親愛なるものの死

ルートヴィヒ2世  三女のマリー・ヴァレリーが生まれた頃には、母后ゾフィーも最晩年にさしかかっており、かつての威厳を失っていた。エリザベートはこの娘だけは自分の思うように育てようと、手塩にかけ溺愛した。三十代、四十代のエリザベートは、さらにドイツ、フランス、イタリア、英国、ギリシア、地中海の島々へと旅に明け暮れ、ヨーロッパ中のありとあらゆる温泉保養地を訪れるのだが、どこに行くにも出来る限りヴァレリーを同行させたという。兄のルドルフや姉のギーゼラとは比べ物にならないほどの愛情が注がれ、ヴァレリー本人ですら後に「戸惑うほどだった」と日記にしたためている。
 ヴァレリーが残したこの日記は、エリザベートの真の姿を今日に伝える貴重な資料となっている。彼女は母の一番のお気に入りであり、数少ないよき理解者でもあったからだ。当時としてはきわめて型破りで人嫌いだったエリザベートには、心を開ける友人がほとんどいなかったといわれている。
 それでも、同じくヴィッテルスバッハ家出身のバイエルン国王ルートヴィヒ二世とは、王家のしきたりや束縛を嫌い、芸術・文学・乗馬を好むという共通点もあり、「同類」としての絆を深めていく。ルートヴィヒ二世といえば、ロマンチック街道のハイライトとして知られるノイシュヴァンシュタイン城など、国費を散財して夢の城を建設した「狂王」あるいは「夢想王」として名高い。彼もまた、その美貌に反して公式の場に出るのを嫌い、宴の際は巨大な生花や扇子で顔を隠したという。同じ気質の二人は意気投合し、夢の世界や愛する芸術家について語り明かすこともしばしばだった。ルートヴィヒ二世にとって、八歳年上のエリザベートは憧れの存在であり、唯一自分の夢の世界を共有することのできる理想の女性として受け止めていたようだ。すでに皇妃となっていたエリザベートは、ルートヴィヒ二世に妹のゾフィーとの結婚を勧め、二人は婚約まで漕ぎつけるが、同性愛者だったと伝えられる彼はこれを一年と経たない内に破棄してしまう。これが原因で、二人は一時絶交するものの、お互いがお互いのよき理解者であった二人の関係はすぐに修復されたという。
 しかし一八八六年、ルートヴィヒ二世は謎の死を遂げてしまう。禁治産者(*禁治産者―心神喪失の状態にあるため裁判所の審判により禁治産の宣告を受け、自分の財産を管理することや処分することを禁じられた者)宣告を受けたルートヴィヒ二世が、幽閉先のシュタンベルク湖畔で精神科医とともに水死したのである。医師には首を絞められた跡があり、ルートヴィヒ二世の入水を止めようとした医師を絞殺した後、入水自殺を図ったとみられている。
 エリザベートは悲しみのあまり国葬に参列できず、その後も深い虚脱感に襲われた。心の会話を交わすことのできた彼の死は、彼女にとって、現世での自分の存在を無意味なものに感じさせた。「彼は決して精神病なんかじゃない。観念の世界で夢を見ていただけ…」と嘆き悲しんだという。
 事実、ルートヴィヒ二世は精神病患者だったのではなく、政治的陰謀にはめられた可能性が高い。当時、バイエルン王国にはルートヴィヒ二世の法外な浪費により恐慌が起きていたのだが、彼の叔父、ルイトポルトを始めとする家臣たちが王の廃位を計画し、医者に偽りの診断をさせたという説が有力なのだ。エリザベートはその後一生涯ルイトポルトを許さなかったという。
 五十歳を目前にエリザベートを襲った悲劇は彼女に身を砕くほどの衝撃を与えた。そしてその悲嘆から抜け出す間もなく、今度は皇太子ルドルフが自殺してしまう。
  心中をとげた1889年に撮影されたルドルフ皇太子の写真  ルドルフが六歳の頃、母后ゾフィーとフランツ・ヨーゼフがあまりに厳しく手荒な教育係をつけたため、不憫に思ったエリザベートは二人に反発し、温厚な教育係に替えさせたことがあった。ルドルフは気弱で繊細な子供だったため、確かにスパルタ的な指導は逆効果だった。そのためルドルフは「武」よりは「文」に秀でた少年に育ち、とくに鳥類学では類まれな論文を仕上げ、名誉博士号などを獲得している。しかし、その文才が裏目に出て、後に保守的な体制や国家主義などを批判するようになり、フランツ・ヨーゼフとは真っ向から対立する考えを持つようになってしまったため、ルドルフは政治に関わる一切の要職から外されることになる。彼も母親と同様リベラルな考えを持ち、その点では母親とまったく同じ理由で宮廷生活を無意味で退屈なものに感じていた。そうして二十三歳で結婚するも、家庭をかえりみず放蕩生活を送り、終いには淋病を妻にうつして子供を産めない体にしてしまうなど、不肖ぶりに拍車がかかっていくのである。この頃からルドルフは、周囲の人間に自殺願望を吐露していたという。
 こうして一八八九年、知り合ったばかりの男爵令嬢を心中相手に拳銃自殺を図り、ルドルフは三十年の生涯に幕を閉じる。
 「ルドルフを死に駆り立てたのは、わたしの家系がひく血のせいだ」とエリザベートは自分を責め、打ちひしがれた。ルートヴィヒ二世の時と同様、国葬に参列する気力もなく、その後もただただ悔恨と絶望に浸ることになった。
 ルドルフの死以降、エリザベートはルドルフの巻き毛をロケットに入れて常に首からさげ、彼の遺書を肌身離さず持ち歩いた。ヴァレリーの日記には、この頃のエリザベートは「悩むことが日課になっていた」と綴られている。
 この立て続けに起きた愛する者の死、それも自殺による死は、エリザベートに死への願望を募らせることになる。そうでなくとも、美に異常なまでに執着していたエリザベートにとって、老いること自体が苦痛で、三十歳を過ぎてからは肖像画を描かせることも写真を撮らせることも極力拒んできた。中年以降はただでさえふさぎこむことが多く、旅以外に生きる喜びを感じられなくなっていた彼女は、ルドルフの死以降、常にべールを被り、大きな扇子で顔を隠し、どこに行くのも喪服で通したという。

ハンガリーの大スターシシー


ハンガリー王妃戴冠時のエリザベート。1867年。

 エリザベートは、1857年に初めてハンガリー領を訪れて以来の「大のハンガリーびいき」で、当時も今もハンガリーで絶大な人気を誇る。その最たる理由は、エリザベートがフランツ・ヨーゼフに働きかけ、独立運動が高まっていたハンガリーに内政権が与えられ、政治的独立が認められたからだ。これが1867年のオーストリア=ハンガリー二重帝国の誕生である。それまで、オーストリア帝国やオスマン帝国などに分割・被支配を強いられてきたハンガリーが現在平和な独立国家を築けているのは、エリザベートによるところが大きいわけだ。
もともとハンガリーとは何の縁もゆかりもないエリザベートがなぜ、ハンガリーをそこまで愛したのかは定かではないが、ハンガリー嫌いのゾフィーに対するあてつけとも、ハンガリー王国の初代首相となったアンドラーシ伯爵と恋愛感情にも近い友情を育んでいたからとも噂される。エリザベートはハンガリー語の習得に励み、愛娘ヴァレリーをブタペストで産んだ。エリザベートは腹心の御付女官をすべてハンガリー国籍の者にし、ヴァレリーにもハンガリー出身の教育係をつけ、ハンガリー語で育てるという徹底ぶりだったという。
この偏愛ぶりに、実はヴァレリーはアンドラーシ伯爵との間にできた子供なのではないかという噂もまことしやかに流れたが、年を重ねるにつれ、ヴァレリーが子女の誰よりもフランツ・ヨーゼフに似てきたことから、次第に噂も消滅した。


1890年、22歳のヴァレリー