世界の覇者、英国と接近

 

 北京会議での手腕を評価され、小村はついに外務大臣に就任した。伊藤内閣に代わり陸軍大臣であった桂太郎が首相となった。桂内閣は就任当時無名で、短命と言われていたが、小村は「3ヵ月も続けばいい。その間に自分がかねてから考えていた大きな仕事を成し遂げる」と語っていた。日英同盟のことである。
 しかし、伊藤博文を始め、井上馨、山県有朋など、政界で発言権を持つ大物政治家たちの多くが、ロシアを恐れるあまり日露協商論をとなえ、ロシアと穏便に手を結ぼうとしていた。日本政府はロシアと手を組むか英国と手を組むかで大いに揺れ、「二股外交」とも揶揄された。
 日露協商論は、「ロシアの満州での権益を認める代わりに、日本の韓国への権益をロシアに認めさせる」という満韓交換論を説くものである。しかし、ロシアはそんな生易しい理屈が通る相手ではなかったから、決して韓国を諦めなかったし、満州を我が物にしつつ、朝鮮にも干渉を止めようとしなかった。日本が朝鮮を断固として渡さない限り、戦いは必須であった。
 一方の英国は、それまで「栄光ある孤立」を基本政策としており、同盟締結は外交史上大きな出来事であった。しかも「極東の新興国」相手であったから、当初はきわめて慎重だった。
 中国に最大の権益を持つ英国は、ボーア戦争や植民地問題に苦しみ、極東に海軍力を展開する余裕がなかったため、中国においてはとにかく治安現状維持が好ましく、日清戦争の際にも厳正中立を宣言していた。日本と手を組むことはロシアを敵にまわすことになり、戦力が不足している現状では得策ではない。また、新興国である日本の軍事力は増強されてはいたが未知数であり、なにより有色人種の国との同盟には抵抗があった。



1963年から86年発行の1000円札の顔としても馴染み深い伊藤博文は、
明治期を代表する政治家。長州生まれで高杉晋作らと倒幕運動に参加したのち、
「長州ファイブ」として井上馨らと英国留学を果たしている。
初代内閣総理大臣を含め、首相を務めたのは計4回。
アジア最初の立憲体制の「生みの親」と知られ、帝国憲法の制定や天皇制の確立と、
その功績は大きい。対露開戦前には伊藤は60歳に達し元老として助言する立場にあったが、
その発言権は絶大であった。

 

 しかし、日清戦争の勝利と義和団事件での活躍が、英国の日本に対する評価をがらりと変えた。前述のタイムズ特派員モリソンの評価も対日への猜疑心を取り除くのに大いに貢献した。こうして、アジアの権益を守るには日本を重視した方が賢明であるという風潮に傾いていく。
 この時、英国が恐れていたのは日露の結合であった。インドやアフガニスタンを確保しておきたい英国には、ロシアの関心を極東に釘付けにし南下を阻止したいという思惑があった。ドイツ、イタリア、オーストリアは三国同盟を組んでおり、ロシア、フランスも同盟を結んでいる。「栄光ある孤立」も限界に来ていた。極東に戦力をまわす余裕がない以上、第三国と手を結んで既得権益を守るしか方法がないと判断したのである。
 当初は日英独の三国同盟が提案されたが、英国に利用されてロシアと対抗することを避けたいドイツはこれを拒否、残る日本はロシアと協商する素振りも見せている。英国は即断を迫られたのであった。
 とくに、元老・伊藤博文がロシアに渡り、ラムズドル外相とウィッテ蔵相と会談し、日露協商案を展開した際は、英国は日露が結合してしまう前にと締結を急いだとされる。
 日本政府代表としてではなく個人として独断でロシアに渡った伊藤の越権行為に、小村も日本政府も頭を悩ませたが、結果的に日英同盟の締結を早める効果をもたらしたのだった。
 駐英公使の林董からは、以前から日英独三国同盟の動きがあることが伝えられていたし、とくにチェンバレン植民地相は日英同盟の必要性を説き、帰英中の駐日マクドナルド公使も同盟案に好意的であるという。期は熟していた。
 小村は、協商派の元老たちの意見を無碍にできなかったから、対露戦を叫ぶ代わりに日英同盟の締結に集中する。そして、日露協商と日英同盟の利害損失について触れ、日英同盟がより得策であるとする意見書をまとめた。
 その内容は「侵略主義のロシアと協約を結んだとしてもロシアは到底満足しないから、長期的な保障にはならない。それに対して、極東ではこれ以上の領土的野心のない英国と結べば、東アジアの平和を比較的恒久的に維持でき、清の感情を害さずに済む。そして経済的にも、世界中に植民地をもつ英国と結んだ方が通商上の大きな利益を得ることが可能となるし、清における利権の拡張も容易になる。また、英露が対抗する可能性があるとすれば、ロシア海軍と結んで英海軍に対抗するより、英海軍と結んでロシア海軍と対抗した方がはるかに容易である。さらに、朝鮮問題においては対露戦によって解決するしかなく、そのためには英国と結び、財政上、経済上の援助を得ることが必要になるであろう」というものであった。
 小村はまた、英国がこれまで同盟規約を不履行にしたことが極めて少ないことを調べ上げており、二枚舌、三枚舌のロシアと比較して日英同盟の正当性を説いた。
 説得力十分な正論であり、伊藤を筆頭とする日露協商派も納得せざるを得なかった。
 こうして、1902年1月30日、日英同盟はロンドンのランズダウン侯爵邸において、林董駐英公使と英ペティ=フィッツモーリス外相により調印に至った。決して日本が親英派であったからでも英国が親日派であったからでもなく、両国の利害関係がほどよく一致したことによる成立であった。
 小村の意見書が決定的な要因となったことは言うまでもない。
 外務大臣となって4ヵ月、小村は「最大の目的」を計画通りに果たしたのである。今からちょうど110年前のことだ。

 

朝日輝く日の本と 入り日を知らぬ英国と
東と西に分かれ立ち 同盟契約成るの日は
世界平和の旗揚げと 祝ぐ今日の嬉しさよ

 明治維新以来、近代化を進め、富国強兵を唱えてきた日本が世界中に認められた証として、この同盟に国中が歓喜に沸いたと伝えられる。