
●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

1953年に起こった大洪水を機に、ロンドンを水害から守るための「バリア」を構築する計画が本格化する。
1974年にようやく工事がスタート。
8年の工期をかけて建設され、ついにテムズ・バリアが完成したのは82年のことだった。
先週号からに続き、ロンドンの守り神ともいえる、この防御システムについてお届けすることにしたい。
襲い来る高潮との闘い
1953年の洪水は「The Great Flood」とも呼ばれるほど、甚大な被害をもたらした。テムズ河口にあるカンヴィ・アイランドCanvey Islandという村では高潮の影響をもっとも顕著に受けた海岸沿いでは2・4メートルの高さの水が押し寄せ、結果的に58人が落命した。英国全体での犠牲者は307人にのぼり(オランダはさらに深刻で1836人が犠牲となった)、2万4000世帯が浸水した。
ご承知の通り、豪雨も洪水をもたらす原因となり得るが、英国や日本をはじめ、海岸線を有する国・地域についていえば、洪水を引き起こす最大の敵となるのは高潮(storm surge)。台風など発達した低気圧が海岸部を通過する際に海面が上昇するのに加え、岸に向かって吹く強風によって、この海水が大きな波となって吹き寄せられることで生じるのだという。
英国についていえば、人的・経済的に被害がもっとも甚大になるのは、やはり首都ロンドン。この大都市を襲う洪水を防ぐため、堤防を高く、かつ強固にすることがまずは提言されたがテムズ河は長い。より効果的に洪水を防ぐ手立てはないか―。1966年、河口からテムズ河をさかのぼってくる高潮を食い止める「バリア」の建設を提言するレポートがまとめられた。バリアを築くだけの土木・建築技術も求められるわけだが、その意味では機が熟していたといえるだろう。72年には「the Thames Barrier and Flood Protection Act」(テムズ・バリアおよび洪水対策条例)が定められ、「テムズ・バリア」の名前がここで登場。一大プロジェクトが本格的に始動するに至った。

最初の難関はテムズ・バリアをどこに設置するかを決定することだった。テムズ河はウネウネと曲がりくねっている上、川底は粘土質である。比較的、両岸が平行に近い形で向き合っている場所、そして、川底は巨大なバリアを設置するに耐えるだけの固さを有する場所でなければならない。念入りな調査が行われ、選ばれたのは、カナリーウォーフ、O2アリーナよりさらに東にあるウリッジだった。

やがて、ガス栓からヒントを得たというチャールズ・ドレイパー氏(Charles Draper)のデザインが採用されることが決定。平常時には川底と同じレベルにおさまり、大型船舶の航行も妨げないというユニークな回転開閉式ゲート「rising sector gates」(仕組みについては下記コラム参照)を6門備えるバリアの建設が始まった。1974年のことである。あの53年の悲劇から20年余りが経っていた。
24時間365日、ロンドンを守る砦

工事開始から8年。1982年10月、テムズ・バリアがついに完成した。総工費は5億3500万ポンド(現在の16億ポンドに相当)という大工事だった。翌年2月には、初めての稼動テストが行われ、さらなる調整が施された後、84年5月8日、エリザベス女王列席のもと、公式オープニングのセレモニーが厳かに開催されたのだった。
以来、テムズ・バリア稼動の指示が出されたのは2023年4月5日までの数字で208回を数える。従来なら洪水が起こっていたとされるレベルの非常事態を複数回経験。中でも2007年11月9日には、1日に2度、バリアが閉じられ、テムズ・バリアのコントロール室は異常な緊張に包まれた。この時の気象状態は53年に酷似するといわれ、一部では住民に避難勧告もなされたのだった。しかし高潮発生のタイミングは満潮とずれたため、53年レベルまで水位があがることはなく、関係者すべてが胸をなでおろした。

現在、テムズ・バリアでは、スタッフが交代で24時間365日、業務にあたっている。気象庁からの最新情報と、今までのデータを駆使したテムズ・バリア独自の分析情報をもとに、最高36時間先までのテムズ河の状況を予測、対応にあたる。バリアを閉じるには、合計で1時間半かかるうえ、船舶の往来を止めるためロンドンの港湾局(the Port of London Authority)に連絡をとり、付近の船舶に知らせるだけの時間的猶予なども考慮する必要があるからだ。
年間運営・メンテナンス費の800万ポンド、そして施設向上費用として1000万ポンドが主として税収からまかなわれているが、ロンドン中心部が洪水に見舞われた場合、経済損失だけでも800億ポンドは下らないといわれている(人的被害はこれには含まれていない)だけに、安心料として支払い続ける価値は十二分にあるといえそうだ。
取材を終えて、テムズ・バリアを再び眺めるために外に出てみた。秋の日差しの中、テムズの川面に影を落としながらピアーが整然と並んでいた。風の抵抗ができるだけ少なくて済むようにと設計された、特異な形のスチール製ドームが銀色に輝いている。それはまるで、輝く甲冑に身を包んだナイト(騎士)たちが、有事に備えてたたずんでいるようにも見えた。(了)
水の流れを調整しつつ、船舶も通す
テムズ・バリアの仕組み

バリア閉鎖の指令が出ると、水圧式アーム(黄色いクレーン状の部分)が動き、ゲートが回転。例えば高潮の影響を受け、水面が急激に上昇した状態で水が下流から押し寄せても、テムズ・バリアから上流へは、その水がのぼっていかないようになっている。テムズ・バリアでは水位が通常より7.20メートルあがっても対応できるようになっている。

テムズ・バリアは下流からの水を完全にせきとめるだけでなく、一部をせきとめるなど細かな調整が可能。また、定期的にメインテナンスが行われており、その日に見学にいけば、ゲートが閉鎖された状態を見ることも可能。日程についてはwww.gov.uk/guidance/the-thames-barrierのサイト内、「Forthcoming scheduled closures」にてご確認を。
テムズ・バリアのプロフィール
■ゲートの数は合計10。すべてスチール(鋼鉄)製。
*6つは回転開閉式で平常時は川底におさまるデザインで、テムズ河を往来する船舶の航行を妨げないようになっている。幅61メートルのものが4、幅31.5メートルのものが2。
*残りの4ゲートは岸に近く、平常時でも船舶の航行について配慮する必要がないため、開閉時には上下に動くのみというデザイン。

■ゲートを支えるピアーは合計9基。ピアーの土台は深いところで川底より17メートル(ダブルデッカーのバス4台分の高さ)掘り下げて設置されている。
■ゲート閉鎖の指令が出ても、全ゲートを一斉に閉じる訳ではない。各ゲートを閉じるのに10~15分を要し、全ゲートの閉鎖が完了するのには1時間半かかる。
Travel Information ※情報は2023年10月9日現在のもの。

Thames Barrier
1 Unity Way, Woolwich, London SE18 5NJ
Tel: 020 8305 4188
Floodline: 0345 988 1188
www.gov.uk/guidance/the-thames-barrier
インフォメーション・センター
4月~10月末 土のみ 10:30-15:30
大人 £5.50(学生£5) 子供 £4.30(5歳未満無料)
※カフェは閉鎖中。インフォメーション・センター入口で飲み物のみ購入可。
アクセス
公共交通機関
最寄にウリッジ・ドックヤード駅Woolwich Dockyard Station(ここから徒歩20~30分)、 ウリッジ・アーセナル駅Woolwich Arsenal Station(タクシーを利用する場合、この駅がお薦め)、チャールトン駅Charlton Stationなどがあるが、ロンドン中心部からなら、ジュビリー線でノース・グリニッジ駅North Greenwich(テムズ・バリアへはここから約2マイル)下車、そこからバスを利用するのが便利。バス161番、472番で約15分。バス停は「Charlton Station」の次の「Holborn College」。このバス停から徒歩7分ほど。
車
ロンドン中心部から行く場合、チャールトンCharlton・ウリッジWoolwich方面をめざす。A102(M)を経てA206(Woolwich Road)に入るあたりから、「Thames Barrier」と記された標識が現れるので、それを追っていけば良い。
週刊ジャーニー No.1312(2023年10月12日)掲載