偽りの友人たち

 

 オランダは現在のインドネシア各地を治めるため、スペインが南米でやったのと変わらぬ強引で乱暴な手法を選んだ。ナツメグやクローブが茂る島を武力で攻めて現地人を殺戮、よくても島民全員を他の島に移住させるという荒っぽい方法で次々にスパイスを獲得していった。そのため、オランダ人たちは現地人たちに恐れられるだけでなく、激しく嫌悪されていた。東インド会社社員と言っても、小さな風帆船に乗って嵐や海賊に遭遇したり、壊血病や赤痢で死ぬ危険を冒したりしつつ何年もかけて航海し、見知らぬ熱帯の土地に何年も棲みついて得体の知れない物を食べ、人すら食うと噂される恐ろしい原住民と戦いながらもいつか、莫大な利益をあげて一生、遊んで暮らしてやるのだ、というやくざな連中も多く含まれている。紳士的な外交使節団を想像していると、この頃の風景は見えてこない。
オランダ東インド会社の社員たちは、島を制圧するたびに、それを維持するために本社に「人を送れ」と依頼した。植民である。小国ポルトガルが、世界各地に作った植民地を統治できるほどのポルトガル人を各地に派遣できず、植民地が弱体化していた事実を知っていたオランダ東インド会社は、植民地をオランダ人だけで統治したいと考えていた。しかしそんな場所に自分の意志でやって来る連中が、どういう種類の人間であったか、想像するに難くない。一攫千金を挙げるためなら多少のリスクも厭わないような連中であり、そのやさぐれ度は東インド会社の社員たちが紳士に見えるほどであった。東インド会社の社員たちは自らが招いた、やさぐれの同国人にも手を焼いていくこととなる。
武闘派で流血を好み征服者と恐れられた、オランダ東インド会社の若き総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンは本国に「上質なオランダ人の夫婦や家族、または社員と結婚を望む若き婦人を送れ」と何度も催促をするが、そんな恐ろしく環境の悪い未開の地に行きたがる変わり者はほとんどいなかった。
それでも、香料を産する島々の制圧が首尾よく進み始めた頃、彼らの目の前にやっかいな連中が遂にその姿を現した。マストには白地に赤十字の旗が踊っている。イングランドの東インド会社である。

 


征服者と呼ばれたオランダ東インド会社の若き総統、ヤン・ピーテルスゾーン・クーン。
自国民を含む世界中の人間を見下し、暴力で東インド諸島を征服した。

 

 イングランド人はオランダ人がナツメグやクローブの収穫をするところ、どこにでも現れて邪魔をする。オランダ人たちはイングランド人たちを馬の体内に寄生することで知られる「馬バエ」と呼んで嫌悪した。ところが双方の本国同士は、表面的には対カトリックという意味で共にスペインやポルトガルと戦っている友好国である。従って当時まだ少数派であった新教国同士が地球の裏側で衝突することを望んでいなかった。
しかし共通の敵相手には手に手を取って戦うが、目の前に積まれた富貴となると話は別である。人は、苦しみは分かち合えても富を分け合うことはできない。しょせんイングランドとオランダは「偽りの友人」でしかなかった。
本国では「偽りの友人」同士が多少のことには目をつむり、首尾よくやって2国が共に豊かになるシナリオを探っていたが、金のなる木を目の前にして興奮状態にある現地の人間たちが、穏便な話に耳を傾けることはなく、抗争は激化する一方であった。そんな中、1619年、突然、本国同士が協定を結んでしまう。この背景にはオランダが八十年戦争の合間にポルトガル、スペインと結んだ12年間の停戦協定が満期になることがあった。スペインらが再び侵攻してくるかもしれず、オランダとしては何としてでもイングランドと良好な関係を保っておく必要があった。国は結局、損得だけで離れ、そしてくっつく。
この協定によって香料諸島においては一番乗りしたオランダが全体の収穫量の3分の2、イングランドが3分の1と分け前が決められた。また、今後新たに獲得した島に関しては折半とされた。ポルトガルを放逐して独占を謳歌していたオランダ側にしてみれば、あとからノコノコやってきて、まんまと3分の1をせしめる「馬バエ」は実に疎ましい存在でしかない。オランダ東インド会社側はこの本国の決定を無視。英蘭両国、出先機関の関係は泥沼と化していく。