自由を求めて

 その死は突然やってきた。
 一八九八年の八月末から、エリザベートはいつもと変わらず保養に出かけていた。今回の旅先はスイスのレマン湖畔東端のコーCauxだった。九月九日、知人を訪ねた後、レマン湖最南西端のジュネーブの町を女官同伴で観光し、その夜はジュネーブに宿をとった。
 翌日、宿屋のすぐ傍の船着場から定期船でコー方面へ戻る予定だった。
 午後一時四十分の船出に間に合うよう、女官とともに足早に歩いている途中、エリザベートは駆け寄ってきた若者と激しくぶつかり、仰向けに倒れた。あまりに突発的な出来事に驚き、呆然としているエリザベート。女官は宿屋に一旦戻って休むように勧めるが、エリザベートは大丈夫といって起き上がり、そのまま船着場に向かう。
 しかし、タラップを上り、船上に至ったところで、エリザベートは目眩に襲われ、卒倒してしまう。女官は動転しつつも、乗船者の中に看護婦を見つけ、応急処置をさせた。すると、一瞬意識を取り戻したエリザベートは「いったい何が起こったのかしら」とかろうじて答えたという。女官はその後、エリザベートの胸をはだけ、心臓付近に小さな傷があることを発見。船はすでに出港していたが「このお方はオーストリア皇妃エリザベートさまです! ただちに引き返してください! 神父さまもお医者さまも立ち会わずに落命させるわけにはいきません」と船長に必死で懇願した。
 船はジュネーブに戻り、医者がかけつけたが時すでに遅し、エリザベートは二度と目を覚ますことはなかった。こうして一八九八年九月十日午後二時二十分、エリザベートは永遠に帰らぬ人となった。六十歳だった。
 イタリア人の無政府主義者でスイスに移住していたルイジ・ルケーニという人物が、エリザベートに襲いかかった若者だ。凶器はヤスリで、先が三角形になるよう入念に研いであった。ヤスリなどで人が殺せるのかと思うかもしれないが、ルケーニの一突きはエリザベートの胸部皮下八・五センチにも及び、肋骨を砕いて肺から心臓を貫通、ただし、経路は狭かったため、血液は一気に噴出せず、心機能が停止するまでにはしばらくかかった。エリザベートがルケーニに刺された後、卒倒するまでに数十メートルも歩くことができたのもそのためだ。
 当初、ルケーニの暗殺対象はフランス王位継承候補者のオルレアン公アンリだったが、オルレアン公は予定を変更してジュネーブへの訪問を中止。そこへ偶然、新聞記事でエリザベートがジュネーブに滞在していることを知り、これは格好の餌食だとルケーニはほくそ笑んだ。母親に捨てられ孤児院で育ち、貧しく不幸な境遇にあった彼は、十代の頃から共和主義者を名乗り、王侯貴族を憎んだ。「王族を殺したかった、王族なら誰でも良かった」と供述している。スイスでは死刑が廃止されているため、ルケーニは終身刑を下されたが、判決に「無政府万歳!くたばれ貴族階級!」などと叫んだという。もともと死刑を希望していた彼は、十一年の獄中生活の末、ベルトを用いて首を吊り自殺した。
 つまり、エリザベートは無差別殺人という、きわめて馬鹿げた理由のために無駄な死を遂げてしまったのだ。偽名を使い身分を隠して宿泊していたにも関わらず、どこから情報が漏れたのか、新聞に居場所を書かれたがためにルケーニの目に留まったことは皮肉としか言いようがない。


逮捕当時のルイジ・ルケーニ

 主席副官から知らせを聞いたフランツ・ヨーゼフは悲しみに崩れ、「わたしがシシーをどれほど愛したか、そなたにはわかるまい」と嘆いたという。アナーキストが多いからと、エリザベートのスイス行きを懸念していた彼には悔やんでも悔やみきれない結果となってしまったのだ。
 電報で知らせを聞いたヴァレリーは驚きを隠せなかったものの、あっという間に苦しまずに逝くことができ、ようやく母が長年望んでいた世界に旅立ったのだと一種安堵感に似たような心境に至ったという。
 エリザベートはかつて、いつか死ぬようなことになったら、遺体は海に沈め、墓はコルフ島の波打ち際に建ててほしいと願っていたという。もちろんこの願いは皇妃という立場上、叶えられるはずもなく、亡骸はカプツィーナ教会の地下霊廟にハプスブルク家の先祖とともに安置されることになるのだが、命が果ててもなお、エリザベートは自由を求めようとしたのである。
 彼女の人生を、華やかで自由気儘と羨んだり、傲慢で無責任と揶揄したりする人も少なくない。自然を愛し、芸術を愛し、常に理想を追い求めた孤高の人は、旅を続けることでしか本当の安らぎを感じられなかった。常軌を逸脱した彼女の美への執着や思想も、伝統やしきたりに屈しまいとする心の叫びだったのかもしれない。
 フランツ・ヨーゼフはそんな彼女の気高さを愛し、自分とは対象的な奔放さ、斬新さに惚れこんでいたものと思われる。周囲から何と言われても彼女を支え、彼女の自由を尊重したのはそのためだろう。


晩年のフランツ・ヨーゼフ1世

 晩年は、死への願望をつのらせ、亡き父母や妹ゾフィー、ルートヴィヒ二世や皇太子ルドルフのもとへと早く旅立ちたいと望んでいたエリザベート。その孤高の魂が自由を得て安らかに眠っていることを祈るばかりだ。
 民族融和に奔走してきたフランツ・ヨーゼフだったが、民族独立運動は激化するばかりで、エリザベートの死後、帝政は今までにない存亡の危機にさらされる。そんな中、皇位後継者であった、甥のフランツ・フェルディナンド大公がサラエボでセルビア人に暗殺され、帝国はセルビアを相手に宣戦布告、これを引き金に第一次世界大戦が勃発した。ヨーロッパ中が揺れる中、フランツ・ヨーゼフは大戦中の一九一六年に肺炎をこじらせ八十六歳で逝去。その後、カール一世が即位するも、二年後にはオーストリア領であったチェコスロバキア、ハンガリーが続々共和国を宣言、帝国は無条件降伏せざるを得ず、カール一世は退位し、国外へと亡命した。
 帝国は解体、共和制へと移行し、こうして、六百五十年にわたるハプスブルク家の君臨の歴史に幕が引かれたのである。 (了)


カプツィーナ教会の皇帝納骨所に安置されたエリザベートの石棺(手前)
とその隣に並ぶフランツ・ヨーゼフの石棺

ひとり歩きするシシー像 人気の火付け役


『エリザベート ロミー・シュナイダーのプリンセス・シシー』オーストリア/西ドイツ 101分出演:ロミー・シュナイダー、カール=ハインツ・ベーム、マグダ・シュナイダー、グスタフ・クヌート監督:エルンスト・マリシュカ 
 エリザベートは今でこそ国民的ヒロインとしてもてはやされている感があるが、存命中は公務をほったらかしにするわがまま皇妃というレッテルを貼られ、むしろ非難の的になることのほうが多かった。「愛されるシシー像」を生むきっかけとなったのは、1955年に製作された映画『プリンセス・シシーSissi』。この映画が大受けし、翌年『若き皇后シシーSissi - Die junge Kaiserin』、翌々年に『シシー ある皇后の運命の歳月Sissi - Schicksalsjahre einer Kaiserin』と連作が生まれ、この3部作は今でもオーストリア、ドイツを中心に毎年クリスマスに放送されるほどの名作となった。
この映画の大ヒットにより、「お転婆で危なっかしいが愛くるしい」エリザベートのイメージが定着し、さらに92年にはミュージカル版「エリザベート」がウィーンで初演され、これもオランダ、ドイツ、ハンガリーで続演されるほどの大成功を遂げた。日本では宝塚歌劇団が96年から2000年に公演し、超人気演目として知られている。こうして、史実の姿とは程遠い、脚色されたシシーの虚像がひとり歩きするようになった。
ちなみに、シシー役を演じたロミー・シュナイダーはこの3部作で一躍大スターになり、彼女もシシーの愛称で呼ばれた。私生活では、無名時代のアラン・ドロンと婚約しつつも破局し、その後は、2度の結婚も離婚に終わった上、最初の夫が自殺し、息子も事故で亡くすなど、エリザベート並みの波乱万丈な人生を送った。