●サバイバー●取材・執筆/長谷川ゆか・本誌編集部
■ロンドン・テムズ河沿いに建つテート・ブリテンやテート・モダンなど、英国内に4つの美術館を構える国立美術館グループ「テート(Tate)」。同館の歴史は19世紀ヴィクトリア朝時代、革新的な砂糖の精製業技術で巨万の富を築いたリバプールの実業家ヘンリー・テートが、自身の美術コレクションをナショナル・ギャラリーへ寄贈しようとしたことから始まっている。今回は美術館シリーズ第3弾として、テート誕生の物語をお届けする。
第1弾
第2弾
類まれな商才
ロンドンに2つ、リバプールとコーンウォール(セント・アイヴス)にそれぞれ1つずつ、合計4館の美術館を構えるテートだが、最初に開館したのは、ミルバンクに建つ白亜の建物「テート・ブリテン」だ(写真上)。かつて「テート・ギャラリー」と呼ばれていた同館は、16世紀から近代までの英国の美術作品を収蔵しており、なかでも英国を代表する風景画家J・M・W・ターナーのコレクション数は世界一を誇っている。2000年に元発電所を活用した現代美術の殿堂「テート・モダン」がサウスバンクに誕生したのに伴い、テート・ギャラリーから現在のテート・ブリテンへと改名されている。
同館が産声を上げたのは、ヴィクトリア朝後期の1897年のこと。この美術館の礎をつくった人物、ヘンリー・テート卿とは一体どのような男だったのか。
ヘンリー・テートはヴィクトリア女王が誕生したのと同じ1819年、ランカシャーの町チョーリーで牧師の次男として生まれた。プロテスタント教会の聖職者であった父は寛大で博学多才、地元の有力者から集めた寄付金で恵まれない子どもたちのためにプライベート・スクールを創設するなど、慈善活動に力を入れており、多くの人々から尊敬されていた。
ヘンリーは13歳のとき、当時リバプールで食料品店を構えていた兄のもとに、見習いとして送られることになる。それから7年、商品知識にはじまり、接客や会計の仕方など、様々な商売のノウハウを実践で身につけていき、20歳でリバプールに自らの名「ヘンリー・テート」を冠した食料品店をオープン。後に大事業家となるヘンリーのキャリアの、輝かしい幕開けであった。
売上げはあっという間に兄の店を抜き、14年間で彼の擁するチェーン店舗は6軒にまで達する。小売りの食料品店から出発したビジネスだったが、やがて食品卸売業へ至るまで事業を発展させていった。
砂糖ビジネスに挑戦
17~18世紀にかけて、英国をはじめとするヨーロッパ諸国で喫茶の風習が広がり、なかでも英国においては紅茶に砂糖を入れて飲むことが地位や権力の象徴となり、砂糖の需要が急激に高まった。とくに、1655年に英軍がカリブ海に浮かぶスペイン領ジャマイカを占領すると、現地で大規模な砂糖プランテーション(大規模農園)を展開。その影響で18世紀中期には、英国人はフランス人の8~9倍の砂糖を消費するほどの「砂糖消費大国」になっていた。そうした背景の中、1673年にリバプールに初の砂糖製造会社が建設される。以来この地は、西インド諸島や西アフリカとの貿易の拠点として中心的な役割を果たし、目覚ましい発展を遂げていくことになる。
リバプールの食料品ビジネスで名声を得たヘンリーが目をつけた新事業が、この「砂糖精製業」であった。まず手始めに、リバプールに9社もひしめき合っていた精製会社の中で、比較的小規模の1社とパートナー契約を結んだ。そして、業界新参者である自分も入り込んでいける余地があると見て取ると、自身の食料品店6軒すべてを部下たちに売却または譲渡し、砂糖ビジネスに本腰を入れた。その後10年で、パートナー契約を締結した会社の経営権を全面的に取得。社名を「ヘンリー・テート&サンズ(Henry Tate & Sons)」に変更し、ついに40歳で自身の砂糖精製会社を設立したのだった。
衝撃! 角砂糖の登場
類いまれなる探究心を持ち、常に新しい発想を追求することに長けていたヘンリーは、問題点を的確に分析し、技術改善に努めることを惜しまなかった。3年後に新たに建設した大規模な精製工場では、低温でゆっくりと煮詰めて上質の砂糖を製造するという先進的な技術を開発。実は、英国産の砂糖は「特徴的な味がない」として、世界的にはあまり評判が良くなかったのだが、この新テクノロジーによってしっとりとした顆粒をつくり出せるようになり、英国の砂糖の評価は飛躍的に高まった。
さらに、満を持してロンドンへ進出するにあたり、ドイツ人の発明家オイゲン・ランゲンから角砂糖を製造する特許を取得。1878年に東ロンドンのテムズ河沿岸シルバータウンに新工場を設立し、角砂糖製造のオペレーションラインを確立させた。
それまで、砂糖といえばシュガーローフ(sugarloaf)とよばれる煙突のような山型をした大きな塊が一般的で、それを食料品店の店頭で砕いた後に小売りし、各家庭でさらに小さくして使っていた。それだけに、当時ヘンリーが販売しはじめた角砂糖は、英国のキッチンに大きな旋風を巻き起こした。この大成功を経て、彼は長年住んだリバプールを離れ、ロンドンに居を構えるようになった。
慈善家としてアート収集
有数の事業家として莫大な資産を保有するようになったヘンリーだったが、慈善活動に熱心で多くの尊敬を集めていた偉大な牧師の父の影響は大きく、常に心に残っている言葉があった。それは「恵まれない子どもたちには、恵まれている人が何らかの支援をするべし」――自身の資産が豊潤になるほど、この思いは強くなっていった。
慈善家としてのヘンリーの活動は、リバプール大学やマンチェスター大学、オックスフォード大学、リバプールの病院への寄付のほか、ロンドンでも図書館創設の支援、東ロンドンにテート基金を設立するなど、枚挙に暇がないほどだ。これらの寄付を、思慮深く慎重に、そして時には匿名で行った。しかし、彼が最も情熱を注いで種を蒔き、現代において大輪の花を咲かせているのは、芸術家への支援だろう。
東ロンドンの工場が本格的に稼働を開始すると、ヘンリーはピカデリーにあるロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(RA/王立芸術院)によく足を運ぶようになった。とくに、この芸術院が開催する恒例の夏の展示会「サマー・エキシビション」では常連客となり、当時の現代美術に関する知識を収集し、美術作品に対する審美眼を磨いた。やがて絵画や彫刻など、注目の新進作家たちの作品を蒐集するようになっていく。作品の購入は、買い手の趣味のためだけでなく、若手作家や才能があるにもかかわらず埋もれてしまっている作家たちを援助する側面もあった。なかでも「オフィーリア」の絵画で知られる画家ジョン・エヴァレット・ミレイとは親友と言えるまでに親しくなり、彼の創作活動を支援するパトロンとして深い交友関係を築いている。
こうして彼の現代美術コレクションは徐々に増えていき、自宅の一部を改造して小さな私設ギャラリーを設え、日曜日には一般の人々に開放するまでになった。
巨額の資産を投資
質の高い美術品が手元に集まるにつれ、ヘンリーは「これらの作品はもっとたくさんの人に鑑賞されるべきだ」と考えはじめる。そして1889年、ミレイの代表作「オフィーリア」を含む65点の作品を「ナショナル・ギャラリー」に無償で提供することを提案した。ところが、ナショナル・ギャラリー側からは「所蔵するスペースがない」として、申し出を退けられてしまった。
この文化的慈善プロジェクトは、無念にも暗礁に乗り上げるかのように見えた。しかし、この出来事を迅速に取り上げ、社会的な運動にまで発展させたのが、タイムズ紙であった。時を同じくして、パリに現代美術作品を展示する「リュクサンブール美術館」がオープンしたことも追い風となり、同紙は「英国も隣国のフランス同様、自国の現代美術を一堂に展示することのできる美術館の創設が必要である」と声高々に訴えのだ。ヘンリーはこれらの動きに呼応するように、新美術館設立のために巨額の寄付をすることを確約。これを耳にした英政府はやっと重い腰を上げ、「英国現代美術のためのスペース」をロンドン内につくることを発表した。
ナショナル・ギャラリーにしてもそうだが、それまでの英国にある美術館は「世界各国の古い歴史的な絵画を収蔵・展示する場所」であり、当時の英国の世相を表した自国の現代美術を集めた美術館はなかったのである。まさに『歴史が動いた』瞬間だったと言える。
こうして1897年、テムズ河畔ミルバンクの元刑務所であった建物を大改装して、英国の美術品だけを集めたナショナル・ギャラリーの分館「ナショナル・ギャラリー・オブ・ブリティッシュ・アート」が開館した。ヘンリーの自宅に飾ってあったミレイの「オフィーリア」、ジョン・ウィリアム・ウォータハウスの「シャーロットの乙女」などを含むラファエル前派を中心とした作品65点に加え、ナショナル・ギャラリーが所蔵していた一部の英国絵画、さらにターナーの死去後に遺贈された1000点以上に及ぶ絵画やドローイングもまとめて一般公開された。
そしてオープンから35年が経った1932年には、生みの親ヘンリー・テートの名を冠した「テート・ギャラリー」へと改称され、ナショナル・ギャラリーから独立した組織として新たな出発を果たしている。
ヘンリーは7人の息子と3人の娘の父親であり、また晩年には再婚もしているが、彼の私生活はほとんど公にされていない。大のメディア嫌いとしても非常に有名で、数々のスピーチはすべて代理人に任せ、自身が表に出ることなかった。だが、1897年にエドワード皇太子(後のエドワード7世)を招いて行われた念願の新美術館のオープン・セレモニーでは、彼自ら公の場に顔を見せ、短いスピーチを行っている。ヘンリーの美術館建設に対する情熱が伝わってくるエピソードである。
テート・ブリテン必見の逸品5選
ジョン・エヴァレット・ミレイ
「オフィーリア」
Ophelia
1851~52年/Room 10
ジョン・シンガー・サージェント
「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」
Carnation, Lily, Lily, Rose
1885~86年/Room 8
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
「シャーロットの乙女」
The Lady of Shalott
1888年/Room 8
ジョン・コンスタブル
「草原から見たソールズベリー大聖堂」
Salisbury Cathedral from the Meadows
1831年/Room 6
J.M.W.ターナー
「ノラム城・日の出」
Norham Castle, Sunrise
1845年/Room 34
Travel Information
Tate Britain
テート・ブリテン
Millbank, London SW1P 4RG
www.tate.org.uk
開館時間:10:00~18:00(金曜20:30まで)
最寄り駅: Pimlico / Vauxhall
入場無料(※企画展は有料)
週刊ジャーニー No.1328(2024年2月8日)掲載