清をたおせ

 

 着任早々、小村は情報収集に全力を挙げ、清政府の現状を正確に把握することに専念した。清の国力が衰弱しきっているのを確認するや、今こそ清を抑える時だ、と日本政府に開戦を勧告している。当時、軍人以外で開戦を叫ぶものは小村ただ一人であった。
 そんな中、朝鮮の独立派の政治家が上海で暗殺された。彼は、日本のような近代化を図るべきとしてクーデターを起こしたものの弾圧され日本に亡命していた。死体は上海から朝鮮に祝電付きで送られ、朝鮮政府は死体を分断して市民に晒したという。当時、清政府も朝鮮政府も日本の近代化を「西洋の物まねをするアジアの恥辱」と蔑視してやまなかった。小村のいう「覚醒」にはほど遠い状態だったのである。
 続いて朝鮮で内乱が起きると日清両国が朝鮮出兵し、これを機に参謀次長、川上操六も陸奥外相も小村に同調し、対清戦を決意するに至った。こうして日本は、朝鮮を属国として武力介入する清に対し、「朝鮮の国政改革」を名目に宣戦布告するのである。
 日清戦争は、陸奥が開戦を主導したとされているが、それよりもっと前に対清戦の必要性を声高に叫んでいたのが小村であった。陸奥は「小村は何より見通しが早くそれに正確だ。ほとんど誤謬もないようだ」と驚いた。借金まみれの読書の虫は、想像以上の偉才と化け、以後、陸奥にとって最も心強い存在となった。
 欧米の予想を裏切り、勝利を収めた日本は、ようやく朝鮮を清の束縛から解き放つことに成功した。遼東半島、台湾、澎湖島が日本に割譲され、賠償金も獲得した。しかし、その講和条約が成立してまもなく、ロシアとドイツ、フランスが「遼東半島は返還すべし、さもなくば武力行使する」と威嚇してきた。俗にいう三国干渉である。
 列強は衰退する中国をいずれ分割しようと目論んでおり、小国の日本、しかもアジアの有色人種の国がそこに食い込んでくるなど論外だったのである。列強を敵にまわしては勝ち目などなく、日本は遼東半島を泣く泣く返還せざるを得なかった。
 この結果に、日本国民は憤慨して当時の外交を非難したが、最も屈辱を感じたのが小村であった。この三国干渉の恥辱を晴らすことこそ小村の次なる課題となったのである。
 それでも、政界ではいまや小村の名を知らぬものはいなくなった。三国干渉という手痛い仕打ちを受けたものの、清を相手に日本を勝利に導いたのは、小村の鋭い洞察力と先見の明にほかならない。また、日清戦争中、小村は民政庁長官として山県有朋大将に随行し、人民の保護に尽力した。戦争では略奪などが起こるのが常であったが、小村はこれを取り締まり、日本軍が敵国住民の慰撫に努めることを徹底させた。これにより、人民から食糧や車両の調達が容易になったことも勝利の一因であった。
 三国干渉後の数年、日本外交は最も苦渋を強いられた。ロシアは朝鮮の独立心が弱いのをいいことに、あの手この手で朝鮮をたぶらかし、支配下におこうと画策。事大主義という強者に迎合する外交政策をとっていた朝鮮も、三国干渉に日本が屈服すると、あれよという間にロシアになびき始めた。ロシアは朝鮮および清と密約を結び、戦争という犠牲を払わずに満州北部での東清鉄道の敷設権、さらに膠州湾、旅順、大連の租借権をも得るなど傍若無人に振る舞っていた。そして列強も清の租借を始め、ひたひたと東アジアに足場を固めてきていた。
 結局、日本は戦う相手を清からロシアに変えたに過ぎなかった。
 しかし、朝鮮半島が自国を守る砦である以上、それは避けられない戦いであった。列強の侵略から東アジアを守ることは、アジアで初めて西洋化近代国家となった日本の宿命であった。少なくとも小村はそう信じていた。