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◆◇◆ 博物館とは「人を驚かせるもの」 ◆◇◆


常に観光客でにぎわう「大英博物館」
 大英博物館評議会からは承認を得たものの、4つの部門長を含め博物館関係者のほとんどが、公共展示にはこぢんまりしたスペースで十分と考えていた。その一方で、彼らは保管と研究のためにより大きなスペースを希望しており、オーウェンの目指すものと大きな食い違いを見せる。オーウェンの前に立ちはだかる壁は高かった。
1860年の議会も、新博物館に関するオーウェンの構想に対して批判的だった。
ある国会議員は、「そのような大規模な展示場は一般客を疲れさせるだけだ。しかも、研究目的で訪れる科学者にとっては、展示が多過ぎると逆に不便で、どちらにも好ましくない」と反論している。「オーウェンのような優秀な科学者が、こんな馬鹿げた浪費計画を提案するとは遺憾である」と述べた議員もいた。
ブルームズベリーからの移転先として、当初は土地代も安くすむロンドン郊外が考えられていたのを、オーウェンがサウスケンジントンを候補に挙げたことへの反発も大きかった。 しかし、オーウェンは、この程度のことであきらめるような、聞き分けの良い人物ではなかった。 この議会での経験から、彼は2つのことを学んだ。まず、より戦略的にキャンペーンを進め、広い支持層を獲得する必要があることを痛感。そこで、大英博物館評議会に提出した企画書を改訂し、1862年に宣伝用のパンフレット『自然史博物館の増築とその目的について』として出版し、機会があれば人々に配った。
「博物館とは、人々を楽しませ、驚かせるもの。無知の人々には新たな教養を得る機会を与え、知識人には研究課題を見出す機会を与える場とすべきである」 オーウェンは一貫してこのビジョンを訴え続けた。
そして2つ目が、政治的支援の必要性だ。グラッドストーン蔵相を大英博物館の自然史部門に招待したのはこの議会の翌年のこと。従来から学術振興にも熱心だったグラッドストーンを敢えて選んだのだった。
反対派が多数を占める中、グラッドストーンはオーウェンを支持し続けた。ブルームズベリーの大英博物館を訪れて自然史コレクションの無残な姿を目の当たりにし、事態を改善しなければならないという使命感を抱いたためだ。 それでも議会はなかなか納得しなかった。62年の議会投票では、蔵相グラッドストーンと政府側は新しい博物館をサウスケンジントンに建設する法案を支持したが、反対多数で再び否決されてしまう。

オーウェン博士
リーダーとしての
ビジョンとマーケティング
  もしリチャード・オーウェン博士が優秀な科学者でしかなかったなら、自然史博物館の開館は実現したとしても、もっと遅れていたかもしれない。ずば抜けた知識や思考力を備えてはいても、常識が通じない世間知らずの「学者バカ」という、よくいそうなタイプの科学者とは異なり、オーウェンは、現実的かつクリアなビジョンとマーケティング戦略を持った、類まれなるリーダーでもあった。
収蔵品の展示方法について、「自然史博物館では、偉大な国家の偉大な首都に位置する博物館として、全ての来館者に分かり易いように、異なる種を関連付けて展示しなければならない」と論じた。そのビジョンは常に明確でゆるぎないものだった。何もかも展示するのではなく、標本の中から典型例、しかも保存状態の最良のものを選び、関連する種ごとに展示することを規則とした。現在は博物館における展示方法の常識となっているが、19世紀には、これは全く新しい発想だったのだ。オーウェンはこの斬新なアイディアを建物の中にどう実現するか図面に描いて人々に説明した。
ビジョンをともなったマーケット戦略も、オーウェンの得意とするところだった。商売で成功していた父親の才覚を、しっかり受け継いでいたようである。
さらに「ターゲットとなるマーケットはどこか」を探った。時は産業革命。文明の進歩と異文化への関心から大英帝国では、中産階級知識人の間で収集家やアマチュア学者が急増していた。このマニアックなグループ層にオーウェンは着目した。このグループ層こそがオーウェンの博物館を訪れて、展示品と自宅のガラス箱に収集している蝶や鉱石とを比較調査したがっている、ということをオーウェンは見抜いていた。博物館を訪れたことをきっかけに、趣味が高じて本格的に特定の分野について研究の道に進む人さえ出るであろうことも予想していたとされる。
つまりオーウェンは、国家のプライドと中産階級という2つの異質な、しかし強力な支持源に働きかけたのだ。産業・植民活動を世界規模で展開する大英帝国。成功の象徴としての大規模な博物館創設の計画は魅力があり、徐々に支持層が増えていったのも、オーウェンの狙い通りだったと考えて良いだろう。
自然史博物館の創設にあたり大きな役割を果たしたオーウェンだが、人の功績を自分のものと偽って主張するなど、人間性について問題があったとされ、やがて学会からも孤立、寂しい晩年を送ったというのは残念なことである。