反ユダヤ主義の国との決別

 

 5月下旬のある晴れた日のこと。
「アダム、君に来客だよ」
そういわれてアーノルドは玄関へと案内された。そこには、懐かしい2つの顔があった。
ソーニャとユレクだった。ふたりは結婚していた。
アーノルドとソーニャは、飛び上がらんばかりに再会を喜んだ。
「私たちといっしょに住まないか」
恩人のゴリク司祭のもとを離れるのはつらかったが、アーノルドは、修道院を『卒業』した。
チェルストホヴァの南、75キロのところにある町で、ふたりは新生活を始めていた。ユレクの故郷である町からも近く、3室あるフラットは、ナチス将校が直前まで使っていたもので快適だった。
アーノルドは再び学校に通い始め、平和な日常が戻ってきたかのように見えた。
しかし、ポーランドでは反ユダヤ主義がまだ根強くくすぶっていたのである。戦後、約25万人のポーランド出身ユダヤ人が、自分の住んでいた場所に戻ってきたとされ、そこに住みつくようになっていたポーランド人たちと様々な摩擦が生じた。ポーランド人の中には、ナチス・ドイツによって多くのユダヤ人がいなくなって良かったと、声高に言う者もいたばかりか、ポーランド人によるユダヤ人の虐殺事件も起こった。
修道院でいっしょだった少年からひどい中傷の手紙を受け取ったこともアーノルドにとってショックだった。彼は自分がユダヤ人であることを、改めて意識せざるを得なかった。アーノルドはゴリク司祭に、カトリック教徒であることをやめる旨を手紙で告げた。
9月3日にはソーニャが長男ルードヴィックを出産した。フルフト一族にとって、十数年ぶりの新しいメンバーだ。希望の光が差し込んでいたが、ここポーランドにいては、ユダヤ人である限り、命に危険が及ぶ恐れがある―ユレクたちは次なる道を画策していた。
アメリカ合衆国への移住ビザを申請したものの、既に規定の数を超えているとして受領されなかった。4人でまとめての移住を考えていたユレクだったが、容易なことではないのは明らかだった。
ユレクは、戦時中に使っていたルートを通じて、ソロモン・ショインフェルド師に連絡をとった。ユダヤ教の律法学者(ラビ)である同師は、第二次世界大戦中、英国政府に働きかけて数え切れないほどのユダヤ人を救った活動家として知られていた。同師が、英国に移住させる戦争孤児を募っているという。アーノルドは、すぐさま同師の『面接』を受けた。
英軍の制服に身を包んだショインフェルド師は知的かつ覇気のある人物だった。堂々とした立ち居振る舞いからは強い信念がうかがえ、アーノルドもすっかり心酔してしまった。未知の国、英国へ。
ユレクとソーニャから別れ、ただひとりで言葉も分からぬ国へと渡る不安はもちろん大きかったが、ポーランドにいては未来が望めない。ショインフェルド師の勧めを受け入れ、アーノルドは英国行きを選んだ。
1946年4月。ワルシャワ経由でバルト海沿岸のグディニャから、スウェーデン籍の「ラグネ」号に乗船し、出発。
この時、英国政府は18歳以下の青少年、125人分のビザを約束していた。実際には20歳を過ぎた者や、妊娠4ヵ月の女性まで、わけありの「戦争孤児」も含まれていたが、乗船した約120人すべてが、新天地での人生を切望していたことは確かだった。
途中、嵐に見舞われもしたが、「ラグネ」号は無事テムズ河へと到達。タワー・ブリッジが橋げたをあげて同号を迎え入れてくれた。14歳のアーノルド・フルフトは、父ヤクブが憧れた英国の地に、ひとり降り立ったのである。


戦争中、多くのユダヤ人を救った、
ソロモン・ショインフェルド(Solomon Schonfeld)師。

 

英国人「アーノルド・フルトン」の誕生

 


腕の良い背広作りの職人だった、父ヤクブ(Jakub Frucht)と母、スィルトゥラ(Cyrtula)。1938年の写真。
 アーノルドの猛勉強が始まった。まずは英語を習得せねばならない。「th」の発音などに苦労する一方、学校の規則の多さに反発しながらも、充実した日々が過ぎていった。
17歳になり、イズリントンにあるノーサンプトン・ポリテクニックに入学。エンジニアとしての資格取得を目指す道に進んだが、フルタイム・コースではなかったため卒業までに4年を要した。
道のりはまだまだ平坦ではなく、アーノルドはまたひとつ、選択を迫られることになる。卒業をひかえたある日、数学の講師に進路相談をした時のことだ。
就職を希望する先として航空産業界大手の企業の名を告げると、
「それは難しいね」
と、にべもない言葉が返ってきた。成績にはかなりの自信があっただけにアーノルドは落胆を隠しきれなかった。
講師はいたずらっぽい目をアーノルドに向けて続けた。「アーノルド、君の成績は悪くない。問題は、その苗字なんだよ。フルフト、というドイツ語的な響きの名前をどうにかしないと、英国での就職は難しいだろう」
ナチス・ドイツが降伏してから7年が経っていたが、英国民のドイツ嫌いはまだ薄れていなかったのだ。しかし、姉ソーニャ以外、すべてを戦争で失ったアーノルドにとって、苗字はただひとつ残された大切なものだった。また、苗字を変えることは両親に対する裏切りではないか。
彼は数週間悩んだ。
父もビジネスマンだった。ビジネスマンは時として難しい決断を迫られるものだ。父ならそれを分かってくれるだろう。
アーノルドは苗字を変えることを決めた。「F」で始まる名前を探したところ、1765年生まれの米国人でロバート・フルトンと名乗る発明家がいたことを見つけた。商業ベースの蒸気船の開発に初めて成功した人物だという。弁護士のもとを訪れ、「フルトン」姓に変える手続きをとった。
1954年、英国籍を取得。まっさらの濃紺のパスポートには「Arnold Fulton」と記されたのだった。


アーノルドらを乗せてテムズ河に入った、スウェーデン籍の船、「ラグネ」号。