強国ロシアとの戦い

 

 小村はいまや、ロシアが非道をはたらくのを待っていた。そうでもしなければ協商派たちを黙らせることができないからである。
 それほど長く置かずしてその時は来た。ロシアは満州還付条約を無視し、満州から撤兵せず、さらに韓国に侵入した。ロシアが満州だけでなく、隣国である韓国をも支配せんとしていることは明白であった。
 1903年6月、本格的に対露外交交渉が始まった。「朝鮮問題に関してはロシアに日本の優先権を認めさせ、一歩も譲歩しない」、そしてそれが脅かされるのなら「戦いも辞さない」ことが日本の基本方針として提示されたが、それでも伊藤博文は最後の最後まで協商論を諦めていなかった。伊藤の発言は絶大であったから政府は決断に欠け、軍部は苛立ちを隠せなかった。
 「外交よりも内交がむつかしい」という小村の言葉どおり、日英同盟締結から日露開戦直前まで、小村は協商派をいかに抑えるかということに苦心する。小村をはじめ、対外硬と呼ばれる、軍事力をも視野に入れた強硬外交を唱える人々は、伊藤を必死で説得にかかった。対外硬の頭山満は万が一、伊藤が最後まで抵抗したら「切る(殺す)つもりだった」と後に語っている。
 翌年2月まで交渉が続けられたものの、小村の予想どおり、ロシアは一歩も引かなかった。不当な要求をつきつけてくるだけのロシアに、伊藤もついに「小村、これではもはや戦うほかないね」と折れたという。
 結局、小村は実際にロシアに交渉し決裂してみせることで、ロシアの策略を露呈させ、ロシアが伊藤の求めているような国ではないことを証明するしかなかった。
 ついに日露開戦に至った。小村は日本の戦争目的は、欧米列強によるアジア侵略の阻止であり、東洋の治安を永遠に維持することと宣言、同時に諸国に対露交渉の経過を伝え、開戦はあくまでロシアの責任であることと、いかにロシアの主張が不当であるかを伝達した。
 



ヴィッテ蔵相

 

  当時、英国と世界の覇権を争うロシアは、陸軍国としては世界一とうたわれ、国力、軍事力ともに日本をはるかに上回っており、小国日本に勝ち目などなかった。
 陸軍兵力は日本20万強に対し、ロシアは200万から400万ともいわれ、ロシアのクロパトキン大将は「日本兵3人にロシア兵1人で間に合う」と豪語したとされる。しかし、戦わなければ、いずれ支配されるのみ、国家生存のために日本は戦うことを選んだのである。
 結果は世界中の驚くこととなった。海で陸で戦い抜き、日本は奇跡的な勝利を遂げてゆく。
 開戦2年前にして同盟国となった英国は、軍事情報の提供や戦費の調達、対ドイツおよびフランスの中立維持を促す外交的圧力など、表面上は中立的な立場を取りながらも多大な貢献を果たした。
 とくに日本への同情を高める国際世論を形成させるのにきわめて有効であった。日本海海戦の勝利に対し、英各紙は次のように報道している。
 「トラファルガーの戦勝にもまさるこの一戦―。今やロシアが直面する課題は、いかなる条件で降伏すべきかである」(デイリー・メール紙)
 「ロシア政府は日本の要求する条件で一刻も早く和平を締結すべきである」(モーニング・ポスト紙)
 「今やロシアにとって、戦争を継続できる望みは全く消えた。強いて継続すれば、ただ自国にとって不利になるだけである。これが極めて分かりやすい道理であるにもかかわらず、ロシア宮廷において和平への動きがまだ出ていないように見受けられるが、ロシア自身のために、誠に惜しいことである」(ロンドン・タイムズ紙)。

 



日露講和条約の正文(日本外務省蔵)。
左頁下方に小村寿太郎(Jutaro Komura) と 高平小五郎(K .Takahira)の
署名が確認できる。