◆◇◆ いきもの好きから解剖学の俊英へ ◆◇◆

 この1861年当時、大英博物館内における自然史に関する展示は明らかに混乱状態にあり、収蔵品が所狭しと並べられていた。しかもその陳列方法は雑然としていて、価値の高い貴重な標本も、何やら見分けの付かないような標本もごちゃ混ぜになってしまっていた。
オーウェンが自然史専門の新しい博物館を提案してからすでに3年が経過。なかなか思うようにことが運ばないのに業を煮やしたオーウェンは、政界で、このプロジェクトに賛成してくれる強力な『同志』を探すことにしたのだった。 彼が白羽の矢を立てたのが、グラッドストーンである。オーウェンには優れた『嗅覚』が備わっていたことは間違いない。 グラッドストーンはリヴァプールの裕福な商家出身という経済的に恵まれた出自で、イートンからオックスフォード大学に進み、そこでのディベート(討論)クラブの活躍が選挙での成功につながり、23歳で下院議員に当選。絵に描いたようなエリートだったといえる。 最初は保守党党員だったが、進取の気性に富むこの有能な若者にはあわなかったと見える。離党して自由党に参加、1867年に党首となった。その翌年の68年、59歳で首相に就任。以降、26年間で合計4度、首相職を務め、ヴィクトリア朝時代を代表する政治家となった人物である。60年余りという長い政治家生命の間にアイルランド自治の推進に取り組むなど、88歳で没するまで、自由主義を貫くリベラル派の実力者として名を馳せたのだった。
話を、このオーウェンとグラッドストーンの大英博物館での会合に戻そう。グラッドストーンは自然史部門専門の新しい博物館が必要であることに賛成し、移転に全力を尽くすことを約束してから、ブルームズベリーを後にしたのだった。グラッドストーンの支持を得るには、言葉で説明するよりも実際に大英博物館に招き、悲惨な現状を目で見てもらうに限るというオーウェンの戦略は見事に当たった。科学者らしい分析の賜物というべきかもしれない。
実際に、このブルームズベリー訪問を機にグラッドストーンはオーウェンの最も強力な支援者となる。未来の首相の存在なくして、新博物館計画の現実化はなかったと断言できる。
さて、グラッドストーンを自分の構想に取り込むことに成功した、オーウェンについて、もう少し詳しくみてみよう。
1804年にランカスターで商人の息子として生まれたオーウェンは、子供の頃から生き物に対する好奇心が人一倍旺盛だった。ランカスター・ロイヤル・グラマー・スクールで学んだ後、医者の下で見習い薬剤師として働いた。
その後エジンバラ大学に入り比較解剖学を履修。オーウェンは非凡な才能で直ぐに頭角を現し、25年、ロンドンに居を移して聖バーソロミュー病院で学ぶことになった。助手を経て、27年にはまだ23歳という若さで王立外科医師会会員となる。同院で七年間教壇に立つかたわら、王立外科医師会付属のハンテリアン博物館(Hunterian Museum)のアシスタント学芸員、そしてコンサバター(保存管理者)も務め、その秀才ぶりは周知の認めるところとなったのだった。

◆◇◆ 「恐竜」の名付け親による企画書 ◆◇◆

 しかし2つの職を兼任することに王立外科医師会が難色を示したため、オーウェンは聖バーソロミュー病院での教授職をきっぱりあきらめ、コンサバターとしてのキャリアを歩むことを決意する。この時、オーウェンの運命はすでに自然史博物館設立へと向かい始めていたといってもいいだろう。
やがて上級コンサバター、そしてハンテリアン・プロフェッサーとなり、オーウェンは計29年間、王立外科医師会に勤めることになる。その頃には同医師会自体が科学的実績を高く評価されるに至っており、そしてオーウェンも博士として解剖学・古生物学者の第一人者としてヨーロッパでその名が知れ渡るようになっていた。オーウェンは自然と生物に関して驚くべき知識を有し、研究活動への情熱は留まることがなかった。
ところで、現在我々が当たり前のように使っている「恐竜(dinosaur)」という言葉がある。実は、他でもないオーウェンの命名だ。ギリシャ語で「恐ろしい、強力な」という意味のある「deinos」と「トカゲ」を示す「sauros」を組み合わせた造語という。オーウェンは絶滅した種を体系的に研究した、草分け的存在でもあったのである。 1856年、オーウェンは、ハンテリアン博物館から新しく設置された大英博物館自然史部門へ移った。部門長に着任した彼が、自然史部門の深刻な問題点に気付くのに時間はかからなかった。
まず自然史コレクションが増えすぎて、スペースが足りないこと。次に展示品が何の規則性もなく乱雑に陳列されていること。そしてこれらの大きな原因が、自然史の4部門、すなわち動物学、植物学、鉱物学、地質学の連携がないからであるということも素早く見抜く。
4部門の各管理者はそれぞれが各分野の専門家でしかなく、博物館主事とは直接にやりとりをするものの、他の部門で何が起こっているかについては、知識はいうまでもなく、興味もなかった。独立した4部門を調整・統合し、いかに自然史部門全体の発展に繋げるか。オーウェンはこの課題に精力的に取り組む。 ところが、管理者の中にはオーウェンより年長で経歴も上の専門家もおり、彼はなかなか難しい立場に立たされた。そこでオーウェンは慎重に戦略を立てた。例えばその2年後に、大英博物館に収蔵されている自然史コレクションの不適切な管理方法や保存環境に危惧の意を表し、120人の著名な科学者が署名運動を行っている。オーウェン自身は職員であることから署名はしていないが、オーウェンこそがこの運動の仕掛人だったと言われている。
59年、オーウェンは大英博物館評議会に、具体案とスケッチ画を合わせた新しい博物館の企画書を提出した。オーウェンは、適切な保存方法と研究開発のためにも新しい場所が必要であることを強く主張。同時に、クジラ科動物などの大きな標本の展示、自然人類学の導入や講演会などの新しい企画を盛り込むことを提案した。翌年評議会はオーウェンの企画を承認。しかし、まだこれは、プロジェクト完遂への長い長い道のりのほんの入り口でしかなかった。