2つの東インド会社

 

 ナツメグ、そしてクローブ。
どちらも強烈に甘い香りを放つスパイスだ。これらの香料を日常的に料理に使う日本人は少ない。カレー類には普通に使われているスパイス類だが、他にはせいぜいハンバーグやミートローフといった料理の肉のニオイ消しとして粉末のナツメグを混ぜ込む程度かと思う。しかし、この二つの香料は16世紀のヨーロッパ人たちを色々な意味で熱狂させた。
まだヨーロッパに中南米からイモやトウモロコシ、トマトや砂糖、唐辛子といった野菜類が紹介される以前のこと。当時のヨーロッパでは肉中心の食生活が営まれていた。保存技術が未熟であった時代、肉はすぐに傷む。その腐敗臭をかき消すだけでなく殺菌効果もあると人気だったのが胡椒であり、それに加えて独特の甘い風味を加えるものとして珍重されたのがナツメグ、そしてクローブである。
ナツメグは別の理由で特に珍重された。エリザベス朝の医者たちが、粉末のナツメグを丸めた匂い玉を、死に至る恐ろしい伝染病に効く唯一の特効薬だと騒ぎ立てたため、たちまち爆発的なインフレーションを巻き起こした。ナツメグもクローブも、実際に整胃作用があり、生薬として今も使われているが、病気を治すほどの薬効はほぼみられない。しかしこの時代の人たちはそれを信じた。
胡椒がインドを中心に、比較的広い地域で収穫されたのに比べ、このナツメグとクローブはこの当時、なぜか東インド諸島のマルク諸島にしか存在せず、何度も他の島への移植が試みられたが、当時の知識と技術ではうまくいかなかった。それがまた、この2つのスパイスの価値を高める結果ともなる。今ではどれもスーパーマーケットの棚に並び、せいぜい2ポンド前後で売られているこれらのスパイスを、当時の人たちは命がけで求め、そして現地の人たちを巻き込み、その結果何千という人たちが命を落とすこととなる。
ポルトガル人がアジアに進出する以前から、スパイス類はヨーロッパに出回っていたが、それは幾多の商人の手を経て陸路、海路でコンスタンチノープルに運ばれたものをヴェネチアの商人たちが買い付けてきたものであり、人の手を経れば経るほど、末端価格は跳ね上がっていた。当然のこと、アラブの商人もヴェネチアの商人も、ナツメグやクローブといった貴重なスパイス類が一体どこで栽培・収穫されているのか、ヨーロッパ人に一切教えなかった。そのため彼らは長い間、商人らの言い値で買わされ続けた訳だが、商人らが欲張って中間マージンを搾取し過ぎた結果、皮肉にもヨーロッパ人たちがスパイスを求めて直接、現地にまでやってくることになる。
1522年にポルトガル人のマゼラン一行が、西回りでの世界一周に成功し、香辛料をヨーロッパに持ち帰った。ところがそれに続いたのはイングランド人のフランシス・ドレークであった。1580年のことである。ポルトガル人とスペイン人以外のヨーロッパ人が遂に、むせ返るような甘美なスパイスの香りを漂わせる夢の島を発見し、これを掠め取ろうと動き始めるのである。
 

 

    
左/甘ったるい匂いを発するナツメグ(nutmeg)の種子。オランダ人たちはナツメグやクローブを日本にも持ち込んだが、
肉食文化がほとんどなかったため、当時の日本人は全く興味を示さなかったという。
右/甘いような、正露丸のような、およそ和食には合いそうもない香りを発するクローブ(clove)。
日本では丁子(ちょうじ)と呼ばれる。これは花蕾が「釘」の形に似ているため、同義の「丁」の字があてられたもの。

 

 1600年。まずはイングランドが「イングランド東インド会社」を立ち上げ、活動を開始した。しかし当時の組織はまだ幼稚で、船を出すぞ~と声を掛け、資金が集まったところで出発し、無事に帰ってきて利益が出れば、出資額に応じて利益を分配、組織は解散という当座会社的な存在であった。従って実際に船が出るも出ないも金次第。まだまだ「会社」とは程遠いおそまつな組織であった。
オランダも初めは当座組織のような会社が乱立し、現地でも同国人同士によるスパイスの奪い合いが繰り返された結果、現地での購入価格は高騰し、反対にヨーロッパでは供給過多のため価格は暴落を続けた。そのため1602年、遂にこれらを連合させ正式にオランダ東インド会社を発足させた。取締役や株主の責任は無限から有限とされ、出資者は各船団にではなく、会社に対して直接投資することが決められた。これによって初めて己の資産や、資金の心配をせずにビジネスに集中できる、会社らしい組織が完成した。
ここに、後に現在のインドネシアを中心に、東南アジアの島々で、まさに血で血を洗う抗争を繰り広げる2つの「東インド会社」が誕生した。しかし前述したように、イングランドの東インド会社はオランダのそれと比して、発足当時は随分と見劣りするものであった。おまけにオランダ東インド会社は、東インドにおける条約の締結、要塞の構築、自衛戦争の遂行、そして貨幣の鋳造などの権限が与えられ、さらにその権限を行使できる海域は「喜望峰(南アフリカ)の東からマゼラン海峡(南米)の西」という、とてつもなく広い範囲とされた。つまりオランダ東インド会社とは、一度喜望峰からマゼラン海峡の間に足を踏み入れれば、それこそ一つの国家に等しい強大な権限を持っていたことになる。イングランドの東インド会社にとっては実にやっかいな存在であった。

 


イングランド人として初めて船で世界を一周し、エリザベス女王の元にスパイスを届けたフランシス・ドレーク。
彼はこの後、イングランド海軍の指揮をとり、スペインの無敵艦隊を撃退することとなる。