外交官として清へ

 


陸奥宗光

 翻訳局長から外交官となる切符を小村に手渡したのは、外務大臣になったばかりの陸奥宗光=写真左=であった。
 翻訳局長であった小村と通商局長の原敬と飲み交わしていた陸奥は、その席で紡績に関する英単語の意味を原に尋ねた。原が答えられずにいると、小村はその意味ばかりか、紡績論や綿花、英国の綿製品や価格帯、輸出入状態に至るまで詳しく解説したという。これまで小村を冴えない「読書の虫」程度にしか評価しない外務大臣が多かったが、陸奥は小村の才能を見逃さなかった。そして翌年翻訳局が閉鎖されると、外交官として小村にワシントン行きの機会を与えるのだった。
 これに対し小村は「私としてはワシントンより北京に行かせて頂きたい」と答えている。
 当時の外交官は勤務地として英国、フランス、アメリカ、ドイツを希望するのが常だった。人気のポジションを与えてやろうというのに、日本外交として重要度の低く、国力も低下している中国に行きたいとは正気か、と陸奥は疑った。
 しかし、小村は陸奥には見えていないものを見ていた。15年前に西南戦争で恩師を亡くした小村にとって、日本外交の最たる鍵はいつも「朝鮮」であった。征韓論に端を発する内戦であった西南戦争は西郷隆盛をも葬ったが、この時から小村は、欧米列強のアジア侵略を阻止し、自国を守るには朝鮮半島に対する日本の権益が要になると信じて疑わなかった。日本から目と鼻の先の朝鮮半島が列強に占領されれば、日本は瞬く間に危険に晒される。自国を守るには、朝鮮の中国(清)への臣従をやめさせ、独立国家として日本と提携させる、ひいては清とも提携し、東アジア国家として3国が手を取り合って対抗する必要性があると小村は痛感していた。そして、そのためには朝鮮を属国扱いする清との戦争が不可欠であろうことも悟っていた。
 なぜなら清は当時、国力が落ち、内政が腐敗しているにもかかわらず、日本、朝鮮を弱小国と蔑視しており、朝鮮もまた、小中華思想(*)が抜けきれず、列強が押し寄せている危機的状況にまったく覚醒していなかったからである。
 小村は陸奥に自論を吐露し、陸奥は半信半疑、小村を北京に送る。

*小中華思想―朝鮮が自らを中国の歴代王朝から認められた唯一の優等生の属国であるとする中華思想。

 

10年におよぶ借金地獄

 

「泣かず飛ばず」と前述した翻訳局長時代、小村の実力を認める者はなく、小村は読書研究に明け暮れた。この時期は父親が残した膨大な借金に苦しめられた暗黒の時代でもあった。借金額は父の借金と、その返済のために高利貸から借りた金とを合わせ、現在の金額に換算しておよそ2億円。高学歴、エリート職、高収入にもかかわらず、小村の家には家財道具が一切なく、妻と3人の子供は飢えをしのぐ最低限の生活、小村は年がら年じゅう、たった1着のコートをまとう、という生活が10年以上も続いた。それでも誰にも頼らず、その生活を恥じる風もなかった。外務省で行われる定期的な宴会には、「後払いにするから」と会費を払えなくとも必ず参加し、あきれた幹事が小村を招待しなくなっても平然と参加し続け、周囲に「到底尋常な人間ではない」と言わしめたという腹の据わりようであった。
あまりに気の毒に思った同僚が助け舟を出すと「他人に大きな恩義を受けてしまうと生涯その人に頭が上がらなくなる。好意の裏には何かがあるものだ」と退けたという。結局、見かねた菊池武夫、杉浦重剛ら、大学南校時代の旧友たち7名が立ち上がり、連帯保証人となって借金の4分の1を返済し、債主らと取り合って借金を減額させ、残りも無利息で払うよう約束させた。小村はこの時、彼らの恩義と友情に報いるためには、ひたすら国家のために身を削るしかないと誓ったと伝えられる。