイングランド勢力を駆逐することに成功し、オランダの制海権と独占的支配権を絶対的なものとする成果を上げた。それとほぼ時期を同じくして日本が鎖国に入り、中国以外では唯一オランダが日本との独占交易権を獲得、世間知らずの日本から銀、金、銅などの鉱物を大量に吸い上げることに成功していく。さらにイングランドがお家騒動(清教徒革命)に忙殺されている最中の1648年、八十年の長きに渡った独立戦争が終結、オランダ本国とオランダ東インド会社はいよいよその最盛期を迎える。レンブラントやフェルメールといった、オランダが今も世界に誇るアーティストが現れ、文化面でもピークを迎えるのがこの時期だ。
しかし、暴力や不誠実の末に勝ち取った栄華とは、他人の恨みや妬みを招くだけで決して長くは続かない。17世紀後半、世界の富が集中するオランダを憎む、かつての友人イングランドとの間で3度に及ぶ戦争が繰り広げられた。そして第一次英蘭戦争(1652年)を有利に進めたイングランドは、「アンボン事件」の遺族への見舞金4000ポンドを含む、8万5千ポンドの賠償金をオランダから勝ち取り、事件から約30年経って後、ようやく溜飲を下げるに至った。
一進一退を繰り返した英蘭戦争だったが、領土的野心に燃えるフランスの脅威にさらされ始めたオランダは、やむなく植民地帝国の地位と海上覇権をイングランドに譲らざるを得なくなっていく。さらに18世紀後半、オランダは侵攻してきたフランス革命軍によって占領され、1810年、遂にフランスに併合された。そしてその大混乱の真っ只中の1799年、200年近く続いたオランダ東インド会社はその役目を終え、ひっそりと幕を閉じていった。
一方、インドまでの撤退を余儀なくされたイングランドであったが、そこで綿花という、香料などとは比較にもならない、途方もない大金がなる巨木と出会うことになる。18世紀になると作れば作っただけ、飛ぶように売れる綿織物(キャラコ)をより一層早く供給するため、英国内で飛び杼を使った織機が発明され、その後ジェニー紡績機、水力紡績機の発明を誘発、英国に爆発的な繁栄をもたらす産業革命が始まっていくことになる。
オランダが沈み行く太陽に真っ赤に染められているころ、眩いほどの強烈な光がイングランドに降り注ぎ始めていた。(了)

 

参考文献
ジャイルズ・ミルトン著「スパイス戦争」
永積昭著「オランダ東インド会社」
浅田實著「東インド会社」他