国家に尽くして

 

 外相として最も不本意な結果となったポーツマス条約だが、最大の成果は朝鮮問題が解決に向かったことであった。日韓保護条約が成立、伊藤博文は韓国統監府初代統監として赴任、保護政治が始まった。しかし、伊藤は韓国国民の恨みを買い、辞職後の1909年、枢密院議長として満洲を訪れた際、ハルビンにて朝鮮の民族運動家、安重根に暗殺されてしまう。この機を逃さず、小村は桂とともに韓国併合に着手。この功績を以って侯爵を授けられた。
 こうして朝鮮問題は一旦決着をみせたものの、外交上の課題は肥大化していた。アメリカ合衆国が台頭してきたからである。
 アメリカは満州へと繰り返し干渉し、人種差別に基づく在米日本人排斥運動も激化していた。日露戦争後、列強は日本の脅威を認め始めたが、最もその存在を疎ましく感じていたのがアメリカであった。小村はアメリカの満鉄買収工作や中立化工作に毅然とした態度で臨み、これを退けている。
 しかし、日露戦争以降、激務を強いられた小村の健康状態は不調をきわめた。外相を辞職し、葉山で療養しながらも「長い間の懸案を片付けなければならない」と将来を案じて語っていたという。
 懸案とは、これまでの日本外交を記録に残し、また今後困難を極めるであろう日米関係をいかにすべきかという論旨をまとめることであったという。
 その願いもむなしく、小村は二度と病床から這い上がることはできなかった。再度首相になる決意をし、外交は小村に託すと誓っていた桂太郎は、その病床で嗚咽したとされる。
 1911年11月26日未明、親友や恩師たちに囲まれて、小村は息を引き取った。57年の短く激動に満ちた一生であった。
 料理人兼執事として小村に14年間仕えた宇野弥太郎は、小村を以下のように描写している。
 「世間の噂などは全然頭に響きませんでした。新聞や雑誌がどんなに侯爵をほめましょうが、またどんなにそしりましょうが、てんで平気なもので、従来どおり国事にばかり苦心せられておりました。もしほめてもほめ甲斐なく、そしってもそしり甲斐のない人物が真の英雄でありますならば侯爵はすなわちその人であろうと思います」
 「侯爵の清廉と淡白と無欲とは有名なものであります。察しまするに、侯爵は華族になられたいような人ではなく、侯爵の真意はただ国家に尽くして死にたいというのであったのです」
 宇野が金銭に困っているときは「黙って持ってゆけ」と貸し出し、返そうとしても決して受け取ることはなかったという。
 常に先を見越していた小村は、第一次世界大戦へと向かう世界の情勢、日本の行く末を憂いていたに違いない。日本の辿るべき運命を誰よりも早く察知し、弱小で蔑視の対象であった日本という小国を、列強を脅かすほどに世界の舞台へと引き上げたのが小村であった。明治の戦乱期において軍人、政治家と数々の英雄たちが輩出されたが、その栄光は小村の外交なしに実現しえなかったといっても過言ではない。



晩年の小村寿太郎