2012年4月5日 No.722

●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

 

 

日本を世界の舞台へ引き上げたサムライ外交官

小村寿太郎の苦悩

 

 

 

 

 

▲ロシア全権との講和談判に臨む汽船ミネソタ号に乗って
横浜からポーツマスへ向かう小村全権一行。
手前にしゃがんでいるのが小村。
上写真、右写真2点とも©日南市総務課


 

 

 

博学なネズミ

 

 「日本にはまだ外交はないのだ。真の外交はこれから起こってくるのだ」――。
 明治26年(1893年)の暮れ、駐清代理公使として北京に旅発つ折、小村寿太郎は外交官としての決意を語った。日清戦争が始まる半年余り前のことである。
 9年も続いた、泣かず飛ばずの外務省翻訳局長時代に終わりを告げ、やっと本領を発揮できる好機が訪れたと、小村は拳を握りしめた。
 それから18年、日清戦争、三国干渉、日英同盟締結、日露戦争、日韓併合と続く激動の明治にあって、欧米諸国と対等の位置に立つべく近代日本を牽引した敏腕外交官が、小村寿太郎、その人である。
 身長約156センチの痩身、目はくぼみ、頬はこけ、口髭をたくわえた、まるでネズミのような風貌に各国の公使たちは「ねずみ公使」と名付け、同朋たちは「チュー公」と敬愛を込めて呼んだとされる。
 1855年9月26日、現在の宮崎県日南市に生を受けた小村は、少年時代から頭脳明晰、学力優秀であった。15歳で藩校優秀生として選ばれ長崎で英語を学び、翌年にやはり藩からの推薦を受け、大学南校に入学した。大学南校は明治政府が洋学を教えるために設置した教育機関であり、外国人教師による外国語学、西洋地歴が必修となっていた。今日の東京大学の前身である。
 明治維新から間もない、日本がアジアで最初の西洋的近代国家へと変貌を遂げているこの時期、優秀な学生はみな海外留学を志した。小村は他の学生たちと共に海外留学生派遣を提言する建白書を文部省に提出、第1回文部省留学生11人のひとりに選ばれた。行き先はハーバード大学、ここでも米人学生が小村とすれ違う際には敬礼したというほど最優秀の成績を収めた。



第1回日英同盟協約の最終頁。
日本側代表の林董駐英公使と英国側代表のペティ=フィッツモーリス外務大臣によって
調印された。日英同盟締結を積極的に主張して
締結に持ち込んだのが小村寿太郎であった。

参考文献●『小村寿太郎-近代随一の外交家 その剛毅なる魂-』
(岡田幹彦著・展転社刊)

 

 小さい体ながらも侮られることなく、むしろ畏敬をもって迎えられた小村は、常に冷静沈着で寡黙、威風堂々としていたという。その知性と品位は、生涯を通じ暇さえあれば没頭したとされる「読書」によって培われたものといってよい。小村ほど読書に時間を割き、あらゆる分野において博学な政治家はいなかったといわれる。若い時分より、ひとつ問題があると、それに関連して書籍を3、4冊読み、読んでは熟考し―、を解決の糸口とした。読書について小村は「書物は、批判的にその所説が正しいか否かを沈思黙考し、納得してはじめて知識の材料として使うべし」と語っている。
 中でも繰り返し愛読したのが、小泉八雲の『神国』と、新渡戸稲造の『武士道』だったという。「日本の光は武士道根性である」―。小村はたびたびこう語った。鹿鳴館時代という欧化政策が進み、ともすると欧米崇拝思想に陥りやすい時代背景の中、留学し、英語はもちろん、フランス語、ロシア語を習得し、読書の大半は洋書であったという小村を支えたのが武士道根性、大和魂だったのである。これは小村の外交術に一貫した思想であり、この国粋主義の思想がたびたび日本の危機を救ったことは特筆に値する。



©日南市総務課 開成学校時代の小村=前列左