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◆◇◆ 信念の政治家との強力タッグ ◆◇◆


英国政治史に偉大なる軌跡を残したグラッドストーン。没後はウェストミンスター寺院に葬られた
 ここでオーウェンにとって幸運だったのは、彼が見込んだグラッドストーンという人物が、信念とリーダーシップを備えた強い政治家だったことである。
グラッドストーンは蔵相という立場から、新博物館法案を通すための別の作戦を考えた。62年にロンドンのサウスケンジントンで大々的に開かれたロンドン国際博覧会の施設を、自然史博物館だけではなく、ポートレート・ギャラリーや他の博物館も含んだ公共総合博物施設に変身させるべく購入することを提案する。
翌年の議会での結果は、土地は購入するが、博覧会の建物そのものは購入しないというものだった。62年の博覧会施設は不人気で、51年のロンドン大博覧会(the Great Exhibition)の象徴ともなった華麗なクリスタルパレスと比較されては「醜い」と批判されていた。これが議会投票にも表れたわけだが、新博物館創設の推進派にとっては大きな前進だった。
グラッドストーンも、まずは土地が確保できたことに安堵を覚えていた。彼は政治家として国家に何が必要か、ロンドンを国際都市としてどう発展させていくかを常に考えていた。学術に貢献する自然科学の貴重な宝庫として、そして一般市民の教養の場としての自然史博物館の設立は、必須だと信じて疑わなかったのである。
博覧会の建物は取り壊され、跡地はさら地となり、プロジェクトは次の段階へと進む。さて、ここからどうやって実際に博物館を建てるのか。グラッドストーン、オーウェンをはじめとする関係者が協議を重ね、64年に博物館建築案のコンペを開くことになった。
見事、最優秀賞に輝いたのは、ルネサンス様式の図案で応募した英国陸軍工兵隊大尉のフランシス・フォークだった。ロイヤルアルバートホールやヴィクトリア&アルバート博物館建築にも関わった実力派である。ただ、審査員全員を唖然とさせたのは、醜いと不評だった、62年の博覧会施設は実はフォークの作品だったという事実だ。デザインが余りに異なることから、コンペに応募された博物館案は、フォークの弟子が描いたと言う説もある。 真相はどうであれ、フォークの案が選ばれたことには変わりはない。いよいよ新博物館を建てる準備が整おうとしていた。
ところが、あまりにも突然に、ある悲劇が訪れた。

◆◇◆ 悲劇の後に訪れた幸運 ◆◇◆

 建設工事が具体化されようとしていた矢先、フォークが過労死してしまったのである。残酷な運命のいたずらとも言える。
関係者の落胆ぶりは察するに余りある。しかし、ここで悲しみにくれて立ち止まるわけにはいかない。フォークに代わって博物館建築の契約を交わしたのが、リヴァプール出身の新鋭建築家アルフレッド・ウォーターハウス。自然史博物館を実現した3人目の男の登場である。
ウォーターハウスは、1830年、リヴァプールの裕福なクエーカー教徒の家に生まれた。優秀な家系で、2人の弟は現在大きく成長した企業の創立者である。弟エドウィンはサミュエル・プライスと共に会計事務所を開き、これが現在のプライス・ウォーターハウス・クーパーズに発展。もう1人の弟、セオドアは弁護士事務所を経営し、これは今日のフィールド・フィッシャー・ウォーターハウスにつながっている
。 ただ、アルフレッド自身は、2人の弟と異なり、芸術への興味のほうが強かった。正直なところ画家になりたかったようだが、現実的な思考も持ち合わせていたらしく、『妥協』して建築家というキャリアを選んだ。クエーカー教の学校で学んだ後、建築家リチャード・レーンのもとで修行し、フランスやイタリアとヨーロッパ各地を周って建築を勉強。十分な知識と経験を得て帰国、独立してマンチェスターに建築事務所を構えた。ウォーターハウスはまだ24歳、順風満帆な船出と言っていいだろう。その6年後の1860年には歴史学者トーマス・ホジキンの妹エリザベスと結婚した。
この結婚をはさんだ、マンチェスター時代の12年間は、ウォーターハウスにとって、きわめて充実した期間となった。ヴィクトリア朝の好景気と重なって建築ブームに乗り、事務所は大繁盛する。特に役所や裁判所などの公共施設の依頼が多かったという。ただ、ウォーターハウス自身、有能な建築家だったが、その成功の背景にはクエーカー教徒としてのコネクションが大きく影響していたことも確かなようだ。裕福なクエーカー教実業家たちから、郊外の邸宅など大きな注文を次々と受けていたのである。

ヴィクトリア朝において、ウォーターハウスは最も成功した建築家のひとりと言われている。彼の建築の特徴は、正確な設計と大胆かつ絵のように美しいデザイン、しかも常にその建物が都市に融合することを意識した点にある。その業績は高く評価され、1861年に王立建築家協会会員に、1888年から3年間は協会会長を務めている。(写真はロンドン、マリルボンの61 New Cavendish Streetに掲げられた、ブルー・プラーク)
 ロンドンに移ってからもウォーターハウスの人気は鰻上りだった。マンチェスター市役所、オックスフォード、ケンブリッジ大学のカレッジの数々、そしてロンドン市内では王立公認測量士学会、ユニバーシティーカレッジ病院などを設計していった。
そして65年、フォークスが急逝したことにより、自然史博物館という大仕事が舞い込む。一説には、政治的な理由から「王立裁判所 (Royal Courts of Justice, 通称'Law Courts')」のコンペに敗れたウォーターハウスへの『お詫び』として、この博物館の仕事があてがわれたといわれるが、いかなる理由があったにせよ、この選択が正しかったことは、すぐに証明された。
オーウェンとグラッドストーンの尽力により進められてきた、博物館創設のプロジェクトにいきなり加わることになったウォーターハウス。プレッシャーもかなりのものだったと想像できるが、ウォーターハウスには、期待に応えるだけの才能と精神力が備わっていた。彼は、フォークスのルネッサンス様式のデザインを、現在、我々が目にする通りのドイツ・ロマネスク様式に変換した。
73年、工事がスタート。完成には8年の年月を要したが、自然史博物館はウォーターハウスの『作品』の中でも最も広く人々に知られ親しまれている建物だろう。


公共建築物だけでなく、ウォーターハウスは一般住宅も数多く設計した。自宅も『自作』で、マンチェスターに1軒、バークシャーに3軒建てた(うち1軒は既に崩壊)。そのうちレディングにあるフォックスヒルハウス=写真=とホワイトナイツハウスと名付けられた建物は、現在レディング大学が所有している。
新ロマネスク様式の建物は、正面入口を中心とし、左右対称にデザインされているのが特徴的だ。アーチ状の入口の両脇には、上方に向かって天まで届けと言わんばかりの高い塔が2つそびえ立つ。その入口の左右には三階建てのウィングがそれぞれ翼を広げるように続く。どちらも長さは100メートル以上。さらに、正面入口から中に入るとステンドグラスの窓が教会を思わせるような長方形のホールが広がり、奥の堂々たる階段から2階のギャラリーへと、右からでも左からでも上れるようになっている。
ウォーターハウスは素材にもこだわった。耐久性が高く安価なテラコッタ(粘土を素焼きにしたもの)を、外壁のみならず内装にも存分に活用した。テラコッタは防水効果があり、ヴィクトリア朝の厳しい街の環境に適していた。同時に赤、ブルーグレー、淡い黄色と異なる色に焼き上げることが可能で、組み合わせることによって独特の色目を演出した。
加えて、テラコッタは溶かして型を取ることができるため、ウォーターハウスは一計を案じた。本物の標本を元にウォーターハウスがテラコッタ彫刻のデザインを考え、西側の動物学の展示場には現存する生き物の装飾を、東側の地質学の展示場には絶滅した種の彫刻を飾ったのである。また、自然史に因んだ彫刻を数多く造り、建物の外にも装飾を施した。画家になるという、随分昔にあきらめた夢を、密かにここで叶えたのかもしれない。