列強の一員に

 

 外務次官、駐米大使を経て、1900年駐露大使となり、サンクトペテルブルクに赴任した小村は、着任後まもなく北京に戻らざるを得なくなった。清で外国人排斥運動の「義和団事件」が起き、この講和となる北京会議に日本代表として出席することを命ぜられたからである。
 この事件で清政府は、外国人排斥運動を鎮圧するどころか国軍に外国人を討伐させたため、ロシア、英国、フランス、アメリカ、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリア、日本の8ヵ国からなる連合軍が出兵することになった。日本は初めて列強と肩を並べて戦うことになり、8ヵ国中最大の一万もの兵を派遣し鎮圧に努めたが、一方のロシア軍は、騒乱に紛れて、満州を軍事占領してしまう。
 これは、世界列強にロシアのモラルのなさを明示するとともに、日本の勇敢さ、文明国にふさわしい規律のよさを知らしめた。日本軍は列国の中で最も多くの戦死者を出しながら、他国軍に横行していた略奪行為は一切働かず、紳士的な態度で戦いに挑んだ。「ロンドン・タイムズ」の北京駐在特派員であったジョージ・アーネスト・モリソンは、日本兵の武勇さと団結の素晴らしさを絶賛している。
 小村はこの出兵が、世界の表舞台に立つ重要な場と心得えていたから、兵力は列強に決して劣ることのないよう事前に政府に申し入れていた。そして講和会議に至っては、日本の実力を列強に知らしめる好機になると見越していたのである。
 「日本が世界の舞台に出て仕事ができるのはこれからです。諸外国は初めて日本兵の恐るべきことを悟ったでしょう」
 講和会議を前に小村は武者ぶるいを隠せなかった。世界列強を相手にこうした信念と度胸を兼ね備えた政治家は小村だけであり、この大役を引き受けられるのも彼のみであった。
 時の首相、伊藤博文は小村を北京に送る際「列強団は我々日本を本当に仲間として加えてくれるのだろうか」と小村に尋ねている。鹿鳴館時代から欧米崇拝者として知られ、ロシアを恐れる「恐露症」でもあった伊藤が、三国干渉の二の舞になるのではという不安をぬぐいきれなかったのは無理もない。小村はこれに対し「今回こそは列強団の仲間入りを果たしますとも。果たさなければいけません。私がその日本の地位を確立します」と言い切ったという。
 小村にはさらなるビジョンがあった。英国の存在である。英国がボーア戦争やその他の植民地問題に頭を悩ませ、いずれ兵力を必要としてくるだろうと予見していた彼は、ここで日本の力量を見せておくことが後に功を奏すると読んでいた。いずれロシアと戦うことを免れないであろう日本にとって、英国を味方につけておくことは他国の干渉を退ける意味で重要であった。つまり、日露戦争を前提とした上での日英同盟の可能性をすでに見据えていたのであり、小村はこの講和会議でその布石を打つと決めていたのである。
 講和会議は難航したものの、小村が取り仕切り、列国が足並みを揃えるに至った。当時の日本の位置は比べ物にならぬほど低かったが、小村の采配は列強代表も認めざるを得ぬほど見事であった。日本は列強8ヵ国全兵力の6割近くを出兵し、数多くの犠牲を払ったものの、賠償金はロシアの4分の1、ドイツの3分の1、フランスの2分の一しか要求せず、日本の公正さが欧米諸国に知れ渡ることとなった。小村の決意どおり、世界列強が日本の兵力、外交術に一目置き始めたのがこの時であった。



桂太郎